路地裏堕天使日和
あのね、表の中央通り商店街に「女神様」が現れたって噂を聞いたの。
裏通りにくるくると舞っている、小さなつむじ風が教えてくれた。
「……天使さん、天使さん」って。
「耳寄りな情報があるんですよ」って。
……何が耳寄りなのか分からないけど。
その女神様が現れたのは、小さな古い喫茶店ですって。
う~ん……そんな喫茶店があったかなぁ?
それに、女神様って?
綺麗な人なのかな?
優しい人なのかな?
賢い人なのかな?
噂だけだから、分からない。
今度、噂の女神様を拝みに行かなくちゃ。
女神様には、かなわないけれど。
私は路地裏の「天使」って、呼ばれているの。
「堕」が付いてるけれど。
「堕」は怠惰の「惰」なの。
怠惰な天使……いつもゆるくて、ぼんやりしているからだって。
まったく、失礼しちゃうでしょう?
私の名前は「こころ」……旭川 こころ。
中央通り商店街の裏路地に住んでいる、怠惰な天使よ。
一、
開け放たれた窓から斜向かいに見える家と、その隣の家との境界にそびえるブロック塀の上で、猫がじっと私を見下ろしている。三毛猫かな? よく見かける痩せた猫。名前は知らない、痩せてるし野良かな?眠そうで、気怠そうで……まるで自分自信を見ているみたい。猫はみんな「我が輩は~」とか考えてるのかしら?
それとも。
「毎日ぐうたらこいてるそこの娘、たまには餌寄越せ」
とか考えているのかしら? そう思うと、ちょっと腹が立つ。
「まぁ、どうでもいいわ」
どんなに考えても、猫の言葉が分かるでもなし。つぶやいた私は、くてっと卓に突っ伏した。その拍子にごつんと音を立てて、頭に菓子鉢がぶつかった。
じんじんするけど、面倒臭いからさすったりしない。大丈夫、しばらくすれば治まるから。
私の回りには本と、くしゃくしゃに丸めた紙くずとメモ書き、辞書が数冊散らかっている。くいっと首を動かすと、背中まである長い黒髪が卓の上へふぁさりと広がった。
良い天気。天気予報じゃ、しばらくこの陽気は続くらしい。
みんな、お出掛けするのかなぁ……?
午前中の慌ただしさは過ぎ去り、お昼頃の一息つこうかなーって感じが、ぼんやりと漂っている。
あ、洗濯物取り込まなきゃ。あ、お買い物に行かなきゃ。
あ、あ、あ、あ。色々な「あ」のひとつごとに、家事が浮かんで来る。あれこれしなきゃならないけど。面倒くさいの。
これが「無気力症候群」ってやつよね。
あれ? ふと気付くと、ブロック塀に寝そべっていた猫がいなくなってる。
きっと、だらりとぐうたれてる私に愛想を尽かしたのね。そうなのね、もう私になんて興味がないのね。私は彼のハートを射止められなかったのね……猫だけど。
「何を身悶えてやがる。気持ち悪いぞ、このバカ娘!」
すぱーん!
軽い衝撃を受けた頭。
わわん……と耳に残響、視界がくらっと揺れた。この音は丸めた新聞紙ね、なかなかのスイングだわ。でもまだまだ、これじゃ下位打線の打者止まりね。上位打線、それも四番を任せられるような重みを感じないもの。
……ってぇ! ああっ!
妄想が凄い勢いで駆け抜けて行ったじゃないっ!
