瞳子さんの歓迎会
「さあさあ、水無月さんも、一杯!」
「は、はい。頂きます」
「ほらほら、遠慮しないでね!」
ハンカチを添えた両手で持ったグラスに注がれている冷たいビール。
綺麗な金色の海の上で弾ける、まるでクリームの様にきめ細やかな泡。
一日が終わり、商店街の集会所で夕刻から茶館の再開店を祝う酒宴が催されています。
集会所は夏祭りなど様々な催しの相談や、年末年始に忘新年会が行われる商店会の寄り合い所です。
広いお座敷には大きなテーブルがきちんと並べられ。その上には煮物や揚げ物など、商店会の奥さん達お手製の美味しそうな料理がたくさん載っています。
かしこまったひととおりの紹介と挨拶も終わり、私はグラスを持ったまま賑やかな酒宴の雰囲気を感じていました。
お酒がまわって顔が真っ赤なのは魚屋の若主人。
八百屋さんは呼び声でもお馴染みの、よく通る声で陽気に歌っています。
八百屋さんの歌声に合わせて響く手拍子。
皆さんの弾んだ笑い声を聞きながら、私もほんの少しグラスを傾けます。お酒の香と喉を通る慣れない炭酸の刺激に、ちょっとむせそうになりました。
「あの、水無月さん?」
「あ、はい!」
自分の姓があまり好きでない私は、名前を呼ばれていることにしばらく気付かず、驚いて背筋を伸ばします。
「すいませんね。ご覧のとおり、みんな飲み助で」
「いいえ、私も楽しんでますよ」
声をかけて下さったのは、商店会の会長をなさっている洋裁店のおじさんです。
グレーの髪を綺麗に撫で付け、黒縁の眼鏡がとても真面目そうな印象です。私はすまなさそうな会長さんに笑顔で答え、そっとグラスをテーブルへと置きました。
「いや、それにしてもめでたいですよ」
会長さんはグラスのビールをぐっと半分ほど空けて、ふうと一息。
「またあの黒いジャケットを仕立てる機会に巡り会えるとは思いませんでした。水無月さんも良くお似合いのようで、商店会でも評判ですよ」
「あ、ありがとうございます」
褒められて、頬が赤くなるのが分かります。
私は恥ずかしさのあまり、うつむきました。
「私が若い頃の話ですが。茶館は芸術家を名乗るお客さん達がたくさん訪れるお店でね、いつも賑やかだったんですよ。その頃は、まだ初代のマスターがお店をやってらしたのですが。そうそう、当時はお店の名前が……」
会長さんは目を細めて、懐かしむようにお話しされます。
私が知らない頃の茶館の様子に、じっと耳を傾けていると、
「おいコラ、会長。なに瞳子ちゃんを口説いてるんだよ」
いきなり魚屋の若主人が乱入されました。
「く、口説いてるだなんて。なんてことを言うんだい、私はただ昔の話をだね」
「って、魚屋! お前今、瞳子ちゃんって呼んだだろう、馴れ馴れしいぞ!」
聞き捨てならぬと、肉屋さんも大声です。
「前から言ってるだろ、魚屋って呼ぶな! お前も今、瞳子ちゃんって呼んだだろ!」
「なんだと、俺はだなぁ!」
「あ、あのっ、お二人ともっ!」
ええと、大変な事になってきました。
私としては、名前で呼んでいただける方が嬉しいのですが。
いいえ、今はそんな事を考えている場合ではありません。
気が付けば私の周りには人の輪が出来ていました。
皆さんお酒に酔っている勢いもあるのでしょうが、次第にヒートアップしてきています。私はこの流れの方向を何とかしようと懸命に話題を探しました。
「あ、あの、皆さんは遙さんの事をご存じですか? 慎吾さんはあまり話して下さいませんから」
「え、遙ちゃんの事が聞きたいのかい?」
「うん、遙ちゃんか~」
私の問いに、興奮していた皆さんの表情が一様に曇ります。
「水無月さんは、写真か何かで遙さんを?」
「え、あ、はは、はい! とてもお綺麗なので、どんな方だったのかなと思いまして」
慌てた私は、会長さんに曖昧な答えを返しました。
まさか遙さん本人から「茶館で働いてみない?」と、誘われましたとは言えませんし、どなたも信じてはくださらないでしょう。
それこそ幽霊騒ぎになってしまいます。
「そうですか。ええ、遙さんは本当に美人さんでね、とても明るい方でしたよ」
「え~と、なんて言うんだ? そうだ! 天然っぽいところがまた、可愛くてよ」
「子供がちっちゃい頃は、よく二人を連れて散歩していたなぁ」
皆さんはうんうんと頷きながら、それぞれに遙さんを思い出しているようです。どこか、しんみりとした寂しい雰囲気が漂い始めました。
ああ、どうしましょう……。
酒宴の席で尋ねてはいけない話題だったのかもしれません。
私が自己嫌悪に陥っていると、お話がどんどん暗い方へと進んでいきます。
「商店街もあの頃とは違って、いまではメインストリートの裏通りになってしまいました」
「分かりますよ、分かりますとも。皆さん毎日頑張っていらっしゃいます。でも、しんどいですよねぇ」
会長さんの遠い眼差し。
八百屋さんはがっくりと肩を落とし、皆さんの口から大きなため息が漏れています。
この小さな商店街でシャッターが閉まったままのお店は少ないのですが、安価で大量の商品を扱う駅前の大型店と張り合うのは、やはり並大抵の努力ではないのでしょう。
「馬鹿野郎! 何を辛気くさい話をしていやがる」
