胸騒ぎのトライアングル
厚いカーテンに陽の光が遮られ、まだゆるやかに微睡んでいる茶館。
私はジャケットやスカートの皺を確認して、胸に留めたリボンタイの飾り石に手を触れます。
もちろん、高価な石などではありません。艶やかなエメラルドグリーンの石から、指先に感じるのは硬くヒヤリとした感触。心を落ち着けて静かに深呼吸していると、茶館に飾られている絵の囁きが聞こえてくるようです。
今日は、どんな一日になるのでしょう。ぱっちりと目を開けて、最後に黒髪を飾る大切なバレッタを確かめると、胸元へ両手をあてて一日の無事を祈ります。
午前十時三十分は開店の時間、私はさっと窓のカーテンを開けました。
お店の中へと差し込む眩しい光、窓に映るのは今日も変わらぬ時を刻む街の景色……。
開店前の準備をする為に扉へと向かう私は、弾む心のままに軽くステップを踏んで、くるりとターンを決めるのです。
「はい、綺麗に決まりましたっ!」
ぽん! と手を打ちます。
お店の中には私一人だけ、遙さんの姿は見えません。はしゃいでいる私の姿、遙さんは、栗色の大きな瞳を柔らかく細めて「あらあら……」って、微笑まれているかもしれません。
さぁ、いちばん始めに力仕事です。
「よいしょっ!」とイーゼルを持ち上げて、お店の外に出さなければなりません。
背丈ばかり高くて力が無い私には、大型のイーゼルはとても重たくて、なかなか大変なのです。
慎吾さんがいらっしゃるときは、片腕でひょいっと持ち上げて下さるので、私はいつも目を丸くしてしまいます。
今日は木曜日。
ここのところ慎吾さんは、木曜日には決まって朝から姿が見えません。仕方なく、ひとりでうんうん言いながらイーゼルを抱えて外へ出ると、お店の入り口に立つ女性の姿。
黒いテーラードジャケットにタイトスカート、足元はヒールではなく普通の革靴です。
そして肩に下げていらっしゃるのは、とても大きなトートバッグ。
その雰囲気は颯爽としていて、仕事をばりばりこなしてしまいそうなワーキングウーマンです。
「おはよう。あら、大変そうね?」
「え? あ! お、おはようございます!」
驚きました。お店の前に立っていたのは、先週の木曜日に私に詰め寄った彼女でした。
確か、麗香さんというお名前の女性です。
彼女の「ライバル宣言」を、挑戦状を忘れてはいません。
私は麗香さんにとって憎き恋敵です。不機嫌そうなご様子でしたので、まさかまた茶館にいらっしゃるとは思っていませんでした。
ですから私はあまりにも慌ててしまって、
取り敢えずご挨拶しようとしてバランスを崩し、イーゼルを抱えたままぐらりとよろめきました。
「ああっ!」
「ほぉら! 何やってるのよ、危ないじゃない!」
倒れそうな私の体を、さっと麗香さんが支えて下さいました。
「あなた、トロいわね。そんなので大丈夫なの? それともドジっ子キャラの演出?」
「は、はあ……。いえ、あ、有り難うございます」
ええと、この間もそうでしたが、何となくお話の内容が理解しづらいのです。
麗香さんは、私とは違う人種なのでしょうか? 私は心の中で首を傾げながら、彼女に頭を下げました。彼女はひょいとメニューを書いた黒板を手に取り、イーゼルの上へと置いてぱんぱんと手をはたきます。
「さ、お終い。お店、もう入ってもいいの?」
「あ、はい! どうぞ!」
慌てて案内しようとすると彼女はお店の中をぐるりと見渡して、さっさと窓際へと歩いて行かれます。麗香さんはお店の一番奥、窓際のテーブルの位置が気に入ったのでしょう。彼女がテーブルへ落ち着くと、私はおしぼりとお水を満たしたグラスを運びました。
「いらっしゃいませ」
改めて、丁寧にぺこりとお辞儀をします。
「あなた、名前は?」
「はい?」
「だから、名前よ。あなたのな・ま・え!」
「は、はい! な、名前ですね、み、水無月 瞳子と申します」
「……珍しい姓ね。うん、分かったわ」
麗香さんは、何度か口の中で私の名前を反芻したようでした。
「じゃあ瞳子、ブレンドお願い。それからこの席だけど、毎週木曜日はリザーブって事にしてくれない?」
「ええっ!? よ、予約席にですか?」
「そ、私専用」
茶館はとても小さなお店、そんな大きなレストランのようなサービスなんて。
私は考えた事もありません。
「開店から閉店までね。来ることが出来ない日は、ちゃんと連絡するわよ。それに、食事もここですればいいでしょう?」
「ええと……あの、そ、それはですね……」
麗香さんの、畳みかけるような口調。
先週、麗香さんが私に突き付けた「ライバル宣言」を思います。
何を考えていらっしゃるのでしょう?
