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逢魔が刻のカフェテラス

 テーブルへ頬杖をついた美咲(みさき)は、物憂(ものう)げな瞳で淡い光を弾くティースプーンを見つめていた。

 少し疲れ気味なのだろうか。

 確かに毎日が忙しい。

 仕事については重要な決裁(けっさい)を除きその他の案件の対応は貴子に申し渡してある。美咲にとって優秀な右腕である彼女に任せておけば間違いはない。

 ひとりで物思いに(ふけ)っていた美咲はふと瞳を閉じた。彼女の艶やかな髪がさらりと肩へと流れる。

 整理がつかない幾つもの考えが溢れ出てソワソワと心を揺さぶる。小さなため息ひとつでそんな心持ちに区切りをつけた。


 わずかに茜色(あかね)を帯びた光が差す学内のカフェテラスは、もう学生達の姿もまばらだ。

 どうやら帰りそびれてしまったらしい。美咲は左手首に巻いた時計の文字盤をちらりと見る。手首を振って時計を腕に馴染(なじ)ませた時だった。

 震える携帯端末が着信を知らせている事に気が付いた。


「お父様?」


 画面に表示された父の名前を見ていぶかし気に眉根を寄せた美咲は、画面をタップすると柔らかな仕草で髪をかき上げて端末を耳に当てた。

 多忙な父が電話をかけてくることなど珍しい。


「もしもし、美咲です」


『おお、美咲。声を聞けて嬉しいよ』


「私もです、お父様。お忙しいようですね」


『ああまったくだ。息をつく暇もないとはこのことだ、仕事だから仕方がないとはいえ辟易(へきえき)するよ』


「何か変わったことでもありましたか?」


「いや、そうではないよ。いつも通り忙しいだけだ」


 相変わらず仕事人間である父親の返答に、美咲は苦笑を漏らした。

 幼い頃は家庭を(かえり)みない父の姿に寂しい思いをしたこともあったのだが。それを不満に思うほど彼女はもう子供ではない。


「もう、ご無理なさらないでくださいね」


『ありがとう、気をつけるよ。……それより美咲。君に少々話があるんだが』


「お話ですか?」


 父の歯切れが悪い口調に美咲の胸がざわめいた。


『うん、君の大切なものについてだよ』


「大切なもの……」


 思った通りだ。

 アーティスト・ブランドの活動はこのところ精彩を欠いている。美咲も手をこまねいている訳ではないのだが。

 父は状況をすべて把握しているのだろう。事業の引き際を見極めさせようという心づもりなのだろうか。


「お父様。一度お時間を頂けませんか? はい、はい、それではまた」 


 美咲は父と会って話をするためにスケジュールを確認して電話を切った。

 吐息は最後にしたつもりだったのに、美咲はまた深い吐息を漏らした。

 テーブルの上で冷めてしまった紅茶は、もう飲む気にもならない。

 そろそろ閉館の時間だろう、美咲が組んでいた足をほどいて席を立とうとした時だった。肩をぽんと叩かれて、びくりと体を強張らせた。


「だ、誰っ!」


「おっと、驚いた?」 


「み、(みどり)じゃない……」


 体を硬くした美咲の目に映ったのは目を丸くしている緑の姿だった。

 驚きだけでなく、少し非難めいた表情になったのは仕方ないだろう。

 それが分かったのか、(おが)むように手を合わせた緑は「びっくりした? ごめんね」と謝った。

 

「驚かさないで」


「ほんとにごめんなさい」


 美咲がさほど怒っていないと感じたのだろう。

 緑は美咲の許可を得ることもなく、長いスカートをふわりとさせて向かいの席へすとんと腰を下ろした。人付き合いに物怖(ものお)じしないところが彼女らしい。


「久しぶりだね。こんな時間に、ひとりでどうしたの? そろそろ日が落ちると冷えるから風邪をひいちゃうよ」


「ありがとう。大丈夫、何でもないから」


「そう? そうは見えないけど」


 美咲は何もない風を装ってみたが、緑は納得してくれないようだ。

 なぜなのだろう。試すかのような緑の瞳を見返す事が出来ず、美咲は目を閉じて首を横に振った。

 知らぬ顔で立ち去ってしまえば面倒でないのだろうが、何故かそれは出来なかった。 少し不機嫌そうな表情で椅子へ腰掛け直す。 


「仕事のこと? それとも講義のこと?」


「どちらでもないの、心配してくれてありがとう」


「じゃあ気になってるのは彼のことでしょ」


「何を言っているの? 私は沢渡君のことなんか考えて……」


 思わず大きな声を出してしまった。苛立ちを見せた美咲は、はっとして口を噤んだ。

 ごまかすように小さな咳払いをして、きまり悪そうにそっぽを向く。

 しかし彼女の優し気な瞳は、それ以上美咲の心にさざ波を立てることはない。あきらめた美咲は肩の力を抜いた。

 

「隠せないのね、正解。表題は沢渡彩人についての考察」


「え? 何それ? レポート?」


「近いわね。とても」


 驚いたように目をパチパチとさせた緑に答えた美咲は、冷たくなったティーカップを人差し指で弾く。整えられた爪で弾かれた陶器のティーカップは、不満気に硬質な音を響かせた。


 藍色(あいいろ)へと変わりつつある空、カフェテラスに満たされる淡い明りは語り部たる美咲を照らす。

 

