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キャンバスを訪ねた風(3)

 長い間、ガレージの中で燻っていた相棒たる愛車は、叔父の手によって息を吹き返したようだ。

 革巻きのステアリングを手に馴染ませるように握り、素早いクラッチワークとシフトチェンジを繰り返し、慎吾は力任せにアクセルを踏み込む。ボディを構成する美しい曲線、黒いスポーツクーペは慎吾の要求を確実に実行しようとする。突き抜けるように吹け上がるエンジンの音は、慎吾の胸にびりびりと響いてくる。目まぐるしく動くのは、レッドゾーンへ飛び込むタコメーターの針だ。

 慎吾が駆るシルビアは高速道路の料金所を通過して再び加速に入ると、あっという間に本線の流れへと乗る。本調子を出す愛車に、峠道を走るやんちゃな頃の自分を思い出した慎吾は思わず苦笑した。さすがに、もうそんな馬鹿げた真似が出来る歳ではない。

 過ぎゆく外灯の光。単調な夜の高速道路を走っていると、ふと色々な事に考えが及んでしまう。

 思い出すのはあの冬の日だ。そうだ、彩人は高校二年生だった――。


 ☆★☆


 契約している地元の雑誌社から、依頼されていた写真を撮り終えて帰宅した慎吾は、家の中の雰囲気が違う事に気が付いた。ぼさぼさの頭を掻きながら靴を脱ぐ、夕暮れもとうに過ぎたというのに弟の靴が玄関に無い。

「何があったんだ?」

 純和風の造りをしている家の中に、ざらりとした感覚が残滓として滞留している。冷たい廊下に溜まっている冷気は足を痺れさせた。

 慎吾はそろりと二階にある自室へと入り、上着を脱いでハンガーへと掛ける。すぐに自室を出て、弟の部屋の側で立ち止まった。ノック代わりに柱を叩いてみるが、彩人の気配は感じられず従って返事も無い。

 眉を顰めて顎を撫でた慎吾は階段を下りると、様子を見るように居間へと顔を出し「ただいま」と、控え目に声を掛けた。

「うむ……」

 何やら上擦った声の返事。くしゃくしゃの新聞紙を無造作に広げている父の幸一郎が、苦虫をかみ潰した様な表情をしている。見るからに堅物の父はいつも難しい顔をしているが、今日はまた格別に機嫌が悪そうだ。

 留守中に何があったのか聞きたいところだが、くしゃくしゃの新聞紙から父の精神状態を想像する。下手に話し掛けたりすれば、とばっちりが飛んで来そうだ。そう悟った慎吾は早々に居間を退散した。

 さて、どうしたものかと、廊下に突っ立ったままで思案していると。

「……あの、慎吾さん」

 台所の暖簾を右手で上げて、継母の紫織が顔を覗かせた。

「紫織さん?」

 いけない、まただ……。

 どうしても「紫織さん」と呼んでしまう癖が抜けない。慎吾はいつも後悔するものの、口から出てしまった言葉は、もうどうにもならない。しかし、紫織はさして気にした風でもない。慎吾の側に近寄ると、くいくいと袖を引いた。

「……彩人が、親父と喧嘩を?」

「ええ、そうなの」

 困り顔をした紫織の話を聞いた慎吾は、思わず目を丸くした。自分が留守をしている間に、いったい何が起こったというのだろうか。

「詳しく話を聞かせて下さい」

 慎吾はちらりと居間の父へ視線をやった後、紫織と台所の暖簾をくぐった。

 あまり食欲がないと断ったのだが「少しだけでも食べなさい」と、紫織が慎吾の茶碗と箸を出して並べる。紫織が冷蔵庫から取り出した器には、刻まれた野沢菜漬け。

「それがね、大変だったのよ」

 ほんわり湯気を上げるご飯を茶碗によそった紫織は、騒ぎの様子でも思い出したのか心臓の鼓動を鎮めるように、着物の胸元を押さえて溜息をついた。

 慎吾は茶碗を受け取り、刻んだ野沢菜漬をご飯に乗せて醤油を垂らした後、熱いお茶をさっと掛ける。ざくざくとお茶漬けをかき込む慎吾を見て、微笑んだ紫織は向かい側の椅子に腰を下ろした。

