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難破船

 すっかり秋めいてきたせいか、本社社屋でのエアコン稼働率も下がってきた。夏の大変な時期を過ぎてエアコンもほっとしているだろう。

 それでも動けば少々暑さを感じる。

 龍崎貴子は真っ直ぐに前を見据えて歩く。仕事中の彼女にとってそんな季節の移ろいなど些末なことだ。

 

「貴ちゃん!」


 弾むような調子の声を掛けられて、貴子はふと振り返った。彼女を呼び止めたのは本城グループの産業医である小泉和佳子だ。

 

「なんだ和佳子か」


「あ~なんだって言った。今なんだって言った。貴ちゃんたらひどい」


 邪険に扱われて肩を落とした和佳子はしゅんとしてしまった。彼女は童顔なだけによけいにしょげてしまったように見えてしまう。

 貴子はほんの少しからかったつもりだったのだが、しおしおになった和佳子の様子に少々慌てた。

 しかしそんなことはおくびにも出さない。口に手を当てて妙な咳払いをした後、何食わぬ顔で眼鏡の具合を確かめる風を装った。


「なんだはそういう意味じゃないから、私に何か用があるの?」


「うん、お話を聞いてくれる?」


 さっきまでしょんぼりしていたというのに。和佳子は嬉しそうにぱっと顔をほころばせた。


「……時間がないのまた今度ね」


「あん、待ってよ貴ちゃん」


 気にするんじゃなかったと貴子がそっけない一言でひらひらと手を振ると、和佳子は慌てて白衣を翻してしがみつく。


「つれないなぁ。お茶を淹れてあげるよ、とっても美味しいお茶菓子だってあるんだから」


「ああ、分かった聞くよ。聞くからそんなに引っ張らないで」


 和佳子は両手で貴子の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。しっかりと両手を握られて恥ずかしいやら何やらで貴子はすぐに降参した。