ひょっとして、これは作戦なのでしょうか?
麗香さんの考えが理解出来なくて、目を白黒させていると。
「……と、いうことで。はい、決まり、じゃ宜しくね!」
「ええっ!」
何が「……と、いうことで」なのか、私には分かりません。
でも麗香さんは澄ました顔で、ぱっちりとウインク。すると、もう私の姿など目に入らぬように、バッグからノート型のパソコンと書類の束をテーブルの上へ並べ始めます。
そして、呆気にとられている私をちらりと見ると。
「何をぼんやりしてるのよ……ほら、ブレンドは? あなたも早く仕事をしなさいよ」
ぽかんとしてしまっていた私を急かす麗香さん。まるで、ジェットコースターにでも乗っているような気分です。
私は慌ててカウンター内へと入ってポットを火に掛け、コーヒー豆の保存容器を開けます。
準備をしながら麗香さんを見ると、もの凄い早さでキーボードを叩いています。驚きました、手元なんてまったく見ていらっしゃいません。
ご職業は、文筆業をなさっているのでしょうか?
きりっとした、麗香さんの表情。鮮やかなルージュを引いた唇を引き結んで、パソコンに向かう麗香さんの姿は、とても素敵に見えます。
その姿をぽーっと眺めていると、しゅんしゅんと騒ぎ出すポット。
あら、お湯が沸いたみたいです。
私はドリッパーに、ゆっくりとお湯を注いでいきます。時間を掛けて、ゆっくりとコーヒーの粉を蒸らして……。
遙さんのように「美味しくなーれ、美味しくなーれ」と、心を込めておまじないをかけます。
良い香りを漂わせる、褐色のコーヒーをカップに注いでソーサーに乗せ、ぴかぴかのティースプーンをそっと添えて。
お仕事ですもの……挑戦状なんて気にしません。
銀のトレイで、おもてなしの気持ちと一緒に運びます。
「お待たせしました」
麗香さんの傍らにカップを置くと、彼女はパソコンをテーブルの隅に寄せて。
「ありがと」
小さな声で言って、丁寧にカップを持ち上げました。
細くて長い指、綺麗に手入れされたピンク色の爪、ネイルサロンで手入れされているのでしょうか。
ちょっと羨ましいです。
水仕事が多い私の手は、ちゃんと気を付けていないと、すぐに肌が荒れてしまいます。
慎吾さんが食器洗い機を入れようって、言って下さるのですけど。お疲れ様のお皿やカップは、自分の手で洗ってあげたくて。
……あ、物思いに耽っていてはいけません。
目を閉じて香りを楽しみ、ほーっと長い息を吐いた麗香さん。
ティッシュを取り出して、赤いルージュを押さえてから……そっとひとくち。
「うん、美味しい……なるほど、あなたらしい味よね」
「え?」
「なんでもなーい」
麗香さんは、つん! とそっぽを向くとカップをソーサーに戻し、またパソコンを手元に引き寄せました。
隣に座って、お仕事をなさる様子を見ていたかったのですが、お邪魔になってしまいそうで。ちょっと残念です。
私は仕方なく、洗い物をしようとカウンターへ戻ります。
そこで、私はまた「ライバル宣言」を思い出していました。その挑戦状を思い出すと、やっぱり胸のあたりがもやもやします。
大きく深呼吸して、胸に溜まったもやもやを、ぱっぱっと追い払います。
スポンジをきゅっきゅっと揉んで泡立てて、サーバーを手に取ると。
「それで瞳子……慎吾とは、どこまでいってるのよ?」
がっちゃーん!
