第10章 回復への足取り
機内は少しずつ埋まっていく。乗客たちの足音と、通路を転がるスーツケースのキャスター音が重なり合い、独特の喧騒を生んでいた。客室乗務員はプロらしい微笑みを絶やさず、通路に立って乗客たちを誘導している。
トリアとユダは、一足先に中央列の座席に腰を下ろしていた。トリアは窓側の席を選び、まだ締めていないシートベルトを左手で固く握りしめている。
ユダは真ん中の席に座った。その背筋は硬く、両膝を揃えた姿勢はどこか窮屈そうだ。彼はちらりと隣のトリアに視線を向けたが、彼女に余計な気を使わせまいと、すぐに視線を正面へと戻した。
他の乗客たちが二人の横を通り過ぎていく。頭上の荷物入れの狭さに不満を漏らしながら荷物を押し込む者、引っかかったバッグを強引に引く者。機内には慌ただしい空気が流れていた。
「皆様、間もなくドアが閉まります。シートベルトをお締めください……」
スピーカーから流れる客室乗務員の柔らかな声も、今のトリアには遠くの出来事のように感じられた。彼女の頭の中は、先ほど起きた出来事の残像で埋め尽くされている。
トリアはシートベルトをカチリと締めた。視線は窓の外に固定され、絵画のように静止した主翼を見つめている。その表情に起伏はなく、穏やかとも、あるいは怒りに満ちているとも言い難い。
ユダは緊張を逃がすように、スラックスの上で両の手のひらをそっと拭った。数秒の躊躇いの後、彼はトリアの方へわずかに身を寄せた。
「……何か必要なものがあったら、言ってくれ」
彼の声は低く、壊れやすいものに触れるかのように慎重だった。
トリアは小さく頷くだけにとどめた。「ええ……ありがとう」
飛行機がゲートから離れ、ゆっくりと後退を始める。機内の照明が落とされ、足元から微かな振動が伝わってきた。客室乗務員たちが、訓練された無駄のない動きで安全上の指示を実演し始める。
「皆様、こんにちは。当機は間もなくデンパサールへ向けて離陸いたします。飛行時間は1時間45分を予定しております……」
機長の声が機内に響き渡る。その毅然とした響きが、わずかに空気を引き締めた。
離陸してしばらく経ち、機体が安定した高度に達すると、窓の外には広大な白い雲の海が広がった。
夕暮れの柔らかな光が機内に差し込み、穏やかな情景を作り出す。しかし、トリアの心象風景はその静寂とは正反対の場所にいた。彼女はほとんど身動きもせず、ただ外の景色を見つめ続けている。
ユダは手持ち無沙汰を紛らわせるように、安全のしおりを手に取った。内容を読み込むわけでもなく、ただページをめくる。時折、隣に座るトリアの強張った肩を盗み見ては、声をかけるべきか迷い、結局は口を閉ざした。
トリアの思考は、出口のない迷路を彷徨っていた。
(ジャカルタを離れるという決断は、本当に正しかったのだろうか。もし、ハルランが本当に変わろうとしていたのだとしたら……)
時間は緩やかに流れていく。会話はなく、ただエンジンの重低音だけが二人を包んでいた。1時間を過ぎた頃、機体は徐々に高度を下げ始めた。
窓の外にデンパサールの街並みが見えてくる。家々の屋根、海岸線、そして次第に鮮明になっていく滑走路。
タイヤが地面を捉え、軽い衝撃と共に機体が減速していく。
「皆様、イ・グスティ・ングラ・ライ国際空港に到着いたしました」
アナウンスが流れる中、トリアは深く息を吐き出した。これが新しい始まりなのだと自分に言い聞かせる。たとえ、それが予期せぬ形であったとしても。
乗客たちが一斉に立ち上がり、荷物を取り出し始める。トリアとユダも人の流れに乗り、狭い通路を抜けて明るい空港のロビーへと足を踏み入れた。
手荷物受取所で、ユダはベルトコンベアの脇に立ち、トリアが口を開く前に彼女の大きなスーツケースを引き上げた。二人はそのままタクシー乗り場へと向かう。
一歩外へ出ると、バリ特有のねっとりとした温かい空気が二人を包み込んだ。風が微かに潮の香りを運び、夕闇が迫る空港の灯りが鮮やかに輝き始めている。
「タクシーで行こうか」
ユダの短い問いに、トリアは小さく頷いた。「ええ」
二人は空港タクシーに乗り込み、ドアが静かな音を立てて閉まった。
車が走り出すと、ユダは背もたれに体を預けた。「まずはシャニアさんの家まで送るよ」
「ユダさん……ありがとう。それから、迷惑をかけてごめんなさい」