 和佳子に引っ張られるままに社内へ設けられた面談室へと入る。

 面談室は社員のメンタルヘルスのために会社が取っている措置である。和佳子は常勤ではないが、週に三回ほどメンタルの不調を訴える社員の相談を受けている。

 対面する位置に大きなソファが置かれた面談室は掃除も行き届いており、観葉植物が訪れる社員の気持ちを和ませてくれる。

 アロマの香りが漂う室内は消毒液の匂いはしないが、白衣を着た和佳子がぱたぱたしているので学校の保健室のようだ。


「お待たせ貴ちゃん。このお菓子が美味しいの、色合いも秋らしいでしょ」


「ありがとう、そうだね」


 和佳子はうきうきとした様子で、テーブルに可愛らしい茶碗と和菓子を載せた小皿を並べ、丁寧な手付きで急須を傾ける。


「いただきます」


「どうぞ召し上がれ」


 和佳子はほんとうに嬉しそうだ。

 貴子はそんな彼女と一緒にいると、いつも張り詰めている心がふっと和らぐのを感じる。

 湯気がたつ茶碗からは煎茶の良い香りがただよっている。小皿に載った和菓子は上品で、ちょこんとすましているように見えた。


「最近はどう? 貴ちゃんはいつも忙しそうね」


「そう見える?」


「うん、見えるよ」


 和佳子はふうふうとお茶を冷ましながら少し上目遣いに貴子を見た。

 心療内科医師としての癖で、和佳子はじっと相手の顔を見つめる。その表情から心の様子を感じとるのだという。


「ふふふ。まぁ暇では困るからね」


 和佳子に隠すことなどなにもない。鶯色の茶の香を楽しんでいた貴子は小さく微笑んだ。

 そんな貴子の表情を見つめていた和佳子は逡巡していたようだったが、思い切ったように口を開いた。


「ねぇ貴ちゃん。沢渡君、辞めちゃったね」


「またその話?」


「貴ちゃん……」


 和佳子の眉が困ったようにハの字を描く。

 沢渡彩人、その名前を聞いた途端に貴子は不機嫌そうに眉を顰めた。世の中にはどうしても反りが合わない人間というのは居るものだ。 


「美咲様に期待されていたというのに。自分から要職を辞するなど迂闊にもほどがある。この時期からでは就活もままならないだろうに」


 貴子は眉間に深い皺を刻んだ。


「相変わらず辛辣ね。私は気に入ってたんだけどな。真面目だし優しいし可愛いし。けっこうイケメンだし」


 和佳子は楊枝を使って和菓子を切り分けて口へと運んだ。口の中に広がるほんのりとした甘さに頬が緩んでいる。


「イケメンって……何を言っているの。いくら和佳子が持ち上げても、彼に対する私の評価は変わらないから」


 顔の造作の良し悪しは仕事に関係ない。俗っぽい和佳子の意見に、ずり落ちた眼鏡を掛け直した貴子はやれやれと首を振った。


「でも仕事ぶりだって良かったんでしょう? リーダーとしての資質は十分すぎるほどあったと思う。星野さんとかチームのみんなが随分頼りにしていたみたいだけど」


「ああ、それは知っているよ」


 貴子は腕を組んで小さな吐息を漏らした。

 確かに和佳子の評価の通りだろう。だがしかし、貴子には決定的に認められない事があるのだ。


「沢渡では美咲様を支えられないんだ」


 それが思わず口をついて出た。


「どういうこと?」


 興味深そうな和佳子の視線を受けて、貴子はふと天井を振り仰いだ。


「美咲様を支えるのならば、彼女だけを見て彼女が進む道を共にしっかりと歩んでくれる者でないといけないんだ」


「沢渡君はその条件に当てはまらないの?」


「ああ。彼は……沢渡は何かを探している。自分が進むべき道を探しているようだ。そしてそれは美咲様が歩む道ではないから」


 両手で大事そうに持った茶碗を揺する貴子がぽつりとつぶやく。貴子の話を聞いていた和佳子が驚いたように目を見開いた。


「美咲様と同じ未来を見ている者でなければ、私は絶対に認めない」


「そうか、そうなんだね。そういうことなら私も思い当たる節があるな」


 しみじみと頷いた和佳子は、ほのかな笑みを浮かべて体をゆらゆらと揺する。

 しばらく行動を共にしていたが。どんな難題に向かっても揺るがない心の強さは貴子も認めている。栗色をした真摯な瞳の中にゆずれない想いを感じていたのだ。


「ねえ貴ちゃん」


「なに?」

  

「これからはありのままの姿で。優しい貴ちゃんでいいんじゃないかな。もうじゅうぶん美咲さんへ恩返しをしていると私は思うよ」


 和佳子は真剣な表情で貴子を見つめている。

 その瞳から彼女の強い想いと願いが伝わってくる。だが貴子は答えることができなかった。ただ切なげな顔で視線を落とす。 

 和佳子の言うことが分からない貴子ではない。もっと楽な生き方があるはずなのだ。

 周囲の人間とどんなに軋轢が生じても、美咲の為になると判断したならば貴子は躊躇わない。

 あの日、そう覚悟を決めたのだから。


「……そろそろ仕事に戻るよ」


「うん。またね、付き合ってくれてありがと」


 和佳子は気を悪くしただろうかと貴子は心配になったが、彼女は柔らかな笑みを返してくれた。

 

「私のほうこそ誘ってくれてありがとう」


 貴子は表情を引き締めると席を立ち、和佳子の面談室を後にした。


☆★☆


 定時の退社時刻はとうに過ぎており、残業をして仕事に追われる社員の姿もない。

 聞こえているのは自分の息遣いだけだ。

 ひとりきりのオフィスで月末報告書を読み終えた貴子は、眼鏡をはずすと椅子の背もたれに体を預けた。

 少し熱っぽいのは和佳子の指摘通り無理をしているのだろうか。

 いや、貴子自身はそれを無理だとは考えていない。

 主である美咲を支え彼女に尽くす事こそ貴子の使命である。それは貴子にとって喜びですらあるのだ。

 沢渡彩人がアーティスト・ブランドを去った。それは美咲が率いるアーティスト・ブランドにとって大きな変化だ。

 だがすでに組織を去った人間のことなどどうでもいい。

 今、考えるべきは今後の方針だろう。

 貴子は報告書の束を散らかすようにデスクへと放る。ぼんやりとかすむ視界に書類作成者の名前が映った。

 その名前は『沢渡彩人』ではなく『結城和馬』と記されている。

 結城がリーダーを務めはじめ、引き継ぎ期間も合わせて都合二ヶ月となる計算だ。


「どうしたものか」


 貴子の紅く染めた唇からそんな言葉が漏れ出した。

 業績は決して悪くない、悪くないのだが。リーダーが変わっただけで目新しい改革事案の提示もない。

 新規顧客の獲得に乗り出すでもなく、淡々と引き継いだ依頼をこなしている状態だ。

 そもそも貴子は提出された報告書の様式が気に入らない。なぜなら沢渡が作成した書類の様式をそのまま流用しているのである。ここは自分自身の力のほどをアピールする絶好の機会ではないのか。

 いかな社長令嬢の美咲が興した事業とはいえ、アーティスト・ブランドは俗に言うお試し期間なのである。

 攻める姿勢がなく停滞していたのでは、自由にやらせてもらっている意味がない。

 このままのんびりしていれば、美咲の父親でグループの長である本城兼久が口も手も出してくることは容易に想像できる。

 大きな企業グループを牽引する力を持つ男だ。溺愛する娘可愛さにままごとをさせているわけではないだろう。

 それにしても貴子の苛々はおさまらない。

 長期契約を結んでいるクライアントからは、沢渡がリーダーを辞したことについての問い合わせも多いと聞いている。

 結城といえば上昇志向の強い性格であったと記憶している。自身の感性や作風に対して自信を持っており自ずとプライドも高い。

 沢渡を激しくライバル視していたようだ。それがどうだ、組織の頂点へと登りつめたことで満足してしまったのか。

 それならば厳しく教育してやらねばならない。

 業務を引き継いでまだ二ヶ月ではない、もう二ヶ月なのだ。ここが正念場だ、まだまだ落ち着ける日々は訪れない。


(ごめんね和佳子、私はまだ甘えていられない)


 膝を抱えて泣いてばかりいた貴子に手を差し伸べてくれたのは、優しくしてくれたのは美咲だったから。


「アーティスト・ブランドは美咲様の夢を乗せた船なんだ。難破船になどしてたまるものか」


 紅く染めた唇を強く噛みしめ、そう呟いた貴子は煌々と灯るパソコンのディスプレイに向き直った。

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