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紅葉色の口づけ

 霊峰(れいほう)を訪れる秋の精霊は楽しげに木々の葉の色合いを変えていく。山装うの言葉通りぐるりと見渡す景色は、色鮮やかで燃えるような色彩に彩られている。

 あと数週間もすれば冬の知らせが届くだろう。 

 慎吾は鮮やかな落ち葉の絨毯を踏みしめて歩いていた。

 額にはうっすらと汗が浮かぶ。ぴしゃりと音を立てて足元を濡らす澄んだ水が冷たさを増してきている。

 肩に担いだ重いアルミケースをひとゆすりする。カメラや数種類のレンズなど高価な撮影機材が詰まっているので、ぞんざいに扱う事はできない。

 ゆっくりと歩を進めれば、木々の美しい装いが次々と目に飛び込んでくる。

 慎吾は立ち止まって大きく深呼吸をした。

 耳が痛くなるような静寂に身を置いていると、わずかに心細くもなってくる。

 つまづいた時、迷った時は必ずこの場所を訪れる。霊峰の懐深くに抱かれて自分の気持ちを落ち着けるのだ。

 ……最近、ここを訪れる回数が増えていることに気付いた慎吾は苦笑した。


「まいったな」


 ぽつりとぼやいてみるが、誰かの返事があるわけではない。

 ……ところが。


「いったい何にまいったっていうの」


 突然、風が吹きつけ慎吾の耳元で誰かが囁いたかのような錯覚を覚える。

振り返ると、木々の間からひとりの女が姿を現した。

 ヒールが水に濡れた落ち葉を踏みしめて微かな水音が響く。


「お、お前、どうしてここにいるんだ」


「あら、随分とご挨拶じゃない」

 

 身を切るような冷気などものともせずに、両手を腰に当てて凄んでいるのは麗香だった。

 慎吾は目を丸くしたまま動けずにいた。幻でも見ているのではないかと目を瞬かせる。

 だが淡い淡い秋の日差しに照らされて、険しい表情で自分を睨んでいるのは間違いなく麗香だ。慎吾を睨みつける強い光を湛えた琥珀色の瞳。麗香は鬱陶しそうに髪を背中に流した。


「何をぼけっとしているの? まさか私の顔を忘れたんじゃないでしょうね」

 

 そう言って紅く染めた唇を噛み締めた麗香の瞳が、ぎらりと底光りしたように見えた。不機嫌を飛び超えて声からは怒りが感じられる。


「山歩きになんか興じちゃって、いいご身分だこと」


 美しく色づく木々など興味もない素振りで、ぐるりと周囲を見渡した麗香は、ふんと鼻を鳴らして慎吾へ嫌味を投げつけた。


 「私が毎日どんなに忙しいか知ってる? 女狐のとんでもない圧力があるの、押し潰されないように踏ん張るのが大変なんだから」


 そこは自業自得なのだろう、慎吾はあえて口にせず麗香の言うに任せていたが。


「それにね、最近じゃあ……」


「待て麗香。いいからちょっと待て」


 慎吾は手を上げていきりたつ麗香を宥めた。


「なによ」

 

「その格好はなんだ」


「だから私の格好がなんだっての。見てわからない? 仕事着よ、私の戦闘服!」


 麗香はぐいっと胸を張って見せる。


「戦闘服ってお前……」


 そういう意味じゃないと、慎吾は首を振った。

 足元は頑丈なトレッキングシューズ、厚手のヤッケを着込んだ慎吾は山歩きに適した出で立ちだが、麗香の姿はどうだ。

 仕事用のジャケットにスカート、なんとヒールを履いているではないか。


「それは分かっている。だが山奥に来るような格好じゃないだろう、道に迷ったりしたらどうするつもりだ」


 さっとヤッケを脱いだ慎吾が足早に麗香に近づこうとした。

 ……その時。


「駄目よ、こっちへ来ないで。そこで止まりなさい」


 麗香が発した硬い声が慎吾をその場に縫い付けた。


「麗香?」


「いいから来ないで」


「……どうしたんだ」


 麗香の琥珀色をした瞳は真剣だ。息を呑んだ慎吾は仕方なく足を止めた。

 ふたりの間に冷ややかな空気が流れ隔たりが生まれる。慎吾は麗香が何を言いたいのかをはかりかねていた。


「……よ」


「麗香?」


 麗香が蚊の泣くような声で何かを言った。よく聞き取れない慎吾を睨みつけて、小刻みに肩を震わせている。


「なんで知らない顔するの? なんで私を避けるのよ! 私は木曜日に茶館にで仕事をしているわ。でもあなたはいつも居ないじゃない!」


 麗香の感情が弾けた瞬間だった。

 突然の悲痛な叫びに慎吾は凍りつく。麗香は手をきつく握りしめ、両肩を震わせている。


「ねぇ慎吾。私が何かした? 私はあなたが気に障るようなことを言ったの?」


 麗香は切ない声で訴える。慎吾はとっさに大きく頭を振った。


「違う! 麗香、それは違う……」


 だが、慎吾は続けるはずの言葉を飲み込んだ。

 麗香の将来を考えていたつもりでいた。しかしそれは間違いではなかったのだろうか。

 きつく唇を噛んだ麗香が、悔しそうに流す涙に慎吾は愕然としていた。


「それとも……私が、嫌いなの?」


「麗香、俺は」


 どうしても言葉が出てこない。麗香にとっては何を言っても言い訳に聞こえてしまう。

 慎吾も分かってはいたのだ。精一杯、麗香のために考えた結果だったのだが。それが伝わらなければ何もならない。

 いつも強い光を湛えている琥珀色の瞳は濡れていて、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 両手で拭っても拭っても流れる涙は止まらない。