トリアは無理に口角を上げようとした。ユダはそれに応えるように、微かだが温かい微笑みを浮かべた。
「気にしないで。本当に」
タクシーは空港の敷地を抜け、サヌールへと向かう。30分ほどの道のりは、静寂の中に過ぎていった。
サヌールの住宅街に入ると、車の速度が落ちた。辺りは静まり返り、タクシーはある一軒の家の前で止まった。モダンでミニマルな造りのその家には、低い柵と手入れの行き届いた小さな庭があった。
ユダが先に降りてトランクへ向かう。数秒遅れてトリアも車を降りたが、その足取りは重く、肩には疲労が滲み出ている。
ユダの手からスーツケースを受け取ろうとしたトリアだったが、彼はそれを制するように首を振った。
「僕が運ぶよ」
拒絶を許さない、だが穏やかな口調。トリアはそれ以上何も言えず、唇を少し尖らせてから、大人しく彼の後に続いた。
玄関の扉が開き、シャニアが姿を現した。ラフなTシャツにパンツ姿、肩にはウェーブがかった黒髪が流れている。外に立つ二人を認めた瞬間、彼女の表情に影が差した。
「トリア……」
シャニアの声は低く、深い心配の色が混じっていた。彼女は足早に歩み寄り、トリアを力強く抱きしめた。その腕は温かく、壊れそうなトリアを守るように包み込む。
「大丈夫? 本当に大丈夫なの?」
シャニアが耳元で囁く。
「ええ、シャニアさん……ユダさんが助けてくれたから。じゃなきゃ、私……」
トリアの声は次第に細くなり、喉の奥が詰まったように途切れた。
シャニアはゆっくりと腕を解き、数歩後ろでスーツケースを置いて立っているユダに視線を向けた。
「ユダ、本当にありがとう。迷惑をかけちゃってごめんなさいね」
「いえ、そんなことはありません」
ユダは小さく会釈をして答えた。シャニアは家の中を指差し、温かい声をかける。
「よかったら、中に入って休んでいかない?」
ユダはポケットに手を入れたが、すぐに首を振った。「すみません、今日はこれで失礼します。上司から至急会いたいと連絡が入っていて」
シャニアは納得したように頷いた。「そう、残念ね。また今度、ゆっくり寄ってちょうだい」
「必ず」
ユダはそう言い残し、トリアにスーツケースを預けた。トリアは両手でそれを受け取り、わずかに頭を下げる。
「……いろいろと、ありがとうございました」
ユダは口元をわずかに緩め、一度だけ頷くとタクシーへと戻っていった。エンジンの音が響き、車はゆっくりと闇の中へ消えていく。
シャニアがトリアの腕に優しく手を添えた。「さあ、入りましょう」
扉が閉まると、家の中の温かな空気が二人を包み込んだ。リビングは柔らかな間接照明に照らされ、グレーのソファが心地よさそうに鎮座している。空気中にはラベンダーの香りが微かに漂っていた。
「とりあえずソファに座って。荷物は私が部屋に運んでおくから」
シャニアはトリアの手からスーツケースを受け取ると、客間へと向かった。トリアは吸い込まれるようにソファに体を沈め、背もたれに深く寄りかかった。
「ありがとうございます、シャニアさん……」
荷物を置いたシャニアが、足早に戻ってきた。冷蔵庫から冷えた飲み物を二つ取り出し、トリアの隣に座る。
「はい、これ。まずは一口飲みなさい」
トリアはそれを受け取り、小さく頷いた。
シャニアはトリアの横顔をじっと見つめた。その表情は厳しいが、それはトリアを責めているのではなく、彼女を傷つけたものに対する怒りを必死に抑えているようだった。
「ごめんね、トリア……。今は頭が混乱しているでしょうし、本当は何も聞きたくないんだけど。サンティから話を聞いて、どうしても黙っていられなくて」
トリアは深く息を吐き、サングラスを外した。テーブルに置かれたその下から現れたのは、赤く腫れ上がり、隈の浮き出た瞳だった。
シャニアの目にも、微かな涙が浮かぶ。彼女はそっと手を伸ばし、トリアの頭を撫でた。その腫れた瞳の奥に、トリアがどれほどの苦しみを一人で抱え込んできたのかが透けて見えた。
「……あなたはもっと幸せになるべきよ。あんな男、あなたには相応しくない」
トリアはかすかに微笑んだ。それは微笑みというよりも、今にも崩れ落ちそうな自分を必死に繋ぎ止めている、危うい表情だった。
ようやくバリに到着しました。ここからは少し落ち着いた展開になります。トリアが癒やされるまで、もう少し見守ってね。ブックマークしておいてね。




