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再会~ある夏の日~

 強い日差しが緑色の屋根をじりじりと焼き、茶館の窓から見える外の景色が白く霞んでいます。今日は、そんな表現が出来るほどに厳しい暑さです。

 道行く人々は強い日差しに手をかざし、また日傘を広げて一様に重い足どりで。テレビから流れていたお昼のニュースが、今日までの最高気温を更新したと報じていました。

 エアコンが効いている店内に入ったお客様は皆、険しい表情を緩めてほっと息をつかれます。この暑さでは、誰もが涼を求めたくなるのでしょう。

 グラスの中で、カラリと涼しい音を立てる透き通った氷……。

 この季節、お客様のご注文はアイスコーヒーやアイスティーなど、冷たい飲み物が多くなります。


 ☆★☆


「すいません、お勘定をお願いします」

 ……あら?

 お客様がお帰りのようです。

「アイスコーヒーですね、四百八十円になります」

 伝票とお札を差し出したビジネスマン風の男性は腕時計を確認した後、お店の外の様子を眺めて肩をすくめました。

「五百二十円のお返しです。お仕事ですか? 外は暑いですからお気を付けて」

 お釣りを手渡しながら、これからまた外へ出なければならない男性にそう声を掛けると、

「そうですね、今日はとにかく暑い。ありがとうございます、またひと頑張り出来ますよ」

 ポケットからハンカチを取り出し、あらためて窓から外を見て苦笑いをされました。

「ありがとうございました」

 男性を送るドアベルが涼やかな音を奏で、開けられたドアから瞬間的に熱せられている外の空気が吹き込んできます。

 それだけで、もう額に汗が滲むようです。

 ふと柱を見ると時刻は午後二時前、お客様の姿もなく茶館には私ひとりだけです。お昼ご飯にちょうど良い頃なので、何か食べておかなければなりません。

 入り口のドアへと「準備中」の札を掛けようと表へ出ましたが、まるで体が溶けてしまいそうなほどの暑さに頭がくらくらします。 

 降り注ぐ強い光に手をかざして太陽のご機嫌を伺い、手早くドアノブに札を掛けてすぐに店内へと戻りました。

 カウンターへ入ると頬に人差し指を当てて、冷蔵庫の中に置いてある食材を思い浮かべてメニューを考えます。暑い日は硝子の器にお素麺など、思い浮かべるだけで涼しいです。夕食にはさっぱりとしていて良いかもしれません。

 あ、今は軽い昼食を用意するのでした。 

 まずパンを薄く切って軽く焼き、酸味の効いたお手製の林檎のジャムを添えます。レタスのサラダに、冷やしたトマトを切れば涼しげで良いです。あとはヨーグルトを少々。

 手早く用意出来ますが、ひょっとして食べ過ぎなのでしょうか?

 近頃、体重計に乗った記憶がありません。

 そんな心配事は頭の隅に追いやっておいて、パンを取り出して切り分けながら、あれこれと思案していると。

 私は何かの予感に、ふと手を止めました。


 その時突然、ざわめき出した茶館の壁一面に飾られている絵達。

 私の体の中を駆け抜けるのは激しい感情のうねり。

 喜び、悲しみ、驚き。複雑に絡み合った様々な感情が私の心を包み込み、大きく大きく揺らします。

 その感情の起伏についていけなくて、目眩にも似た感覚に襲われ思わず持っていたナイフを落としました。胸が苦しくて、シンクに手を付いて大きく肩で息をしていると、耳に届いたドアベルの音。


 先程、ドアノブへ準備中の札を掛けていますから、お客様ではないでしょう。もしかしたら、慎吾さんがお帰りになったのかもしれません。私はやっとの思いで顔を上げて茶館の入り口のドアへ目を向けます。

