第二章 公園の約束
恵美の妊娠が分かってからも、尾長家の生活は大きくは変わらなかった。
恵美は派遣の仕事を続けていた。もともと平日休みのシフト制で、出勤の日もあれば家にいる日もある。体調もまだ安定していて、医者からも「無理をしなければ大丈夫でしょう」と言われていた。
それでも、健介は以前より少しだけ家のことを気にかけるようになった。
愛美の相手をする時間を増やし、恵美が出勤の日はなるべく自分が見ていようと思っていた。仕事は自宅の二階でできる。手が空いた時間に愛美を外へ連れて行くくらいの余裕はあった。
そんな中で、健介と愛美の「公園の時間」が、いつの間にか日課のようになっていった。
家から歩いて五分ほどの、小さな公園。滑り台とブランコ、砂場があるだけの、ごく普通の場所だ。平日の昼間は人も少なく、風の音がよく聞こえる。
「ぱぱ、ぶらんこ!」
愛美に手を引かれて、健介はブランコの前に立った。
「はいはい、順番ね」
愛美を乗せて、ゆっくりと押す。きゃっきゃっと弾む声が、静かな公園に響いた。
こうして二人で過ごす時間は、健介にとっても嫌いではなかった。仕事の合間の気分転換にもなるし、何より、愛美が嬉しそうにしているのを見るのが楽しかった。
その時だった。
「あの……」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り向くと、小学一年生くらいの女の子が立っていた。肩のあたりで切りそろえた髪に、お洒落なワンピース。どこか遠慮がちに、こちらの様子をうかがっている。
「いっしょに、あそんでもいいですか?」
健介が答える前に、愛美が勢いよく振り返った。
「いいよ!」
迷いのない声だった。
女の子はほっとしたように、小さく笑った。
それが、小夜との最初の出会いだった。
名前を聞くと、「竹田小夜です」と、ぺこりと頭を下げた。その仕草が妙にしっかりしていて、健介は少し驚いた。
愛美はすぐに小夜の手を引き、砂場へ向かう。
「おやまつくる!」
「うん」
二人はしゃがみ込んで、夢中で砂を集め始めた。言葉は多くないが、すぐに打ち解けているのが分かる。
健介は少し離れたベンチに腰を下ろし、その様子を眺めていた。
それから数日後。
また愛美を連れて公園に行くと、小夜がいた。ブランコの近くに立っていて、こちらに気づくと、小さく会釈をして駆け寄ってきた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日も来てたんだ」
「はい」
愛美が小夜を見つけるなり、ぱっと顔を輝かせる。
「さよちゃーん!」
二人はそのまま、当たり前のように遊び始めた。
それが何度か続いた。
平日は、ランドセルを背負ったまま現れることが多かった。学校帰りなのだろう。土日は、昼くらいになると公園のどこかにいる。
まるで、そこが小夜の居場所であるかのようだった。
愛美もすっかり懐いていて、公園に着くなり、周囲を見回すようになった。
「さよちゃん、いるかな」
そう言っては、姿を見つけると嬉しそうに駆けていく。
ある土曜日の午後。少し風の強い日だった。
二人が砂場で遊んでいるのを見ながら、健介はなんとなく小夜に声をかけた。
「小夜ちゃんは、家はこの近くなの?」
小夜は手を止めて、少し考えてからうなずいた。
「うん。あっちのほう」
指差した先は、住宅街の奥の方だった。
「いつも一人で来てるの?」
「うん」
あっさりとした返事だった。
健介は、少しだけ言葉を選びながら続けた。
「お父さんとか、お母さんは?」
小夜は砂をぎゅっと握りしめて、ぽつりと言った。
「お父さん、いない」
その言い方は、妙に淡々としていた。悲しそうでもなく、ただ事実を述べただけという口調だった。
「そうか」
それ以上は聞かない方がいいかと思ったが、小夜は自分から続けた。
「お母さんは、夜お仕事してる」
「夜?」
「うん。夜いなくて、昼は寝てる」
健介は少し驚いたが、顔には出さないようにした。
「じゃあ、学校が終わったら?」
「公園くる」
当たり前のことのように、小夜は言った。
「おうちは、お爺ちゃんとお婆ちゃんもいっしょ」
少しだけ表情が柔らいだ。
「お爺ちゃんはおそうじの仕事。お婆ちゃんはスーパー」
「そっか」
「でも、昼はどっちもいない」
小夜は砂をいじりながら言った。
「お母さんは寝てるし」
健介は一瞬、言葉を失った。
目の前では、愛美が小さなバケツを持ち上げてはしゃいでいる。
「できたー!おやま!」
「すごいね」
小夜が笑う。
その笑顔は、年齢よりも少しだけ大人びて見えた。
健介は、その横顔を見ながら、なんとも言えない気持ちになった。
この子は、毎日こうして公園で時間を過ごしているのだろうか。
誰もいない家に帰るより、ここにいる方がいいのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考えた。
夕方になると、小夜は自分から立ち上がった。
「じゃあ、帰るね」
「うん。またね」
愛美が手を振る。
「またあそぼうね!」
「うん」
小夜は小さくうなずいて、ランドセルを背負い直し、住宅街の奥へと歩いていった。
その背中は、七歳の子供にしては、どこか慣れた様子に見えた。
ただの、公園で知り合った子。
それだけのはずだった。
けれど、気づけば、平日も土日も、小夜は当たり前のようにそこにいるようになっていた。
そして、愛美もまた、小夜が来ることを当然のように待つようになっていた。




