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第11章 失くした自分を探して

 アラームの音ではなく、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、トリアの意識をゆっくりと浮上させた。重い瞼を押し上げると、数秒の間、自分がどこにいるのか分からず虚空を見つめた。


 八時間以上も眠ったはずなのに、体は鉛のように重い。けれど、ここ数日の間ずっと耳の奥で鳴り響いていたハルランの声や、脳裏に焼き付いていたクラリッサの姿は、今朝は影を潜めていた。代わりにあったのは、微かな静寂と、ようやく見つけた呼吸のための空白だった。


 ゆっくりと部屋を見渡す。真っ白な壁、隅に置かれた簡素な木の棚、そして潮風に吹かれてゆらゆらと揺れるクリーム色の薄いカーテン。


 床には、水色のビーチサンダルがベッドの脇に揃えて置かれていた。昨夜、シャニアが用意してくれたのだろう。トリアは毛布を胸元まで引き寄せた。寒さを感じたわけではない。ただ、まだどこか現実味のない世界から、自分を守りたかった。


 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。胸のざわつきは完全には消えず、締め付けられるような感覚も残っている。けれど、そこには以前のような、息もできないほどのパニックはなかった。誰の前でも「強い自分」を演じなくていいという事実に、心が少しだけ軽くなっているのを感じた。


 トリアはゆっくりと起き上がり、冷たい床に足を下ろした。慎重な足取りで部屋のドアを開ける。遠くから、鍋が触れ合う音と、柔らかなアコースティックギターの旋律に乗せたバリの伝統的な調べが聞こえてきた。


 台所では、シャニアが手際よくトーストにピーナッツバターを塗っていた。トリアの足音に気づくと、彼女は振り返って微笑んだ。


「おはよう」


「おはようございます、シャニアさん」


 寝起きのせいで、トリアの声は少し掠れていた。


 洗面所で顔を洗い、歯を磨いてから、トリアは台所のシャニアの元へ向かった。朝食の手伝いを申し出たが、シャニアはジャムの瓶の蓋を閉めながら首を横に振った。「座ってて。もうすぐ出来上がるから」


 トリアはその言葉に従い、木製の椅子に腰を下ろした。壁にかかった時計は、ちょうど八時を指している。


「あの……シャニアさん、今日はお仕事は……?」


「今日は休みを取ったの」


 シャニアはサンドイッチの載った皿をテーブルに置くと、トリアの隣に座った。そして、慈しむようにトリアの頭を撫でた。まるで、幼い妹をあやす姉のような、温かな手つきだった。


「悲しみに暮れている私の可愛い妹分を、一人にはしておけないもの」


「……ごめんなさい。私のせいで、迷惑をかけてしまって」


 トリアが俯くと、シャニアはきっぱりとした口調でそれを遮った。


「迷惑なんてこれっぽっちも思ってないわ。それに、私もたまにはゆっくり休みたかったしね」


 トリアは小さく頷いた。穏やかな音楽が流れる中、二人は朝食を摂った。シャニアは時折、天気のことや好きな食べ物のこと、そしてジャカルタにいる親友のサンティのことなど、他愛のない話題を振ってくれた。


 トリアはぽつりぽつりと答えていたが、サンティの話になると、その口元に微かな笑みが浮かんだ。


 食事を終えると、シャニアは食器を片付け始めた。「先にシャワーを浴びてくるわね」


 浴室に入る直前、彼女はもう一度トリアを振り返った。その瞳には微かな憂いがあったが、彼女は何も言わず、ただ小さく頷いて静かにドアを閉めた。


 ダイニングに一人残されたトリアの耳に、浴室から漏れる水の音と外を吹き抜ける風の音が混じり合って聞こえてくる。空になったグラスの横に置かれたスマートフォンに、ゆっくりと手を伸ばした。


 画面を点けると、通知は何一つなかった。メッセージも、着信も。指が吸い寄せられるように動き、インスタグラムのアプリを開く。


 トリアの指が、ハルランのアイコンの上で止まった。唾を飲み込む。画面に映し出されたのは、二人の最後の写真だった。すべてが崩れ去る前夜、彼のアパートで撮ったものだ。


 二人は笑っていた。ハルランの腕が彼女の肩を抱き、トリアは穏やかな表情でティーカップを手にしている。あの時は、自分たちの未来は輝かしいものだと、心から信じていた。


 胸が激しく締め付けられる。視界が熱くなり、景色が滲んだ。記憶が幾重にも重なって押し寄せる。耳元で囁かれたハルランの優しい声、温かな抱擁、結婚の約束。それらはあまりにも鮮明で、美しく、完璧だった。


