第五章 境界線
その日は、朝から少し蒸し暑かった。
公園の砂場には、前日の雨が少しだけ残っていて、踏むと柔らかく沈む。愛美は滑り台の方で遊び、小夜は砂場の端にしゃがみ込んで、両手で泥をこねていた。
健介はベンチに座り、二人の様子を交互に眺めていた。
愛美が水場の方へ行っている間も、小夜は一人で砂に水を混ぜ続けていた。何度も何度も手を入れて、気がつけば腕も膝も、服の裾も泥で汚れていく。
やがて愛美が戻ってきた頃には、小夜は一人だけ、すっかり泥だらけになっていた。
「さよちゃん、すごい!」
愛美が笑う。
小夜は小さく笑い返すだけだった。
健介は立ち上がり、二人の足元を見た。
「これは、そのままじゃ帰れないな」
愛美はほとんど汚れていない。小夜だけが、どうしてもこのままではいられない状態だった。
「風呂、入るか」
そう言うと、小夜は何も言わず、こくんとうなずいた。
家に戻り、愛美にはリビングで遊んで待っていてもらい、健介と小夜だけが風呂場へ向かった。
泥を流すと、肌の白さが戻ってくる。健介はシャワーで丁寧に腕や足を洗ってやった。
「ごめんね」
小夜が小さく言った。
「なにが?」
「よごしちゃって」
「遊んだんだから、仕方ないよ」
そう言って背中を流してやると、小夜は静かに体を預けてきた。
風呂から上がると、小夜の服はそのまま洗濯機に入れ、乾燥機を回した。
問題は、その間に着るものだった。
愛美の服では小さすぎる。恵美の服を勝手に使うのも気が引ける。
少し考えてから、健介は自分のTシャツを一枚取り出した。
「これ、着てていいよ。乾くまでだけな」
小夜は素直に受け取り、大きめのTシャツをすっぽりとかぶった。裾が膝のあたりまで下がる。
そのままリビングに戻り、愛美の隣に座る。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
恵美が帰ってきた。
リビングに足を踏み入れた瞬間、小夜の姿が目に入る。
健介のTシャツを着たまま、愛美と並んで座っている。
恵美の表情が、ぴたりと止まった。
「……何であの子に、貴方の服を着せてるの!?」
思った以上に強い声だった。
健介は少し驚いたが、落ち着いて答えた。
「公園で遊んでて泥だらけになったから風呂に入れて、服は洗って乾かしてる。だからその間だけ着せてる」
恵美は小夜から視線を外さない。
「愛美の服は小さくて入らないし、お前の服を勝手に着せるわけにはいかないだろ」
そう言われて、恵美は何も言い返せなくなった。
理屈としては、正しい。
「……そう」
短くそれだけ言うと、恵美はキッチンの方へ向かった。
納得した、というより、言い返せなかったという表情だった。
その日の夜、恵美はあまり小夜の方を見ようとしなかった。
やがて乾燥機が止まり、小夜は自分の服に着替えて帰っていった。
それから間もなくして、恵美は産休に入ることになった。
お腹も目に見えて大きくなり、医者からも無理をしないよう言われたのだ。家にいる時間が増え、愛美の面倒も、家のことも、これまで以上に恵美が中心になっていった。
それでも、小夜は変わらず遊びに来た。
公園で遊び、そのまま家に来る。リビングで二人が遊び、健介が仕事の合間に顔を出す。そんな日常が続いていた。
だが、ある日の午後。
恵美がキッチンに立っていた時だった。
玄関の方から、かすかな物音がした。
ふと顔を向けると、玄関のドアが少し開いている。その前に、小夜と愛美が立っていた。
愛美が外に出ている。
小夜が、内側からドアを閉めようとしていた。
「ちょっと!何やってるの!?」
思わず声が出た。
小夜がびくっと振り返る。
その瞬間、恵美は玄関へ駆け寄っていた。
小夜の肩を強く押しのけるようにしてドアを開け、外に出てしまっていた愛美の手を引き、家の中へ引き入れる。
愛美は驚いたのか、泣き出していた。
「大丈夫、大丈夫……」
抱きしめながら、ドアを閉める。
振り返ると、小夜が玄関の脇に立っていた。よろけたのか、壁に手をついている。
その様子を見て、奥の部屋から健介が出てきた。
「どうした?」
玄関の空気が、張り詰めている。
「……何があった?」
恵美は、まだ泣いている愛美を抱きしめたまま言った。
「この子が……愛美を外に出して、鍵を閉めようとしてたの」
小夜は何も言わない。ただ、下を向いている。
健介は、小夜の方を見た。
「……小夜?」
小夜は、ゆっくりと首を振った。
声は出さない。
健介は眉をひそめて、恵美の方を見た。
「お前、今……この子、突き飛ばしただろ」
「だって!」
恵美の声が震える。
「愛美が外に出てて、ドア閉めようとしてて……!」
「だからって、突き飛ばすことないだろ」
健介の声は、低かった。
恵美は言葉を失った。
「この子がそんなことするわけないだろ」
静かに、そう言った。
恵美は、何も言い返せなかった。
ただ、愛美を抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。