「彩人さんが、進路調査票というのを見せてくれたのだけど。やっぱり、美大への進学を希望したいようね」

「美大に? そうですか……」

 彩人は高校へ入学してからというもの、美術部に入部して一生懸命に絵を描いている。

 だから何となく、彩人の希望は予想することが出来た。

「でも幸一郎さんは、絶対に許さないって仰って。彩人さんと、激しい口論になったの」

 目を伏せた紫織は、そっと首を横に振った。紫織も、彩人が志す道を応援してくれているのだ。

「それで彩人は、家を飛び出したんですね?」

「ええ」

 こくりと紫織が肯く、慎吾は思わず箸を止めた。

 この頃は仕事で留守がちのため、彩人と会話をする機会が少なくなっている事に気が付く。迂闊だったな……と、慎吾は心の中で独りごちた。もっとしっかりしなければならないが、なかなか器用に立ち回る事が出来ない。

 大きな栗色の瞳と栗色の髪。

 母によく似た顔立ちの彩人は女の子のようだが、性格は父に似て意志が強く不器用で頑固者だ。一度こうだと決めたなら、絶対に諦めたりしない。

 若くして逝った母の遙は、心から絵を愛していた。慎吾は、母が彩人へ熱心に絵を教えていた事を覚えている。母の形見のイーゼルが、彩人に力を与えているのかもしれない。それとも全身黒ずくめの姿をした「瑠璃子」という名の怪しい美術教師の影響なのか。

 彩人が絵の道へ進む……。父は愛する人の思い出を心に甦らせてしまうのだろう、それが耐えられなかったのかもしれない。子供にしてみれば親の身勝手な言い分だが、父の気持ちが分からぬ慎吾ではない。

 しかし彩人自身の人生だ、己が進むべき道を選択する権利がある。高校三年生ともなれば、もう大人にほど近い。漠然とした夢を抱いていても、何となく毎日を無為に過ごしているだけの若者が多いというのに。

「私、心配で……あちこちに聞いてはみたのだけど。慎吾さん、彩人さんの行き先に心当たりは無い?」

 父と意見が衝突するのは仕方が無い事だが、紫織さんに心配を掛けるのは感心しない。それでなくても充分過ぎるほど気を使ってくれているからだ。

 空になった茶碗と箸を丁寧に置き、家を飛び出した彩人の行く先を考える。友人宅ではないだろう、黒衣の美術教師はこの街にもう居ない。だが慎吾には、おおよその見当がついていた。彩人が友人に愚痴や泣き言を漏らしに行くはずがない。

「その辺りを、探して見ますよ。一人では家に入りづらいかもしれない」

「待って、雪がちらつき始めたみたい、あなたも風邪をひいてしまうわ」

 カーテンを少し開けて、窓から外の様子を見た紫織が慎吾を止めた。

「俺なら心配ありませんよ。彩人が飛び出したのは、どのくらい前ですか?」

「四時間くらい前だと思うけど」紫織は頬に手を当てて、壁の時計を見ながら答えた。

「分かりました」

 御馳走様でしたと手を合わせ、慎吾は席を立つ。

 自室に戻ってコートを着込み、台所を覗いて声を掛けると紫織にマフラーを渡された。

「親父の方は、お任せします」

「気を付けてね」と心配そうな紫織に肯いてブーツを履き、慎吾は傘を持って家を出た。

 広げた傘を傾けて暗い冬空を振り仰ぐと、大きな牡丹雪が次々と闇の中から現れて来る。しばし不思議な光景を眺めた後で慎吾は目を凝らし、辻の先の暗闇を見透そうとする。しかし深い闇と、雪のカーテンに阻まれてよく見えない。

 商店街に向かう道にあるタバコ屋に寄った慎吾は、叔父の幸司に連絡しようと備え付けの公衆電話の受話器へ手を掛けた。

「ん……」

 突然、目映いヘッドライトの光に照らされて、しばし動きを止める。

「あれは……」

 慎吾は手にしていた受話器を、慌てて元に戻した。見覚えがある車のナンバーを見る。間違いない、叔父の車のようだ。

 慎吾の姿に気が付いたのか、車はタバコ屋の前で急にブレーキを掛けて停車した。勢いよく運転席のドアを開けて、叔父の幸司が車から降りる。作業用のツナギを着たままだ、叔父の表情は険しい。