 けれど、その記憶を塗りつぶすように、別の光景が蘇る。毒を孕んだクラリッサの声、人前で自分を怒鳴りつけたハルランの顔。そして、自分がかけがえのないものを捧げたあのベッドの上で、重なり合っていた二人の影。


 トリアは、開いたばかりの傷口を塞ぐように、慌ててアプリを閉じた。スマートフォンをテーブルに置き、手の甲で目元を拭う。


 震える呼吸を、必死で抑え込んだ。泣き叫ぶことも、声を上げることもない。ただ、重苦しい沈黙の中で、彼女は今日一日、二度とあのアプリを開かないという小さな決意を固めた。


 しばらくして、浴室のドアが開く音がした。バスタオルを一枚巻いただけの姿で出てきたシャニアを見て、トリアは急いで自分の部屋へ向かい、着替えとタオルを手に取った。


 シャワーを浴びて部屋に戻ると、ジャカルタから持ってきた軽いブラウスとショートパンツに着替えた。髪を緩くまとめ、サングラスを首元にかける。


 三十分後、二人は家を出た。太陽はすでに高く昇っていたが、海風のおかげで空気は涼やかだった。シャニアは小さなバッグを肩にかけ、トリアはスマートフォンと財布だけを手に持っていた。


 狭い歩道をゆっくりと歩き、まだ開店前の土産物屋や小さなコーヒーショップを通り過ぎる。


 やがて一軒のカフェに辿り着いた。サヌールビーチを真正面に望むテラス席に陣取る。大きなパラソルの下に木製のテーブルが並び、遠くから寄せては返す波の音が心地よく響いていた。二人は他の客から少し離れた、一番端の席に座った。


 トリアは黙って海を見つめた。波が来ては去っていく様子が、不思議と心を落ち着かせてくれる。シャニアは二つ分の若いココナッツジュースを注文すると、トリアの横顔をじっと見つめてから、静かに口を開いた。


「私もね、壊れるような愛され方をしたことがあるの」


 彼女の視線もまた、海へと向けられた。


「浮気をしているのは彼の方なのに、私が悪いのだと思い込まされるまで、巧妙に操られていたわ」


 トリアはゆっくりと顔を上げ、真剣な眼差しで彼女を見つめた。


「私が救われたのは、耐え続けたからじゃない。勇気を持って立ち去る決めたからよ。だから、あなたの決断も間違ってない。あんな卑劣な浮気男とは縁を切って正解だったのよ」


 シャニアが言葉を締めくくると、トリアの瞳に涙が溜まった。彼女は震える唇を噛み締め、小さく頷いた。シャニアの手が、トリアの背中を優しく撫でる。


「今は、自分のためだけに時間を使って。傷から逃げるためじゃなく、その傷跡と向き合い、受け入れるためにね」


 注文していたココナッツジュースが運ばれてきた。ストローを弄びながら、シャニアはトリアの表情の変化を見守った。強張っていた頬が緩み、遠くを見つめる瞳に深みが増し、呼吸が深くなっていく。彼女は何も言わず、ただ待っていた。


 トリアはゆっくりとジュースを啜りながら、過去の自分を思い出していた。もっと屈託なく笑い、自信に満ち溢れ、多くの友人に囲まれていた自分。けれど、彼と付き合い始めてから、すべてが変わってしまった。自分を閉ざし、彼に「愛されるに値する女」だと思われるために、本来の自分を消し去ってしまったのだ。


「昔の自分が……恋しい」


 トリアの呟きは、波の音にかき消されそうなほど小さかった。


「彼女はまだ、そこにいるわよ」


 シャニアが穏やかに言った。


「ただ、少し疲れて休んでいるだけ。ゆっくり休ませてあげれば、きっとまた戻ってくるわ」


 トリアが顔を上げると、その瞳には涙が光っていたが、同時に小さな光も宿っていた。それは誰かに向けられた期待ではなく、自分自身への希望だった。彼女は長く深い息を吐き出し、小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、シャニアさん」


 シャニアはトリアの腕をそっと撫でると、立ち上がった。


「さあ、帰りましょうか。暑くなる前に」


 二人は心地よい沈黙に包まれながら、家路についた。トリアは多くを語らなかったが、その足取りは以前よりもずっと軽かった。背中にべったりと張り付いていた重荷が、ようやく剥がれ落ち始めたかのように。


バリでの生活、少し落ち着きましたね。トリアが自分を取り戻せるか、見守ってね。ブックマークしてくれると嬉しいな。

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