首を持ち上げて無理矢理に視線を動かすと、さっき私の頭をはたいた新聞紙を持った父さんが、隣の居間にのろのろと入っていく。
もう! 見たままの、おじさんなんだから。
開け放たれた雨戸とサッシ、部屋に差し込む柔らかな光。小さな庭がよく見える。父さんも私も、庭いじりには興味が無いから草ぼうぼうで投げっぱなし。
何が植えてあるかなんて分からない、母さんなら知っていたんだろうけどね……。
「お父さん、体罰反対ー」
一応、大きな背中に抗議してみる。
「馬鹿言うな。御年二十八歳になる娘の頭を、新聞紙でちょっとはたいたくらいで体罰とは言わねえよ」
振り返りもせずに、反論が飛んで来た。お願いだから、私に許可無く歳を公表しないで。
父さんが黙ってたら、私は「じゅうななさい」で通ったかもしれないのに。
「ほれ、こころ。ぼけっとしてないで、熱い茶を一杯くれ」
「いっぱい? たくさんって事?」
……じろり。おとうちゃんに睨まれた、ぐすん。
泣き真似なんてしてたらまた新聞紙ではたかれるので、卓に手を突いて立ち上がる。
ふふん。
私には、まだまだ「よっこらしょ」なんて掛け声は要らないもんね。ちょっとした優越感に浸りながら、父さんをチラ見してたら「よっこらしょ」と、座る時にしんどそうな掛け声。
吹き出しかけちゃった。少しやせ我慢しちゃったりとか、娘の視線を気にしちゃったりとかしてよ。
父さんはしわくちゃの新聞紙を開いて読み始める。ちゃんと一面から読むのよね、感心感心。でも、株式相場のページを飛ばしちゃうのよ。
私はお茶を淹れるために、ぽてぽてと台所に向かう。小振りなポットの取っ手に、指を引っかけて持ち上げる。
玄米茶ね。急須を出して……と。
ふと、冷蔵庫に目が行く。
そういえば、ペットボトルの緑茶があるわね。
居間で熱心に新聞を読んでいる父さん。私はさっと冷蔵庫を開けて、緑茶のペットボトルを素早く取り出した。みずやから、父さんの大きな湯呑みを出して緑茶を注ぐ。そして電子レンジに入れ、つまみをぐるんと回した。
「うふふふ」
面倒臭いし、これでいいや。頑張って、ぶーんとうなっている電子レンジ。
ちーん!
あわわ、音でかっ!
ちょっと待ってよ、忘れてたわ。
「こころー」
ぎくり。父さんの低い声が聞こえる、額にじわりと浮かんでくる冷や汗。私は戸口から顔だけ出して、恐る恐る父さんの様子を伺う。
「えへへ、な、なにー?」
「まあ、その、なんだ。きちんとしたお茶を飲ませてくれや」
そして、次に続く言葉の予想はついている。
「お茶飲んだら、仕事を手伝えよ」
これで私には引け目があるから、父さんの手伝いを断れない状況が出来上がる。
そう。
恥ずかしくて、娘とうまくコミュニケーションが取れない父さんに、気を利かせてあげたの。
ほんとうよ?
二、
二人でばりばりとおせんべいを囓りながら、ぐびぐびとお茶を飲む。テレビも沈黙している、だから黙々とお茶を飲む。おせんべいもお茶も美味しいけど、ちょっと会話の彩りに欠けている風景。
……ちょっぴり切ない。
お茶も二杯程でやめておく、動けなくなっちゃうから。おせんべいって、お腹の中で膨れるのよ。お茶とお茶菓子、まったりを堪能し終わったら、父さんはお仕事を始める。
私はそのお手伝い。
「ほれ、たのんだぞー」
「ほい、たのまれたわよー」
捻り鉢巻きで気合いを入れた父さんに緩い声で返事をした私は、大きなビニール袋と大きな黄色の太い糸の束、それからミシン油を受け取る。
黄色の糸をビニール袋に入れ、具合を見ながらミシン油を少量袋の中へと垂らす。油の量に気をつけないとね、ベタベタしちゃうの。
あとは、袋の口を縛って、ひたすらもみもみ。
もみもみもみもみもみもみ……。
様子を見て、またもみもみもみ……。
こうするとね、針の通りが良くなって、そして糸も強くなるんだって。
サンダル履きの父さんは庭に出て、一抱えもある大きな袋から、道具を出して組み立て始めた。
「ねぇ父さん」
「何だよ」
「日曜日くらい休んだら? ちょっとお疲れモードに見えるけど?」