沢渡(さわたり)君がアーティスト・ブランドを去ったわ」


「うん、知ってる。残ったみんなは大変みたいだね」


 形の良い唇から漏れ出たのは秘め事のように。

 美咲が喉の奥から絞り出した言葉に、緑は落ち着いた声で答えた。

 

「そうね」


 彩人という組織の(かなめ)を失ったためにチームがまとまりを失ってしまった。

 アーティスト・ブランドという舵が効かなくなった船は荒波の中をあらぬ方向へ向かおうとしているようだ。

 しかしその状況を話すことは(はばか)られた。何をどう話してもつまらない愚痴に聞こえてしまうだろう。

 それは美咲にとって我慢できる事ではない。

 微かに頬を撫でる風は美咲に言葉の続きを促す。


「では沢渡彩人という人物について……」


 美咲は芝居がかった言い回しで資料のページをめくるような仕草をしてみせた。


「彼は物静かだが、とても強い意志を持っている。それは時として頑固な一面であるように思われるが、それは真面目さ故のことだろう」


 背筋を伸ばし胸に手を当てた美咲は、堂々と言葉を(つむい)いでいく。

 

「言葉や態度で、ましてや力で相手をねじ伏せるような事はしない。相手を尊重し思いやる心の持ち主である。その姿勢と真摯な瞳は人を惹きつける」


 その声の響きは、ひとつひとつを確かめるように。


「カリスマ性と優れた決断力、それはリーダーを務めるための貴重な資質に他ならないと考えられる」


「リーダーかぁ……」


 美咲の言葉に頷いていた緑は肩をすくめてみせた。


「ねぇ美咲」


 緑はふと表情を改める。


「美咲は彩人(あやと)に絵を描いて欲しかったんじゃないの?」


 その静かな光を湛えた瞳に射すくめられ、美咲は鋭く息をのんだ。


「どういうこと?」


「美咲のレポートには彩人のいちばん良いところが入ってないよ」


 声を絞り出した美咲へ、緑はふわりとした笑顔を見せた。


「彩人はね、絵描きさんなんだよ」


「当たり前じゃない、何を言っているの。私がスカウトしたんだもの、それはよく分かっているつもり。彼の繊細な感性はその高い技術と相合わさって……」


「そういう事じゃないよ。もう美咲も気付いているはず」


 視線を落とした美咲は言葉を続けることが出来ない。

 そう、美咲はあえて気付かないようにしていたのかもしれない。


「パレットにたくさんの絵具を並べて、自分の心を震わせた色を筆にとってキャンバスを染めていく。写実的に、時には自分の心に映った色でね」


 緑の口調は穏やかで、そして慎重に言葉を選んでいることが感じられた。


「美咲が難しく考えているレポートの結論だよ。それは簡単な話、沢渡彩人はサラリーマンに向いていない」


「……サラリーマンですって?」


「聞いて美咲。あなたのアーティスト・ブランドで、彩人はサラリーマンをやっていたんだよ」


 美咲を真っ直ぐに見つめて、緑はきっぱりと言い放った。


「考察的に付け加えるとね」


 静かに紡がれる緑の言葉に美咲が身構える。


「彩人はね、一生懸命なの」


「それは誰だって同じでしょう? あなたも、そして私も」


「……だから。ごめんね、そうじゃなくて」


 緑の言葉を理解できずに、美咲は少し苛立った。


「ずっと、ずうっと。彩人は自分自身がいちばん描きたい絵を描いているんだよ。それはね、探し続けている答えを見つけなきゃいけないから」


 頬杖をついた緑は柔らかな微笑みを浮かべていたが、ふと表情を曇らせた。


「美咲には悪いと思うよ。でもはっきりと言うね、アーティスト・ブランドの活動をしていても、彩人は自分が探している答えを見つけられないんだよ」 


 美咲は唇を噛んだ。

 まるで冷水を浴びせられたようだった。


 美咲のもとへと集まったのは皆が芸術家肌でとても個性が強いメンバー達だ、扱いにくい人物も居たことだろう。彼らをまとめるのは容易ではなかったはずだ。

 貴子には酷評されていたが、彩人の堅実(けんじつ)な働きぶりには随分と助けられていた。

 クライアントから(うけ)()った様々な案件を管理して、その進捗(しんちょく)状況を把握する。業務が効率よく進むように気を配り目を配っていた。

 緑の言うとおり絵筆を取る時間が無かったのかもしれない。それでも彩人は黙って力を貸してくれていたのだ。

 彼自身が歩む道を外れているとしても。


 いつの頃からか自分は彩人をアーティスト・ブランドの歯車としか見ていなかったのではないだろうか。


 そんな事はないと否定しようとした。しかしそうであったならば彩人はアーティスト・ブランドを去ることはなかったのだろう。


「……そんなこと、分かっていたわ」


 小さなつぶやきを漏らした美咲はゆっくりと席を立った。

 

「分かっていたのよ」


 ……胸が苦しい。

 美咲は不意に強く吹き付けた夜風に弄ばれる髪を手で押さえる。

 心の底に深く深く沈めていたのは、そんな後ろめたさなのだろうか。


「帰るわ。じゃあね、緑」


「うん、またね」


 緑に答えることなく、美咲は小さく息を吸い込み背筋を伸ばした。声が不自然に震えないようにと気を使う。

 まるで異世界に足を踏み入れてしまったようだ。

 打ちひしがれて、宵闇(よいやみ)に包まれた逢魔(おうま)(とき)のカフェテラスを後にする。


「あなたと話なんかするんじゃなかった」


 彼女に似合わぬセリフを残した美咲が振り返る事はなかった。


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