第17章 曖昧な帰宅の誘い
バスカラの執務室からユダが先に歩み出ると、トリアはそのすぐ後ろに続いた。彼女は足を止め、ブラウスの裾を整えてから、シニヨンが乱れていないか指先で確かめる。
指先に忍び寄るわずかな震えを、深く静かな呼吸でなだめようとした。ユダがちらりと振り返る。彼女が遅れていないか、その足取りを確かめるような視線だった。
ユダに導かれ、広々とした廊下を抜けてオープンスペースへと向かう。そこは明るい木目のデスクが並び、キーボードを叩く音や社員たちの低い話し声が心地よい活気を作っていた。
窓際の角にあるデスクの一角で、ユダの足が止まった。モニターを見つめていた二人の女性が、二人の気配に気づいて顔を上げる。
「ミラ、セラ。紹介しよう、トリア・マヘスワリさんだ。明日から君たちのチームに加わる新しい事務スタッフだ」
ユダが落ち着いた声で告げると、細いフレームの眼鏡をかけた女性が、弾けるような笑顔で立ち上がった。彼女はエネルギッシュな動作でトリアに手を差し出す。
「はじめまして! ミラ・アニンディアよ。ミラって呼んで。やっと事務チームに新しい仲間が増えて嬉しいわ!」
ミラは快活に笑い、トリアはその手をしっかりと握り返した。
「トリアです。ミラさん、よろしくお願いします」
ミラの隣にいた肩までの髪の女性も立ち上がり、穏やかで温かい微笑みを浮かべた。
「セラ・カルティカです。歓迎するわ、トリアさん。ここのシステムで分からないことがあったら、遠慮なく聞いてね」
セラの親しみやすい言葉に、トリアの肩の力がふっと抜けていく。自分と同年代に見える二人の温かさに、もう自分はこの場所で「よそ者」ではないのだと感じられた。
ミラが自分の隣にある空席を指差した。そこには真新しいコンピュータと事務用品が整然と並んでいる。
「ここがあなたの特等席よ。バスカラさんから新人が来るって聞いていたから、今朝少し掃除しておいたの」
トリアはデスクに近づき、その滑らかな表面にそっと触れた。明日からここに座り、全く新しい人生の1ページを書き始める自分を想像する。
「どう? 明日の朝から来られそうかしら?」
セラが胸の前で腕を組み、優しく問いかけた。トリアは力強く頷く。その瞳には、先ほどまでにはなかった確かな自信が宿っていた。
「はい、準備はできています。明日は遅れずに参ります」
「頼もしいわね。明日、待ってるわ」
ミラが親指を立ててトリアに合図した。チームメイトとなる二人の人柄に触れ、トリアは二人に挨拶をして別れた。ここなら、互いに支え合ってやっていけると感じた。
ユダが再び合図を送り、同じフロアにある他の部署を案内し始めた。整然と並ぶパーティションの間を、二人はゆっくりと歩いていく。
廊下ですれ違う社員たちは、皆にこやかに会釈を返してくれた。中にはトリアに「歓迎するよ」と声をかけてくれる者もいた。
トリアは一歩一歩、丁寧にお辞儀を返した。この場所に受け入れられているという実感が、初めてこのビルに足を踏み入れた時の不安をかき消していく。
しかし、パントリーの方から洗練された装いの女性が現れた時、二人の足は止まった。彼女は床を鳴らすヒールの音さえも計算されているかのように、優雅な足取りで近づいてくる。
「あら、ユダ!」
甘ったるい、どこか媚びるような声が響いた。ユダは足を止め、短く頷く。
「おはよう、ユニ」
ユニ・ララサティと呼ばれたその女性は、ユダのすぐ傍に立った。濃いメイクで縁取られた瞳が、トリアの頭の先からつま先までを品定めするように見つめる。
「誰なの、その子? 新人さん?」
ユニは唇に笑みを浮かべてはいたが、その目は鋭く探索するように動いていた。
「ああ、トリアさんだ。ミラとセラのチームに入る新しい事務スタッフだよ。明日から勤務だ」
ユダの声は極めて事務的で、親密さを微塵も感じさせないものだった。ユニはしなやかな手をトリアの方へ差し出した。
「ユニ・ララサティよ。マーケティング部にいるの。よろしくね」
