第15章 バリでの新たな計画
トリアは柔らかいソファのクッションに深く背を預け、大きく息を吸い込んだ。受話器の向こうからは、サンティの急かすような声が聞こえてくる。彼女はトリアの答えを今か今かと待ちわびているようだった。
トリアはわずかに眉を寄せ、親友の言葉の意味を反芻した。脳裏をよぎるのは、昨日の空港での混乱だ。搭乗ゲートの前で、自分の世界が音を立てて崩れ去ったあの瞬間。
「男の人って、誰のこと?」
サンティは小さく鼻を鳴らし、電話越しに衣擦れの音が聞こえた。サンティが話しやすいように体勢を変えたのだろう。
「今朝、ハルランが私のデスクに来たのよ。顔はひどいし、身なりもボロボロ。すごく落ち着かない様子で、朝からずっとうろうろしてたわ。それで、昼休みになる直前にようやく勇気を出して聞いてきたの」
トリアは沈黙した。指先が無意識にクッションの端を弄ぶ。苛立ちを募らせるハルランの顔が容易に想像できた。以前なら罪悪感を覚えたはずのその光景も、今のトリアにとっては酷く味気ないものに感じられた。
「空港であなたと一緒にいた男は誰だって、私に聞いてきたわ」
サンティは満足げに小さく笑った。親友を傷つけた男が狼狽する様子を、心底楽しんでいるようだった。
「もちろん、知らないって答えておいたけどね」
その言葉に、トリアの唇からも微かな笑みが漏れた。サンティが誰のことを言っているのか、ようやく理解できた。ハルランの前に立ちはだかり、自分を守るように遮ったユダの背中が鮮明に蘇る。
「ああ……あの人はユダっていうの、サンティ」
笑い終えたトリアは、背筋を伸ばして座り直した。窓の外には、シャニアの家の前にある小さな庭が広がっている。
「シャニアさんの友人よ。昨日、彼も偶然バリに行く用事があったみたいで。私の状態を心配したシャニアさんが、付き添いをお願いしてくれたの」
トリアは、朝から放置していたスマートフォンの通知の山を思い出した。一瞬だけ画面に目を落としたが、すぐに意識を会話に戻す。
「今朝からハルランの電話もメッセージも、わざと無視してる。今はただ、ここで静かに過ごしたいから」
サンティが大きく息を吐く音が聞こえた。その声には、先ほどまでとは違う安堵の色が混じっている。
「よかった。あっちで一人きりなんじゃないかって心配してたのよ。でもちょっと待って、シャニアのやつ、そのユダって人のこと私には何も言ってなかったわ」
サンティが少し拗ねたような声を出し、二人は電話越しに笑い合った。口を尖らせて不満を漏らす親友の顔が目に浮かぶようだった。
「トリア、あなたの声が少し明るくなって安心したわ。今はそこでゆっくり心を休めて。あのろくでなしのことは、もう考えちゃダメよ」
サンティの真摯な言葉に、トリアは深く頷いた。どんな状況でも自分の味方でいてくれる友人がいることを、心から幸運に思う。
「ありがとう、サンティ。そうするわ。……あ、それから、ちょっとお願いしたいことがあるの。私の卒業証書のことなんだけど」
トリアは話題をこれからの計画へと切り替えた。
「卒業証書? どうするの、トリア」
サンティの不思議そうな声に、トリアはアルカディア・プライム・サヌールのビルで受けてきたばかりの面接について話し始めた。シャニアが繋いでくれたチャンスのこと、そしてその結果が非常に前向きなものであることを。ただ、急いでジャカルタを離れたために、必要な書類をマンションに置いたままにしてしまったのだ。
説明を聞き終えるなり、サンティは耳が痛くなるほどの歓声を上げた。
「すごいじゃない、トリア! もう次の仕事を見つけるなんて。安心して、今日の仕事帰りにすぐあなたのマンションに寄るから」
「本当に助かるわ、サンティ。あなたがいなかったら、どうすればいいか分からなかった」
トリアが感謝を伝えると、サンティは短く笑った。そして、少し声を潜めて別の重要な問いを投げかけてきた。
「それで、ジョグジャの両親にはどう話すつもり? バリにいることはもう伝えたの?」
トリアは動きを止め、冷たい大理石の床に触れている自分のつま先を見つめた。昨夜からずっと考えていたことだ。
「これからお父さんとお母さんに連絡するわ。心配させたくないから……仕事でバリに転勤になったって、そう伝えるつもり」
サンティは深く息を吐き、その決断に同意した。ハルランとの間に起きた泥沼の騒動を、わざわざ両親に知らせる必要はない。
「ええ、それが一番いいわね。仕事の都合だって言えば、二人も安心するでしょうし」
その後、二人の会話は他愛のない話題へと移っていった。トリアが元の職場の同僚たちの様子を尋ねると、サンティはいくつか可笑しな噂話を披露し、トリアを何度も笑わせた。長い会話を終える頃には、トリアの心は驚くほど軽くなっていた。
*
同じ頃、ジャカルタの中心部にある高級カフェでは、全く異なる空気が流れていた。周囲の客たちの談笑に混じって、磁器の皿にスプーンが当たる硬質な音が響く。
ハルランとクラリッサは昼食を終えたところだった。しかし、テーブルを包む空気は冷え切っている。車の中にいた時から、ハルランはほとんど口を開こうとしなかった。
クラリッサはゆっくりとフォークを置き、椅子に背を預けた。目の前で、心ここにあらずといった様子で俯いているハルランを観察する。
ハルランは視線を落としたまま、半分ほど残ったジュースのストローを指先で弄んでいた。その瞳は、グラスの中で溶けゆく氷を虚ろに見つめている。
「ハルラン? どうしたの? 車の中からずっと黙ったままだわ」
クラリッサは、努めて柔らかな声で問いかけた。
ハルランはびくりと肩を揺らし、どこか呆然とした様子で顔を上げた。そして、自分の動揺を隠すようにぎこちない笑みを浮かべる。
「え? ああ、何でもないよ。仕事で急ぎの案件があって、そのことを考えていただけだ」
ハルランは首筋を掻きながら答えた。
クラリッサは小さく頷き、愛らしい微笑みを湛えた。テーブルの上にあるハルランの手に自分の手を重ね、慈しむように優しく撫でる。
「あまり根を詰めすぎないで、あなた。仕事よりも、あなたの体の方がずっと大切なんだから」
ハルランは短く頷くだけに留めた。そしてすぐに視線を逸らし、彼女と目が合うのを避ける。
ハルランは生返事でその言葉を受け流したが、心はここにはなかった。空港でユダと共に去っていったトリアの残像が、今も執拗に脳裏に焼き付いている。
(あの女のことが、まだ頭から離れないっていうの?)
クラリッサは心の中で激しく毒づいた。ハルランがこれほどまでに心乱している理由が、トリアにあることなど容易に察しがつく。
彼女はテーブルの下で拳を固く握りしめ、胸を焼くような嫉妬を必死に抑え込んだ。ハルランを奪い取ったはずなのに、まだ完全には自分のものになっていないという焦燥感がこみ上げる。
作り物のような笑みの裏で、クラリッサは鋭い視線をハルランに向けた。過去の影が、自分たちの関係を今もなお色濃く支配していることに、彼女は苛立ちを隠せなかった。
トリアが自分の足で歩き始めました。ハルランの後悔も描きました。どちらの気持ちも複雑です。続きもぜひ。ブックマークお願いします。