「馬鹿にするな、俺は元気だぞ。健康診断にも引っかかっていないからな!」
……やっぱり。
仕事が大好きな人だから、大人しく聞きっこないのは分かっているけど。
「三軒向こうの本池さんち、息子が初孫連れて帰ってくるんだってよ。そりゃめでたい事じゃねぇか、新しい畳で気持ち良く孫を迎えたいって言うんだ。ひと肌脱いでやるのが人の道だ、そうだろ?」
「うん、私もそう思う」
子供の頃から、父さんの生き方は変わらない。誇らしくもあるけれど、娘としてはちょっと心配もしているんだけどな。
「表替えじゃなくて新床だからな、会社で頼めば値段も結構高いんだよ。俺が日曜仕事ですましたら、手間賃はタダで済むだろう」
そう言いながら、大きな道具袋を持ち出してくる。
いつもそうだから、みんな分かっている。
父さんは畳職人なの。
いつもは畳を作っている会社に勤めているけど、元々師匠について育てて貰った職人だから、一人でもぜんぜん問題ない。
「へへへ、会社から良い新床分けて貰ったからなぁ」
新床ってのは、新しい畳床のことね。古い畳を捨てて、新しい物に取り替えるの。
嬉しそうに言いながら、手のひらと肘を守り糸を締める道具、手当に肘当てを身に付ける。昨日本池さんとこに行って、お部屋の寸法を取って来たみたい。父さんは鉛筆でたくさんの数字が書かれた紙を、ばさばさっと無造作に放り出す。
……あんなので、畳がぴったり入るんだから職人の技って不思議。
大切に伝えていきたい伝統の技ね。
「一級技能士検定合格証」「指導員免許証」が額縁に入れて、壁に掛けられている。
飾ってなくてもいいと思うんだけどな、証書が日に焼けて傷むから。
「おう、こころ。糸の準備は出来てるか?」
「はいよ、おとっつあん。とっても良い塩梅よ」
ほんとうは、油塗り立ての糸って使わないんだけど。最近じゃ畳の手縫いなんてほとんどしないから、糸の準備なんてしていないのよ。
「こころ。その、おとっつあんってのはやめねぇか、お粥が出来たんじゃねぇだろう。貧乏げでいけねぇ」
「いいじゃない、その通りなんだし」
「うるせぇよ。天使だなんだって持ち上げられて、いい気になってる馬鹿娘を養わなきゃならんからな」
「私、そんなに食べないもん。ちゃんと家計簿つけてるよ、後で見てみる?」
……頬を膨らませた私の一言に、父さんが沈黙した。
数字を出せば、私の勝利は確実だ。実は私も父さんと同じで数字に弱いの、でもこれは内緒。
父さんは目を細めて、綺麗に巻かれている畳表を撫でている。子供の頃から慣れ親しんだ、イ草の匂い。縁側に置かれた綺麗な模様の畳縁。色んな形の包丁、太い畳縫い針、畳を引っかけて持ち上げる手かぎ……子供の頃は使い方もよく分からなかった、たくさんの道具。
父さんは、そのたくさんの道具を自由自在に扱う。畳を縫う父さんを見ていると、今でもぽーっと見とれちゃう。
はい、コレも内緒ね。
取りあえず、糸のもみもみが私の仕事。父さんは、ちまちました前準備が苦手みたい。
お役ご免の私は、買い物に行く事にした。ちょうどいいわ、それなら中央通り商店街の女神様でも拝んで来ようかしら。
「父さん。今夜の晩ご飯だけど、何食べたい?」
「松坂牛で、すき焼きなんてどうだ?」
「おいコラ」
思わず、声が一オクターブ低くなった。
「ええい、めんどくせぇ。お前が好きな物買ってこいよ。商店街に行けば魚でも肉でも、征二に健太が良い物すすめてくれるさ」
「そうね。じゃ、行ってきます」
「おうよ、気を付けてな」
父さんはそれっきり、作業に集中し始めた。私は腕に買い物籠を引っかけた、一応玄関には鍵を掛けておく。
あ、お化粧は朝ちょっとしただけだ。
ん~まぁいいか、駅前通りに行く訳じゃないしね。
家の前の狭い路地。中央通り商店街がメインストリートだった頃には、まだ賑やかだったけど。駅前通りの開発が盛んになってからは、いよいよこの商店街の裏通りは寂れてしまった。家もおじいちゃんの代には「旭川畳店」だったけど、時代の流れには逆らえなかったのよね。