 慎吾は力を失ったように機材が入ったアルミケースを肩からおろした。


「ねぇわかってよ。頑張ったんだから。私、一生懸命頑張ったんだから……」


 麗香はぐすぐすと鼻を鳴らしている。今まで彼女のこんな姿を見たことがあっただろうか。

 いや、無かった…。

 物怖じをせず、いつも胸を張って颯爽としている。全力で仕事に向き合い、磨き上げられたセンスで美しい文章を紡ぎ続ける。

 麗香は生命力に満ちていた。

 だがそれは彼女の負けず嫌いの性格ゆえの虚勢でもあったのかもしれない。


「私、あなたに避けられるような事なんかしていないもん……」


 ああ、もうだめだ。

 すべてを投げだした慎吾は肩を落とす麗香へと駆け寄った。


「ああ、そうだな。お前は頑張ってる。うんと褒めてやらないとな」


 慎吾は脱いだヤッケを麗香に羽織らせると、逞しい腕でいきなりその凍える体を抱き上げた。


「ちょ、ちょっと、何するの。慎吾、待ってよ!」


「いいから大人しくしてろ」


「え、でも、だって……」


 驚いてもがく麗香に構わず、慎吾は彼女を抱き上げたまま歩き出した。


「おろして、おろしてよっ!」


 手足をばたばたさせていた麗香だったが、諦めたように慎吾の胸に体を預けた。


「もう、いつもこんなだったら私だって……」


「何か言ったか?」


「ううん、なんでもない」


 ほんのりと頬を染めた麗香は小さく笑った。

 麗香の華奢な身体は冷えきっている。慎吾は自分の体温が伝わるようにしっかりと抱きかかえる。


「なぁ麗香」


「なに?」


「瞳子に会わなくていいのか?」 


「……今は、あわせる顔がない」


「そうか」


「いけない?」


「いや、それでいい」


 霊峰の静寂に包まれて二人の吐息だけが微かに聞こえる。

 そっと目を閉じた麗香の頬は秋の色さえも霞むほどに紅潮している。そして二人の唇が求め合うようにゆっくりと重なった……。


☆★☆


 湾岸線沿いのレストランカルーソ……。

 空気が澄んでいる空では、自分を輝かせる季節を待ち切れない星座たちが煌びやかな姿を見せていた。

 夜空に瞬く星々が、艶やかなシャインレッドのBMWのボディに映り込む。

まるで、彼女の中に秘められた野心と冷たい夜の帳が交わるように——。

 愛車から降りた葉山 由香里はその星座たちを肩越しに見やった。秋の深まりとともに感じる、北風の冷たさから身を守るようにマフラーに顔をうずめる。

 ヒールの踵が冷えた石畳をかすかに叩く。由香里は海岸沿いのレストラン『カルーソ』の前に立ち、夜の帳に溶け込むようにそっと息を吐いた。

 店の扉の前では、いつもの無口なウェイターが待ってくれている。


「いらっしゃいませ」


「寒くなったわね、この季節は憂鬱だわ」


「はい、ここのところ急に」


 ウェイターはほんの微かな笑みを浮かべて、葉山に対して恭しく一礼をした。


「コートをお預かりします」


「ええ、お願い」


 暖かい店内で案内され、あらかじめ連絡をしておいた予約席に着いた葉山は、ほっと息をついた。


「お飲み物はいかがいたしましょう?」


 もはや顔なじみである無口なウェイターは慣れたものだ。由香里はその勝手知ったる態度に肩をすくめた。少し意地悪してやろうと上品な仕草で足を組んで艶っぽい笑みを浮かべる。


「ねぇ。注文の前に少しいいかしら?」


「……はい。いかがなさいました?」


 ウェイターの彼は訝し気な表情をした。由香里の嫣然とした笑みにもまゆひとつ動かさない。由香里はつまらなそうにため息をついた。


「どうやら、あなたの予想通りになったみたいね」


「そのようですね。しばらくここへはおいでにならないかと」


「あら、分かるの?」


「貴女がそんな表情をされていますから」


 ウェイターの彼はまるで静寂そのものを具現化したかのように、無表情で答えた。

 ほんのわずかな間、瞳を閉じて物思いにふけっていた由香里は豪奢なシャンデリアが輝く天井を見上げた。


「ちょっと惜しいことをしたかな」


「演出が過ぎたのではないですか?」


「演出ですって? ふふふ、あははは」


 静かな音楽が流れる店内に、由香里の笑い声が不意に響いた。

 グラスを傾ける手を止めた客たちが一瞬、訝しげに視線を向ける。だが由香里は気にも留めず悠然と微笑んだ

 確かにそうかもしれない。わざと慎吾と麗香を引き離してみたのだ。期待通りに相乗効果がみられるなら由香里の勝ちだ、しかし負けたのならば二人を失うことになる。それは賭けでもあった。


「そうよ、ちょっと出来すぎたシナリオになったわ。ふふ……完敗ね。ここまでとは思わなかった、まさかあの二人に愛情は計算していなかったもの」


 ハンカチで涙をぬぐった由香里は、清々しい顔でそう言った。


「ねぇ、ビールをちょうだい」


「かしこまりました」


 はじめて笑みを浮かべた無口なウェイターの彼は、丁寧に一礼すると踵を返した。 

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