「あ……」

 声を漏らした私の目に映った、お店の入り口に立っているひとりの女性の姿。

 光を弾く真っ白なワンピースに、サンダルという夏の装い。鮮やかな色のリボンが付いた、つばの広い帽子をゆっくりと取った女性は……。

 私は驚いて、大きく目を見開きました。

「はっ、遙さん!」

「はい、瞳子ちゃん。久しぶりね」

 柔らかな微笑みを浮かべた遙さんが、ブレスレットを揺らして軽く右手を挙げました。

「は、遙さん。ひっ、久しぶりじゃありませんっ!」

 思わずそう叫んで、意識がはっきりしないまま慌ててカウンターから飛び出し、足がもつれて転びそうになった私は、

「ほら、気を付けなさいっ!」

 帽子を放り出した遙さんに、しっかりと抱き止められました。

「遙さん、会いたかった。ほんとうに、会いたかったんです……」

 夢ではありません、私の傍らに遙さんがいらっしゃいます。

「あらあら、困ったわね。分かったから、もう泣かないの」

 遙さんは、感情が高ぶり涙声で訴える私の背中をぽんぽんと優しく叩き、溢れる大粒の涙をハンカチを取り出して、そっと拭って下さいました。

「で、でもでも。遙さん、遙さんは……」

「ええ、そうね。でも私は今、此処にこうしているから……。分かった?」

 握った手を離せば私の目の前に存在している遙さんが、消えてしまいそうで。それがとても恐くて、私は遙さんの手をしっかりと握ったまま何度も頷きました。

「みんな驚いたようだけど、やっと落ち着いたみたいね」

 遙さんは店内の壁に飾られている絵をぐるりと見回して、安心したようにカウンターの椅子へ座り、私の方へと向き直りました。

 壁に飾られた絵達は遙さんの思いがけない訪問を、本当に喜んでいるようです。私にも確かに感じられる、茶館の中に満ちている優しく暖かな想い。

 心の中で「もう一度、もう一度、遙さんに会えますように」と、どれほどに願った事でしょう。


 私の願いは、決して叶えられる事がないと思っていました。

 なぜなら遙さんはすでに、遠くへ旅立ってしまわれた方なのですから。

 でも私の目の前の遙さんは、あの梅雨の日と同じように、明るい笑顔と暖かな雰囲気で確かに存在していらっしゃいます。

「うん。私の見立て通り、とても良く似合ってるわ」

 私の黒いジャケット姿をじっと見た後、カウンターへ肘を突いて組んだ手に顎を乗せ、にこにこしている遙さんはとても嬉しそうです。

 私は恥ずかしさで身の置き所が無く、リボンタイの飾り石を指で弄びながら、ただもじもじとしていました。

「瞳子ちゃん、ほんとうに来てくれたのね」

「はい。どうしても遙さんと出会った日の事が忘れられなくて」

「……そう」

 ふと、笑顔をおさめた遙さんはそっと瞳を伏せました。

 どうしてなのでしょう。

 栗色の大きな瞳を閉じると、遙さんの姿はとても儚げに見えます。

「ごめんなさいね、私は決して交わることのない時間を過ごしていた、あなたの人生に関わってしまった」

「遙さん、私は……」

「ええ、瞳子ちゃんの気持ちは分かってる。とても嬉しいわ……ありがとう。でもね、私の我が儘なのよ。閉店したままの茶館が取り壊される事は、もちろん知っていたわ。無理もないわね、小さな建物だけど維持費だって馬鹿にならないもの」

 そして遙さんは愛おしそうに、また壁に飾られている絵に視線を移されました。

「でも、この茶館が無くなってしまったら、ここに在る絵に託された大切な気持ちはみんな儚く消えてしまう……。私はそれが我慢出来なかった。モチーフを見つめる絵描きの真剣な眼差しと、その想いを私はよく知っているから」

 遙さんがこの茶館にどれほどの愛情を抱いていらっしゃるのかがよく分かります。遙さんにとって、茶館に飾られている一枚一枚の絵が宝物なのでしょう。

「あなたのような女の子が、この茶館で働いてくれたらいいなって心から思った。でも、私はあなたの人生に関われる資格を持っていないのよ。あなたの歩む道を……」

「遙さん、聞いて下さいっ!」

 私は遙さんの言葉を遮るように、思わず叫んでいました。

「遙さんは失意の底に沈んでいた私に、手を差し伸べて下さいました。彼を信じていた支えを失った心が、どうしようもなく苦しくて。でも、私は泣く事すら出来なくて」

 一人で街を彷徨い歩きながら、私は無くした何かを必死に探していました。

 いくら探しても見つからない、どれほどに求めても手に入らないものを。

 道をゆく人々の流れの中に自分だけが取り残されたようで、心は不安に押し潰されそうでした。

「この茶館の暖かい雰囲気に触れて、私もこのお店で働いてみたいと心から思った事は真実です。たくさんの絵に囲まれ、その一枚一枚の絵に込められた優しい想いに包まれて時を過ごせるのなら……。私は、私は遙さんが淹れて下さったカフェ・オレをずっと忘れません」

 遙さんは冷たい輝きを放つ枷のような指輪に縛られた私の心を解き放って下さったのです。

「ありがとう、瞳子ちゃん」

 私の強い想いを感じて下さったのでしょう、遙さんは小さな声でそうおっしゃいました。

「あの、ひとつだけ聞いてもいいですか?」

「なに?」

「あの時、どうして私に声を掛けて下さったのですか?」

 私の問いに、頬杖を付いていた遙さんは栗色の目を大きく見開いて、

「どうしてって……。女の子が雨に濡れたまま、寂しそうに俯いてつま先を見つめているのよ? なんとかしてあげなくちゃって思うじゃない」

 あの日と同じように、私を見つめる優しい眼差し。

「見ていられなくて思わず手を伸ばしたら、あなたに届いたの」

「遙さん……」

 私は瞳を閉じて、そっと包み込まれるような遙さんの優しさを感じました。

「それにしても、今日は暑いわね。私、冷たいカフェ・オレが飲みたいな」

 遙さんの明るい声。

 私はそれ以上その話には触れず、遙さんとの時間を大切にする事に決めました。

「あら、カフェ・オレは遙さんのご自慢ではないのですか?」

「今日は、お客様だもの~」

 遙さんは、すました顔でウィンクをひとつ。

「はい、かしこまりました」

 肩をすくめて丁寧に返事をした後、私は大振りのグラスを手に取りました。

 私が心に広げた、まだ白いままのキャンバス。

 一番最初に塗った色は、遙さんの温かい優しさの色です。


 窓から見える青い空には、大きな大きな入道雲が陣取っています。

 もうしばらく、この暑さは続くのでしょう。



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