まぁ、生まれた私が女の子だったってのも、おじいちゃんと父さんを意気消沈させる原因の一端だったのだけど。
こればかりは、私にもどうする事も出来ない。
時の流れから忘れ去られた路地裏。いい加減な工事がしてある、でっこぼこの道。私が歩くと、腕に引っかけた買い物籠がぶらぶらと揺れる。
最近は、道で遊んでいる子供達の姿を見かける事が少ない。閑散としていて、ちょっと寂しいな。
ゴム跳びに、おはじき、鬼ごっこ……そんな子供達の姿を想像してみる。
あ……父さんが子供の頃の話を聞いたのよ。
この路地裏の存在を私に強く印象付けている、家々から聞こえてくる喧噪と、密集した民家から漂うたくさんの匂い。
子供の頃から変わらない路地裏を吹き抜ける風と、滞留している雰囲気。
そう、ここが私の居場所。「こころ」という堕天使の住み処よ。
目を閉じていたって歩ける路地に、ぽつんと祀られているお社がある。所以は知らないけど、ここだけは雰囲気が違う。粗末にしてはいけないって、そう肌で感じる。
子供の頃、夕方まで遊んでいると、お社の前を通るのが怖くて、下を向いて走り抜けたっけ。お社を過ぎ、古い木造アパートの裏からひょっこり顔を出せば、そこは中央通り商店街。今頃になって、お化粧してこなかったのが気になって、きょろきょろもじもじ。しばらく悩んで、えいやっと路地裏から飛び出す。
中央通り商店街は昔から変わらない、たいていの物は揃っちゃう。でも、やっぱり人の流れは華やかな駅前通りほどではないの。駅前の開発は「本城グループ」っていう、都会の大企業が請け負ってるんだって。
そのうちここも、無くなっちゃうのかな? 駅前通りに行くには、ちゃんとお化粧しなきゃならないから面倒くさいんだけど。
さて、商店街に来たのは良いけれど。私を悩ませる大きな問題がひとつ。
「肉屋」と「魚屋」が、なんで向かい合ってるのよ。
どちらも目の色変えて声を張り上げるから、とっても怖い。
また今日もかな?
……嫌だな。私は公平性を保つ為に、肉屋側にも魚屋側にも寄らずに、通りのど真ん中を進む。
このまま野菜だけ買って帰ろうかな? びくびくしながら通りを進む、あ、どちらのお店のご主人も、私の姿が視界に入ったらしい。
ああ、今ロック・オンされたわ。私、狙い撃たれるのねっ!
「へい、らっしゃい!」
「おっ! そこのお嬢さん、良いアジが入ってるぜ!」
「おおい、豚ロースで、トンカツなんてどうだい?」
わああ、始まった……。
肉魚、肉魚、肉魚、肉魚、肉魚……。
もう、どっちを買っていいのか分からない。
……あれ?
おかしいな? 頭がぼーっとして、目の前がぐるぐる回ってる。腕に掛けているはずの、買い物籠の重さを感じなくなった。
回る回る、回る視界は万華鏡……あ~カレイドスコープだったっけぇ?
声が……遠くから声が聞こえてきた。
(おい! こころ! しっかりしろ!)
誰かが、私の名前を呼んでいる。
「……ごめん、無理」
それっきり、私の視界は真っ暗になった。
三、
「ふみ?」
気が付くと、音楽が聞こえていた。
揺るやかで、静かなメロディ。そっと体を起こすと、ぼんやりとした意識が次第にはっきりしてきた。
辺りを見回して驚く。
「ここ、額縁屋さん?」
そう思えるほどに、たくさんの絵が壁に掛けてある。そうよね。画廊なんて高尚なものは、商店街には無いもの。
私がきょろきょろしていると、
「ああ良かった、気が付かれましたね!」
涼やかな声が、耳に響いてきた。美人さんが近づいて来る、手にはタオルと、水を満たしたグラス。
目を凝らして、よーく観察する。
黒いジャケットにタイトなスカート、エメラルド色の飾り石が留められた可愛いリボンタイ。黒くて艶のある髪、色白で整った顔立ち……羨ましいくらいみずみずしい唇。
私、どれくらい誉めたかな。でも、ちょっと背が高すぎない?
ぼんやりしていて言葉が出にくい私に、女の人はにっこりと微笑んでくれた。
「軽い貧血でしょうって、しばらく休めば楽になりますわ。すぐに冷たいミルクセーキをお持ちしますから」
ああ、なんて優しい人なの?
