スポーツクーペと遙の頬
穏やかな日差しに手をかざすと、優しい風が頬に触れていきます。
冬の訪れを感じる頃には、また気持ちを引き締めなければならないでしょう。でも、もうしばらく秋色の日々を楽しみたいものです。
今日は茶館がお休みの日。私は朝からやる気満々で、お洗濯もあっという間に終わりました。
流行りの歌には疎いのですが、お気に入りの歌を口ずさみながら洗濯かごを抱えて茶館の裏庭に出ます。
おひさまの香りがする洗濯物を畳むのを楽しみに、物干し竿をさっと拭いて洗濯物を干そうと思ったときです。
私の視界の端に引っかかったのは。
「あら?」
茶館の裏に建っている離れの玄関先に一台の自動車が停まっています。どうやら慎吾さんの愛車のようですが。
闇のような黒色に染められたボディのスポーツカーで、何度か乗せてもらったことがありました。
でもどうしたのでしょう。慎吾さんはここしばらくお留守なのです。
なんとなく気になって、車の周りをぐるりと歩いてみました。流れるような曲線で形作られた姿は颯爽としています。
私は車のことが全く分かりません。それこそどうやったら走り出すのでしょう。もう未知の世界なんです。
少し曇った黒いボディに映るぼんやりした自分の顔を眺めていると。
「おはよう瞳子ちゃん」
「ひゃあ!」
いきなり聞こえた大きな声で私は飛び上がりました。
「あ、驚いちゃったか。ごめんごめん」
口をぱくぱくさせながら振り返ると、苦笑いしているのは幸司さんでした。
「お、おはようございます。お早いですね」
びっくりして弾む胸を宥めながらご挨拶します。
麗香さんいわく私は隙が多いのだそうです。
なんだかモヤモヤしてしまいます、普段からぼんやりしていると言われているようで。
悪戯っ子の麗香さんにとって私は恰好の標的なのでしょう。
幸司さんは、慎吾さんの叔父さんにあたる方です。
中古車販売店を経営する社長さんでよく茶館にもいらっしゃいます。
「慎吾さんのお車、どうかしたのですか」
「ああ。慎吾の奴に整備を頼まれてさ、引取りに来たんだ」
ふと気がつけば幸司さんは会社の作業服姿です。そういえば私は幸司さんの作業服姿しか見たことがないかもしれません。
「美人さんに見つめられて車が照れてるよ。黒いボディが赤くなっちまう」
「もう、お上手なんですから」
幸司さんはいつも気さくに声を掛けてくださるのです。
「どうだい調子は?」
「はい。常連のお客様がいらっしゃるのでとても賑やかで、毎日が楽しいです」
近頃は茶館を訪れて下さるお客様が多くて。テーブルとキッチンの間を飛び回るくらい忙しいのです。
「楽しそうでいい事だ。でも茶館の調子じゃなくてさ、俺が聞いたのは瞳子ちゃんの調子だよ」
「私の調子ですか?」
「ああ。今年の夏も暑くて大変だったからどうかなと思ってさ。暑さ疲れとか出ていないかい?」
心配して声をかけてもらえるのはとても嬉しくて。思わず力こぶを作るようなポーズで腕をぽんと叩きました。
「ありがとうございます。ご覧の通り元気です」
「あはは。いい季節だし何処かへ出掛けないのかい。そういや車には乗れるんだっけ?」
「私は運転免許を持っていないんです。それこそ……」
「ほうほう」
幸司さんは興味深げに身を乗り出します。
「お恥ずかしい話ですけど」
しりすぼみに声が小さくなってしまいます。
私は幼い頃から運動が苦手なのです。学生の頃は女の子の中でも背が高いほうでしたから、熱心に運動部に誘われたりしました。
でもバレーボールやバスケットボールなどしようものなら手の指をぜんぶ突き指してしまうので、お断りするのに苦労したのです。
運動会や体育祭のことは思い出したくもありません。
「瞳子はトロいなぁ」
憧れの先輩から言われたひとことはとてもショックで、今でも思い出しては落ち込んでしまいます。
「ああ。そりゃ悪いこと聞いたな、ごめんよ」
もじもじしながら話すと、幸司さんは苦笑いで帽子のつばを指先でなぞりました。
「まぁここは田舎町だからな、運転免許があれば便利だよ。機会があれば慎吾におねだりしてみるといいさ」
「そうですね。機会があれば……ですね」
口元をひきつらせてそう答えたものの。
自動車の運転なんて私には絶対に無理です。どこにぶつかるか分かったものではありません。
青空の高原や夜の湾岸線など。スポーツカーを思うがままに操る事が出来たのなら、とても気持ちが良いかもしれません。
でも、私にとってそれは永遠に叶わぬ夢でしょう。
「こいつはシルビアっていう名前なんだよ。慎吾は気に入ってて、よくあちこち出掛けていたものさ。でも仕事が立て込んできてなかなか自由な時間がとれないみたいだな」
