第四章 呼び名
公園で遊ぶ時間は、すっかり尾長家の日常の一部になっていた。
平日は学校帰りの小夜が顔を出し、土日は昼前から愛美と並んで遊ぶ。滑り台やブランコに飽きると、二人は決まって砂場へ向かった。
その日も、夏の気配が近づいた少し蒸し暑い午後だった。
小夜が、健介のそばに立っていた。遊び始める前の、ほんの短い時間。なにか言いたげに、視線を足元に落としている。
「あの……」
「どうした?」
小夜は少し迷ってから、小さな声で言った。
「……パパって、呼んでもいい?」
健介は一瞬、言葉を失った。
予想していなかったわけではない。けれど、いざ言葉にされると、どこか胸の奥を掴まれたような気持ちになった。
小夜は顔を上げずに続けた。
「みんな、そう呼んでるから」
周りの子供たちが、父親をそう呼ぶ声を聞いているのだろう。
健介は、ほんの少しだけ考えた。
だが、目の前にいる小さな背中が、断られるのを覚悟しているようにも見えた。
「……いいよ」
そう言った瞬間、小夜が顔を上げた。
「ほんと?」
「ああ」
小夜は、ほんの少しだけ間を置いてから、確かめるように言った。
「……パパ」
その呼び方は、とても小さくて、どこか大事にするような響きだった。
それが妙に胸に残った。
その日、二人は砂場で思いきり遊んだ。
愛美がバケツに水を入れて持ってきて、砂にかける。小夜がそれを手で混ぜて、泥を作る。気づけば二人とも膝から下が泥だらけになっていた。
「ぱぱ、みて!どろどろ!」
愛美が笑いながら手を差し出す。
「うわ、すごいな……」
健介は苦笑した。
小夜も同じように、両手を泥で汚していたが、どこか嬉しそうだった。
「大丈夫だよ。あとで洗えばいいから」
そう言うと、小夜は安心したように笑った。
家に帰ると、玄関の前で靴を脱ぎながら、健介は二人の足元を見てため息をついた。
「これは、そのままじゃ上がれないな」
「おふろ?」
愛美が目を輝かせる。
「そうだな。先に風呂入るか」
小夜は少しだけ戸惑った顔をした。
「……いいの?」
「いいよ。泥だらけだし、そのまま帰るのも大変だろ」
三人で風呂に入ることになった。
湯船にお湯を張りながら、健介はなんとなく不思議な気持ちになっていた。
自分の娘と、もう一人の子供と、三人で風呂に入る。
ついこの前まで、考えたこともなかった光景だった。
「パパ、あつい!」
愛美が先に足を入れて騒ぐ。
そのすぐあと、小夜も続いて言った。
「パパ、ここすべる」
自然に出た言葉だった。
健介は一瞬だけ驚いたが、何も言わずに小夜の腕を支えた。
「気をつけろよ」
「うん」
その返事は、どこか甘えるようだった。
それからというもの、小夜は少しずつ変わっていった。
最初は愛美とばかり遊んでいたのに、気づけば健介のそばにいる時間が増えていった。公園でも、家の中でも、自然と隣に座るようになる。
「パパ、これ見て」
描いた絵を見せてきたり、袖を引いて呼んだり。愛美が別の遊びに夢中になっていても、小夜は健介の近くにいることが多くなった。
その甘え方は、わがままというより、遠慮がちなものだった。ただ、そばにいるだけで安心するような、そんな距離の取り方だった。
恵美がその変化に気づかないはずはなかった。
ある日、恵美が休みの日の午後。
リビングで、愛美と小夜が遊んでいる。健介はその隣に座って、二人の様子を見ていた。
「パパ、これもって」
小夜がそう言って、ブロックを差し出す。
「ああ」
健介が受け取ると、小夜はそのままぴったりと肩に寄り添った。
愛美もすぐに反対側にくっつく。
「ぱぱ、みて!」
両側から声をかけられ、健介は少し笑った。
恵美は、その様子をキッチンから見ていた。
なにも言わず、ただ静かに。
その夜、愛美を寝かしつけたあと、リビングで二人きりになった時だった。
「ねえ、健介」
「ん?」
「小夜ちゃんのことなんだけど」
恵美は、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「あの子、あなたのこと……ほんとにパパみたいに思ってるよね」
「……そうだな」
「悪いことじゃないのは、分かってるの」
恵美はすぐにそう付け加えた。
「でもね」
一拍、間を置く。
「愛美のことは、ちゃんと一番にしてあげてほしいの」
責めているわけではなかった。静かで、やわらかい声だった。
「もちろんだよ」
健介はすぐに答えた。
だが、恵美は少しだけ視線を落としたまま続けた。
「小夜ちゃんが、あなたに甘えてるのを見るとね……」
言葉が途中で止まる。
健介は黙って待った。
「……ちょっと、不安になるの」
小さな声だった。
健介は、しばらく何も言えなかった。
小夜には父親がいない。母親ともあまり一緒に過ごせない。昼間は一人で、公園にいることが多い。
それを思うと、少しくらい甘えさせてやってもいいんじゃないか、という気持ちは消えなかった。
「小夜はさ」
やっと口を開く。
「父親がいないし、母親ともあんまり一緒にいられないみたいだろ」
恵美は黙って聞いている。
「昼間もずっと一人なんだろうし……ちょっとくらい、甘えさせてやってもいいんじゃないかって思って」
自分でも、言い訳のように聞こえるのは分かっていた。
恵美は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さくうなずいた。
「……うん」
そう言って、目を閉じる。
「分かってるよ。優しいのは、健介のいいところだもんね」
けれど、その言葉の奥に、ほんのわずかな不安が残っているのを、健介は感じていた。