トリアはその手を短く握った。「トリア・マヘスワリです。ユニさん、よろしくお願いします」
握手を終えると、ユニの関心は即座にユダへと戻った。隣に立つトリアの存在など、最初からなかったかのような振る舞いだった。
「ねえユダ、後で一緒にランチに行かない? 向かいに新しいカフェができたんだけど、コーヒーがすごく美味しいんですって」
ユニがユダのシャツの袖に指先で軽く触れる。ユダは時計の位置を直すふりをして、その手をさりげなく、しかし確実に避けた。
「悪いが、行けない。午後は片付けなければならない報告書が山積みなんだ」
ユダの拒絶は淡々としていた。ユニの顔に一瞬だけ落胆の色が走ったが、彼女はすぐに華やかな笑顔を作ってそれをごまかした。
「そう、残念。じゃあ、また今度忙しくない時に誘うわね」
立ち去り際、ユニはもう一度だけトリアに鋭い視線を投げかけた。その美しい瞳の奥には、隠しきれない不快感が滲んでいた。
遠ざかっていくユニの背中を、トリアは黙って見送った。ガラス扉の向こうに彼女の姿が消えると、ユダは再びトリアに向き直った。その表情は、いつもの冷静なものに戻っている。
「今日の紹介はこれくらいで十分だろう。デスクも確認したし、チームのメンバーにも会えたからな」
トリアは胸に溜まっていた息を長く吐き出した。そして、心からの感謝を込めてユダを見つめる。
「ありがとうございました、ユダさん。案内していただいたおかげで、不安がすっかり消えました。明日から、落ち着いて始められそうです」
二人が静かなエレベーターに乗り込むと、ユダが1階のボタンを押した。銀色の扉が閉まり、狭い空間にわずかな沈黙が流れる。
トリアは隅に立ち、表示板の数字が小さくなっていくのを眺めていた。隣に立つユダの静かな存在感を感じる。言葉はなくとも、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
チーン、と音がして扉が開く。ユダが手で示し、トリアを先にロビーへと促した。受付や警備員の前を通り過ぎ、二人はビルの外へと出る。
エントランスのポーチで、トリアは足を止めてユダに向き直った。
「ユダさん、本当にありがとうございました。お忙しいのに、私のために貴重な時間を割いて付き添ってくださって……感謝しています」
ユダはスラックスのポケットに両手を入れ、少しリラックスした様子でトリアを見つめた。
「気にするな。ずっとデスクでコンピュータに向かっているより、いい運動になったよ」
彼は一度言葉を切り、駐車場の方へ視線を向けてから、再びトリアの瞳をじっと見つめた。
「さて、それじゃあ帰ろうか」
その言葉を聞いた瞬間、トリアの思考が止まった。彼女は困惑した表情でユダを見つめる。
「帰るって……それは、どういう意味ですか?」
トリアの反応に、ユダは自分の言葉が誤解を招いたことに気づき、ハッとしたように姿勢を正した。ポケットから手を出し、きまずそうに視線を泳がせる。
「あ、いや……シャニアさんの家まで送るという意味だ。一緒に住むとか、そういう意味じゃなくて……」
ユダの頬がみるみるうちに赤らみ、耳の先まで熱を帯びていく。自分の言い方があまりにも曖昧だったことに気づき、彼はひどく狼狽していた。
その様子がおかしくて、トリアの唇に小さな笑みがこぼれた。
「ふふ、そういうことですね」
ユダは小さく咳払いをし、少しぎこちなく首を動かしてバイクの駐輪場の方を指し示した。
「行こう。日差しが強くなる前に」
今度は誤解を与えないよう、慎重に言葉を選びながら、ユダは歩き出した。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
ユダのちょっとしたドジっ子っぷり、楽しんでいただけたなら嬉しいです。
トリアの新たな職場での日々が、どう展開していくのか。
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次の章でも、またお会いしましょう。