肉屋と魚屋の板挟みにあって、しかも久しぶりに晴れ間に外出して日に当たったものだから、気分が悪くなって倒れた私を介抱してくれるなんて。
心に染みいる、じ~んとした温かみを噛みしめていると、
「大丈夫か? こころ」
うん、大丈夫、大丈夫。
あれ? 私の名前を知ってるの?
声のほうへぐるんと顔を向けると、見知った顔。
大柄で物静か……あれ、この顔は確か同級生のはずよね。
「えーと?」
「俺だ、沢渡だ。沢渡慎吾…….。健忘症か、お前」
健忘症とは失礼ね。今、思い出すんだから、もう!
慎吾、沢渡……。
「ああっ!」
私は唐突に思い出した。そうよね、沢渡君のお家は喫茶店だった。
そうとすると、中央通り商店街の喫茶店って、このお店の事?
それでもって、女神様って……。
私の視線は、さっきの女の人へ吸い寄せられる。
銀のトレイに、冷たいミルクセーキを乗せてる……うん、間違いなく女神様だわ。
「あの、貴女は女神様ですよね!」
思わず、そう口走っちゃった。
「え!? め、女神様だなんて……!」
目を丸くして驚いた後、ほんのりと頬を染めて微笑んだ彼女。
綺麗で優しい人、まだ賢いかは分からないけど、多分賢いと思う。
彼女の名前は瞳子さん。私は、女神様に会ったんだ、プチ冒険した気分で何だか感慨深い。
「こころ……お前、相変わらずみたいだな。そういえば、まだ物書きをしてるのか?」
「うん、ぼちぼちね。そんなに呆れた顔しないでよ。心から物語が溢れ出て止まらないうちは書き続けるわ」
「……そうか」
肩を竦めた沢渡君は「頑張れよ」って、言ってくれた。
喫茶店の名前は「画廊茶館」だって。女神様みたいな瞳子さんのミルクセーキは、甘くてとっても優しい味がした。
小さなつむじ風が教えてくれたのは、瞳子さんの事だったのね。ああ、目が眩んじゃう。瞳子さんの背後から後光が差してる。
「気を付けてな」
「また、いらして下さいね!」
うん、そのつもり。
「ありがとう」
気分が良くなって、家に帰ると言うと。瞳子さんにお手製のお煮染めと、メンチカツを貰っちゃった。家まで送って行くと言う沢渡君の申し出を遠慮する。大丈夫……住み慣れた裏路地だもの、すぐそこなんだもの。
家の前に着くと、もうすっかり夕方だった。
仕事を終えていた父さんが、私を出迎えてくれた。沢渡君から電話があったらしい。夕日を浴びて赤い父さんの顔は、どことなく憔悴していた。
「こころ、心配したぞ!」
「ごめんなさい」
何か遠い昔……幼い頃を思い出して、ほろりっと転がり出た涙を慌てて拭う。これ以上父さんを心配させられない。
「父さん。今夜のおかずは、女神様のお手製メンチカツよ」
「何だよ、天使の次は女神かぁ? そのうち大黒様や、弁天様も出てきそうだな」
そう言って、父さんが笑った。
新床の畳の匂いが私は好きなの、明日は入れ替えね。
父さんは、疲れて早々と寝ちゃった。タイガースのナイターを、楽しみにしてたのにね。
静かに降りた夜の帳、路地裏で暮らす人を迎えに来る夢列車。
でも、私は乗客になれない、お仕事をしなきゃならないもの。
卓の上に乗せた原稿用紙。
私は長い黒髪を、後ろでひとつに纏めた。
髪の長さも、時間の使い方も、ぼんやりしているのも、そう何もかも……。
すべてはインスピレーション、私のこころから溢れる、たくさんの想いを期待する呼び水。
眼鏡を掛けて深呼吸。
ゆっくりと気持ちを高ぶらせながら、万年筆を手に取った。
瞳子さんを思い出しながら原稿用紙に向かい、一気にタイトルを綴った。
――物語のタイトルは。
「The Story of Art Gallery Coffee shop」
古くて小さい茶館と、優しい女神様の物語。