その時、肩を落とす会長さんの背中を、魚屋の若主人が勢いよく叩きました。
「遙ちゃんが、そんな泣き言を聞いたら何て言うと思う?」
「ああ、そうです。その通りですね」
「うだうだとボヤいてたら、遙ちゃんに怒られちまうよなぁ」
それぞれに腕を組んで、みなさんはうんうんと頷いていらっしゃいます。
遙さんの立ち居振る舞いは、商店会の雰囲気を盛り上げていたのでしょう。
みなさんのお話から、遙さんの人柄が伺えます。
「しかし、瞳子ちゃん。よく茶館で働く気になったねぇ。大通りに建っている洒落た喫茶店って訳でもないし」
「それに遙ちゃんが亡くなってから、長いこと閉店していたものな」
ええと、どうやら茶館と私に話題が戻ってきたようです。
皆さんの小さな小さな思い出を集めて、私は当時の茶館の雰囲気を感じ取ろうと努めます。
緑色の屋根をした古くて小さな喫茶店は、店内に飾られているたくさんの絵に託された想いを大切に包み、ゆっくりと時間を過ごしてきたのでしょう。
そしてその想いは、お店を訪れたお客様の心に届いていたはずです。
私は静かに目を閉じて、賑わっていた頃の茶館の様子を想像してみました。
「いやぁ~それにしても羨ましい。遙ちゃんといい、瞳子ちゃんといい茶館は美人さんに縁があるよな!」
「本当だ、俺は慎吾が羨ましい!」
「そうだなぁ、俺なんて毎日店で一緒にいるのは母ちゃんだぜ?」
ああっ! 残念です。
また、お話が少々ずれてきました。
しかも八百屋さんのその一言は、決して口にしてはならない言葉です。
間が悪い事に、その時ビールの大瓶を幾本もお盆に載せた奥さんが、お座敷へと入っていらっしゃいました。
耳がぴくりと動いた奥さんのこめかみの辺りに、太い筋が浮き上がります。
「ちょっとあんた! どういう意味だい?!」
「うへっ! お前、聞いてたのかよ!」
「しっかり聞こえたよ!」
最悪の事態です。
私がなんとかこの場を収拾しなくてはならないのでしょうか。でも何の方策も思い浮かばない私が、腰を浮かせておろおろしていると。
「はいはい、そこまで!」
ぱんぱん! と手を叩いて大声を出したのは、やっとお見えになった恵子さんでした。
「ほらほら、瞳子ちゃんが困っているじゃないですか!」
肩をいからせ腰に手を当てて仁王立ちしている恵子さんは、静まり返ったお座敷をぐるりと見回します。
「あ、あの、恵子さん」
「はい、酔っ払いのお相手お疲れ様。瞳子ちゃん、お迎えよ」
にっこり笑った恵子さんの後ろに、やれやれといった表情の慎吾さんが立っていました。
「慎吾さん!」
「ほら、帰るぞ」
あの、いきなり帰るぞと言われても困ります。
この場を放っておいて、逃げるように帰ってしまうわけにはいきません。
「でも、まだ皆さんがいらっしゃいます。それに後片付けもありますし。今は……」
「今日は主賓なんだから、甘えさせて貰えばいいさ」
そう言って皆さんに会釈した慎吾さんに急かされて、私も仕方なく席を立ちました。
ふと気付けば、恵子さんが「ばいばい」と小さく手を振ってくれています。
「ごめんね、瞳子ちゃん。今日は忙しかったのよ」
「酔っぱらって大騒ぎはいつもの事だからさ、気にしなくていいんだよ!」
奥さんのさっぱりとした笑顔、どうやら怒ってはいらっしゃらないようです。
私は、ほっと胸を撫で下ろしました。
「また、茶飲み話に誘うからね」そう言って下さる奥さん達。
「仕事の合間に、みんなで茶館に行くよ!」と、気勢を上げるおじさん達へ丁寧にお辞儀をします。
そして私には、皆さんへどうしても伝えておきたい事がありました。
「これからよろしくお願いします。私の事は姓ではなく、瞳子と名前で呼んで下さい!」
一瞬静まり返った後、とたんに沸き立つ商店会の皆さん。
何故か盛大な拍手に送られて、苦労して笑いを堪えている様子の慎吾さんと一緒に集会所を出ました。
静まり返った商店街の茶館へと向かう夜の道を、慎吾さんの広い背中を見つめながら歩きます。
「君は本当に真面目だな。酔っぱらいは適当に相手していればいいんだぞ?」
慎吾さんはずっと様子を見ていたに違いありません、私があんなにおろおろしていたのに助けてくれないなんて。笑いを含んだ慎吾さんの言葉に納得出来ない私は、何となく上目遣いで広い背中をじっと見つめます。
「酔っぱらいでも何でも、商店会の皆さんは良い方達ですから」
「そうか」
慎吾さんは、ジーンズのポケットから取り出した煙草の箱から一本取り出してくわえました。
「私は、皆さんと仲良くしたいんです!」
私は黙って歩く慎吾さんの背中に話しかけながら、少し離れて歩きます。
なんとなく頭がぼんやりして足下がふわふわとしている感覚、それに頬が上気しているようです。ビールをちょっと飲んだだけなのですが、飲み慣れないお酒に酔っているのかもしれません。
「もう、なんで黙ってるんですかっ!」
「商店会でも気に入ってもらえたようだな、安心したよ」
「え?」
急に立ち止まって振り返り、くわえていた煙草を箱にしまった慎吾さんは、酔っぱらって駄々っ子のような私に真顔でそう言いました。
慎吾さんの言葉で、一度に酔いが覚めた私は大きく深呼吸をひとつ。
見上げた夜空には、瞬く星々とともに丸く大きな月が輝いていました。