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第一章 しあわせのかたち

 都内近郊の、住宅街の奥まった一角。駅からは少し歩くが、その分だけ静かで、朝は鳥の声がよく響く。小さな庭付きの二階建て。決して豪邸ではないが、白い外壁と木目の玄関扉がやわらかい雰囲気をまとった、どこにでもありそうで、どこか誇らしい家だった。

 そこに、尾長家の三人は暮らしていた。

 尾長健介は三十歳。自宅の二階を仕事部屋にして、フリーのWEBデザイナーとして働いている。朝の通勤ラッシュとは無縁で、目覚ましの音に追い立てられることもない。仕事の波はあるが、その代わりに家族と過ごす時間は多かった。

 朝、キッチンから味噌汁の匂いが漂ってくる頃、健介はまだ少し眠そうな顔で階段を降りる。

「おはよう」

 そう声をかけると、振り返るのは妻の恵美。二十六歳。派遣社員として働いているが、シフト制で平日が休みの日も多く、家事はきっちりこなしている。

「おはよう。もうすぐ出来るよ」

 エプロン姿の恵美は、忙しそうにしながらも、どこか楽しげだった。

 その足元に、小さな影がまとわりついている。

「ぱぱ、おはよー!」

 三歳の娘、愛美が、ぱたぱたと駆け寄ってきて健介の足に抱きつく。まだ寝癖のついた髪、少しだけ大きなパジャマ、そして満面の笑顔。

 健介はしゃがみこんで、愛美をひょいと抱き上げた。

「おはよう、愛美。今日も元気だなあ」

「げんき!」

 愛美は誇らしげにそう言って、父親の首に腕を回す。その無邪気さに、自然と頬が緩む。

 テーブルに三人分の朝食が並ぶ。焼き魚、卵焼き、味噌汁。それに小さな皿に分けられた納豆。特別なものは何一つない、ごく普通の家庭の朝の光景。

 だが、健介はこの時間が好きだった。

 パソコンの画面に向かう時間よりも、クライアントとのやり取りよりも、この食卓で交わされる他愛のない会話が何よりも大事だと思っていた。

「ねえ、愛美、今日は何するの?」

 恵美が聞くと、愛美はしばらく考え込んだあと、元気よく答えた。

「こうえん!」

「公園か。じゃあパパも後で行こうかな」

「ほんと!?」

 ぱっと目を輝かせる愛美。

 健介はうなずいた。

「お仕事が早く終わったらね」

 その一言で、愛美は満足したように笑った。約束が現実になるかどうかはあまり関係ない。言葉をもらえただけで嬉しいのだ。

 食後、健介は二階の仕事部屋へ上がる。窓の外には、整然と並んだ住宅街が広がっている。遠くで犬が吠え、車が一台通り過ぎていく。

 静かな日常。

 パソコンを開く前に、ふと階下の様子を思い浮かべる。恵美が洗い物をして、愛美がその横で何かをしゃべっている。そんな光景が容易に想像できる。

 それだけで、胸の奥が温かくなる。

 この家を建てたのは、去年の春だった。頭金をかき集めて、ローンを組んで、ぎりぎりの決断だったが、後悔は一度もしていない。

 帰る場所があるというのは、それだけで心を支えてくれる。

 昼前、一区切りついたところで階段を降りると、リビングから笑い声が聞こえた。テレビの音に混じって、愛美の甲高い声が響いている。

 ドアを開けると、愛美が積み木を高く積み上げていた。恵美はソファに座り、スマートフォンを見ながら時々声をかけている。

「すごいな、それ。どこまで積むんだ?」

「ここまで!」

 愛美は背伸びをして、もう一段積もうとする。だが、バランスを崩して、ガラガラと崩れ落ちた。

 一瞬だけ沈黙。

 次の瞬間、愛美は自分で大笑いした。

「こわれちゃったー!」

 その様子に、恵美もつられて笑う。

 健介は、その光景を少し離れたところから見ていた。特別なことは何も起きていない。ただの、ありふれた午後。

 だが、胸の奥に、ふとした満足感が広がる。

 この家の中には、笑い声がある。

 それで十分だった。

 夕方、公園へ行く約束を果たすため、三人で家を出る。手をつなぐのは、愛美が真ん中。左右に父と母。小さな手が、両側をしっかりと握っている。

 滑り台を何度も滑り、砂場で山を作り、ブランコに乗ってはしゃぐ。日が傾いてくる頃には、愛美はすっかりくたびれて、健介の腕の中でうとうとし始めた。

 帰り道、恵美がぽつりと呟く。

「こういう時間、ずっと続くといいね」

「続くよ」

 健介は何気なく答えた。

「ずっと三人で、な」

 恵美は少しだけ笑って、うなずいた。

 その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。

 夜、愛美を寝かしつけたあと、リビングで二人きりになる時間が訪れる。テレビの音を小さくして、何気ない会話を交わす。

 その時だった。

「ねえ、健介」

 恵美が、少しだけ改まった声で言った。

「ん?」

「今日、病院行ってきたの」

 健介は何気なく振り向く。

「どこか悪いのか?」

 恵美は、ゆっくりと首を横に振った。

 そして、少し照れたように笑う。

「違うの。あのね……」

 一拍、間を置いてから。

「赤ちゃん、できたみたい」

 言葉が、静かに部屋の中に落ちた。

 健介は一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。

「……ほんとに?」

 恵美はうなずく。

「うん。まだ初期だけど」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。驚きと、喜びと、少しの不安が入り混じる。

 だが、最後に残ったのは、やはり喜びだった。

 健介は立ち上がり、恵美の隣に座る。

「そっか……二人目か」

「うん」

 恵美は小さく息をついた。

「大丈夫かな、私」

「大丈夫だよ」

 健介はすぐに言った。

「今だって、ちゃんとやれてる」

 恵美は、少しだけ目を潤ませて笑った。

「そっか」

 その夜、二人は寝室で、これからの話をした。愛美がお姉ちゃんになること。名前のこと。部屋をどうするか。仕事をどうするか。

 未来の話をしていると、不思議と現実が少しだけ輝いて見えた。

 窓の外では、住宅街の明かりがぽつぽつと灯っている。

 静かで、穏やかで、何も起きそうにない夜。

 この時の尾長家は、誰もが羨むような、どこにでもある幸せの形そのものだった。

 守るものが増えたという実感と、これから家族が四人になるという期待。

 それが、確かにそこにあった。

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