「叔父さん!」

「おう、慎吾。お前は家に帰るところなのか?」

「いいえ。彩人が親父と喧嘩して、家を飛び出したと紫織さんに聞いたので、探そうと思って」

「そりゃあ、ちょうど良かった。俺は彩人を連れて来たんだ。大変だったみたいだが、紫織さんから何か聞いたか?」

「ええ、聞きました」

「そうか……」

 帽子に降り積もる雪を払いながら、幸司が後部座席のドアを開けた。

 やはり彩人は、幼い頃から懐いている叔父の元へ相談しに行っていたようだ。だが車の後部座席に座る彩人は、ぐったりとした様子で目を閉じている。

「彩人、おい、しっかりしろ彩人!」

 憔悴した弟の顔を覗き込んだ慎吾は、思わず目を閉じたままでいる彩人の名を呼んだ。

 二、三回体を揺すると、彩人が重たそうに瞼を開く。

「あ、兄貴……。どう、して?」

 視線をさ迷わせる彩人、意識が朦朧としているようだ。

「いきなり訪ねてきたから驚いたよ。慎吾、お前も乗っていけ。俺も兄貴に話があるしな」

 幸司の険しい表情には、別な意味もあるらしい。それを悟った慎吾は首を横に振った。

「家は目と鼻の先です、彩人は俺が連れて帰ります」

「慎吾!」

「叔父さん、今日のところは……」

 頭を下げる慎吾の言葉に溜息をついて、雪が舞う夜空を振り仰いだ幸司だったが、肩をすくめて帽子を被り直した。

「……分かった。火に油を注ぐような真似は、やめた方がいいよな」

「すみません、ご迷惑をお掛けしました」

「馬鹿言うな。迷惑だなんて思っているもんか」

 慎吾は叔父が支えた彩人に肩を貸して、ゆっくりと車から降ろした。力が入らないのだろう、体を預けてくる彩人をしっかりと抱き留める。

「じゃあ彩人の事は任せた、俺はこのまま帰るよ。お前が言う通り、兄貴と顔を合わせると大喧嘩になりそうだからな。また後で連絡する……」

 苦笑した幸司は彩人の顔を覗いた後、車へと乗り込んだ。

 慎吾は彩人を支えたままで、ゆっくりと動き出した叔父の車を見送った。

「大丈夫か? 彩人」

「う……ん、大丈夫、大丈夫だから」

 気怠そうな口調、早く家に連れて帰らなければならない。

「ああ、分かった」

 慎吾はマフラーを外して、ぐったりとしている彩人の首へと巻いてやる。「よっ!」傘を畳むと、軽々と彩人を背負った。

「……俺、もっと絵の勉強をしたいんだ。母さんが教えてくれた言葉の意味を、俺はまだ見付けていない。だから……」

 ぽつりぽつりと話していた彩人が、ふと口を噤む……疲れて眠ったのだ。慎吾は彩人を背負う手に力を込めて足を早める。雪に足を取られるが、慎吾は歩みを緩めない。

「お前が望むなら、その道へと進めばいい」

 眠ってしまった彩人に、その言葉が届く事は無いだろうが。

 幼い頃に母から教わった言葉の意味を、一生懸命に探そうとしている彩人。

 慎吾は絵に対して真摯な姿勢で向き合い、一途に取り組む弟を誇らしく思った。


 ☆★☆


 物思いもここまでだ、フロントガラス越しの視界に一条の光の筋が見えた。天空を覆っていた闇のカーテンが、裾から燃え上がり始めたのだ。

「ん……」

 朝日だ――。目を覚まして出発してから、休憩もせずにここまで走り続けて来た。

 相棒も、よく頑張ってくれている。

「もう少しだからな」と、ステアリングを軽く小突いて励ます。 

 慎吾は毎日当たり前のように繰り返される光景に、感動している自分が滑稽で思わず笑みを漏らす。そうだ、この先に高速道路で最後のパーキングエリアがある。そこで缶コーヒーでも飲もう。

 毎朝、瞳子が淹れてくれる美味いコーヒーを飲んでいると、とても缶コーヒーなどでは我慢出来ないのだが。

「……眩しいな」

 眩しいのは朝日か、それとも彩人の生き方なのか。

 目を細めた慎吾は、ぽつりとそうつぶやいた。

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