「お仕事が忙しくて……ですか」
幸司さんは大きな手でシルビアの屋根をぽんぽんと優しく叩いています。私はずっと気になっていることがあります。でもお尋ねしても良いものでしょうか。
「あの」
「うん、なんだい?」
「慎吾さんはどんなお仕事をなさっているのですか」
遠慮がちな私の問いに、幸司さんは驚いたようでした。
「あれ、瞳子ちゃんは知らなかったのか」
仰る通りです、私は肩をすぼめて頷きました。
「う~ん」
顎に手を当てた思案顔の幸司さんは、ちょっとの間唸った後で。
「まぁいいか。別に隠さなきゃいけないことじゃないしな」
あっけらかんとそう言って、帽子のつばを跳ね上げて笑いました。
「勿体つける話じゃないよ、慎吾は写真家をやってるんだ」
「し、写真家さんですか?!」
驚きました。
私はこれまで芸術に関するお仕事をなさっている方に出会ったことがありません。
「あ、いやちょっと待ってな。写真家……だったかな? あれ、カメラマンだったか。ごめん、実は俺も違いが分からないんだ」
幸司さんは苦笑いです。
「芸術的なセンスなんて、俺や兄貴は持ち合わせちゃいないからなぁ」
「センス……ですか」
心のひだが多いという事でしょうか。
寡黙な慎吾さんがそんなお仕事をなさっていたとは本当に驚きました。それから……。
慎吾さんと麗香さんの関係がすぐに思い当たりました。
麗香さんが慎吾さんに惹かれる訳が。
ライターの麗香さんとカメラマンの慎吾さん。ふたりはお互いが感じることがよく似ているのではないでしょうか。
もしそうなら……。
「ああ。慎吾と彩人の感性は間違いなく遙ちゃんに似たんだな」
なにかを思い出すような幸司さんのどこか哀しげな表情に気が付いて、私はもの思いから引き戻されました。
「遙ちゃんってのは慎吾の母親のことさ。病気で逝っちまったんだ。明るくて働き者で、絵を描くことが大好きな優しいお母さんだったのにな」
人の悲しい思い出がふと心をよぎる時の表情を見ると、いたたまれなくなってしまいます。
それほどに遙さんは家族に愛されていたということでしょう。幸司さんはちょっと目尻を拭って笑います。
「瞳子ちゃんと同じ衣装を着て茶館で働いていたんだ。茶館で働くのが大好きだったから。瞳子ちゃんが来てくれて、また茶館が開店してさ。きっと喜んでいると思うよ」
はい。
確かに遙さんは喜んでくれました。ごめんなさい幸司さん。内緒ですけど、私は遙さんを知っているんです。
涙に濡れた灰色の日々から、遙さんは私を救い出してくれました。
私にとって遙さんと過ごすひとときはとても大切なんです。
「さぁて。そろそろ帰って仕事にかかるかな」
気持ちを切り替えるように幸司さんは大きく伸びをした後、シルビアに乗り込みました。
キーをひとひねりすると、シルビアが目を醒まします。古い車でもエンジンの音は力強く響き渡ります。
「またね瞳子ちゃん。旨いコーヒーを飲ませてもらいにお店に顔を出すから」
「はい。お待ちしています。お気を付けて」
「ああ。いい休日にしなよ」
幸司さんの一言を残してシルビアは走り出しました。
☆★☆
ふわりとした暖かそうなニットにゆったりとしたパンツルック。
アイボリーを基調としていて、とても落ち着いた雰囲気をまとった遙さん。何を着てもお似合いです。
休日なので、私もお気に入りのジャケットではなく普段着で茶館のカウンターへ立っています。
「春夏秋冬あるけれど。秋はとくに大好きよ。なんといっても食べ物が美味しいものね」
たくさんの美味しいものを思い浮かべているのでしょう、食いしん坊の遙さんらしいです。
今日はモンブランを用意してみました。頬杖をついてフォークを人差し指でなぞる遙さんはとても絵になります。
ひょっとして、私も芸術家気分になっているのでしょうか。
「幸司さんには彩人がとても懐いててね。うふふ、可愛かったなぁ」
両手を頬に当ててうっとりとしている遙さん。思い出を辿る姿がとても微笑ましくて。悲しみの欠片もなく、大切な子供を思うあたたかい気持ちでいっぱいです。
「遙さん、お母さんの顔をしていますよ」
「もう瞳子ちゃんったら」
遙さんは両手で頬をぽんぽんと叩きます。
髪の色も瞳の色も遙さんと同じ。男性だけど遙さんによく似てらっしゃるという彩人さん。
私は彩人さんを想像してみます。どんな声でどんな事をお話しされるのでしょう。
「ほんと照れちゃう。私の顔、赤くなってない?」
「うふふ、もう真っ赤ですよ」
シルビアは赤くならずに、遙さんの頬が赤くなってしまいました。