「は、はい?」
いきなり麗香さんに問われ、私は手を滑らせてサーバーをシンクの中へと落としてしまいました。
胸の鼓動が早くなり、どきどきと高鳴っています。
「ど、どこまでって……し、商店街の集会所……ま、までですっ!」
「……あなた、何を言ってるの?」
パソコンの画面から目を離し、口をへの字に結び半眼で私を見つめた麗香さんは、
「まぁいいわ。その様子じゃねぇ」
そう言って、にやりと笑うとまたパソコンの画面を睨んで、カタカタとキーボードを打つ作業に没頭し始めました。
どうしてなのでしょう、ちょっと悔しいです。
ああ、いけません。
気持ちを入れ替えようとして、ぴしゃっと両手で頬を叩いた私は「ひゃっ!」と小さな悲鳴を上げます。顔中が泡だらけ、洗い物の途中だということを、すっかり忘れていました。
「ねぇ、慎吾は朝何時頃起きるのー?」
タオルで顔を拭っている私に、ぽーんと飛んでくる麗香さんの質問を、ちょっと及び腰で受け止めます。
「し、七時過ぎですね、お店には八時三十分頃お見えになります」
「朝ごはんって、食べるんだっけ?」
「……ホットサンドを作って差し上げますわ。たまにフレンチトーストを、後はサラダに卵の料理、コーヒーですね。体が大きいから、たくさん食べて下さいます」
「……あ、あいつ、コーヒーが好きよね」
「朝はいつも、ブラックで二杯です」
「ふ、ふーん……そ、そうなの……」
あ、麗香さんの眉間に縦皺が出来ました。同時に、ガタガタと揺れ出すパソコン。麗香さんがキーボードを叩く音が乱れて、だんだん大きくなってくるような気がします。
「そ、そうそう煙草は……」
「以前は一日にひと箱くらいでしたけど、最近は煙草を吸ってらっしゃる姿を見ませんね」
「さ、最近は、よく仕事に出て行くの?」
「お仕事ですか? ええと、それは……」
私は沈黙するしかありません。なにしろ私は、慎吾さんのお仕事を知らないのです。
「ふふん」
私を流し目でちらりと見た麗香さんが、得意げに鼻で笑いました。
どうしてなのでしょう、何だかとっても悔しいです。
「あいつ、良い腕してるのよ。それなのにマイペースっていうのかしら、見ていると苛々するわ。才能があるのに無駄にしてるなんて、私にはとても考えられない」
テーブルへ肘をついて、ぶつぶつと慎吾さんへの不満を漏らす麗香さん。
慎吾さんの良い腕とは、何の腕なのでしょうか? ま、まさか……以前見た夢が、頭の中へと甦ります。
い、いいえ、そんなことはありませんよね。
麗香さんに尋ねてみたいという興味はあるものの、何故か言葉が喉につかえて口から出てきません。
それに、麗香さんの問いに答えていて感じたのですが。
私が知っているのは、慎吾さんの生活リズムだけなのです……慎吾さんの心の中は謎のままで、知らない事の方が多くて。
不意に、心の隅に生まれた不安。
知らない事が多いのは当然なのかもしれないのですが。
でも、私の心に芽生えた不安は心を縛り付けて、さらに蔓を伸ばしていくのです。
どうしてなのでしょう。
慎吾さんとの間に、縮められない絶対的な距離があるように感じてしまいます。
それは時間やお互いに交わす会話などでは縮められない……。
慎吾さんが意図的に作っている、私との心の距離なのでは……。
急に落ち着かなくなった気持ちに、不安がいよいよ大きくなってきました。息苦しさを感じ、シンクに両手を付いて深呼吸を繰り返します。
思い出したくない感情、忘れたはずの彼の言葉、冷たい指輪……。
私の心を深く切り裂いた鋭いナイフが、ゆっくりと心の奥底から浮き上がって来る感覚に脅え、どうにもならなくなった時でした。
「……瞳子」
麗香さんに名を呼ばれ、我に返った私は何とか顔を上げました。
「……知らないって事に、こんなにも不安を感じるなんて」
「あいつは、慎吾は自分が思っている事を、ぺらぺらと話す奴じゃないのは分かっているでしょう? まぁ、もともと口数も少ないわよね……でも、あいつがどんな奴かって事は、ちゃんと感じているでしょう?」
麗香さんは体の力を抜いて、すっと足を組むと、カップを持ち上げて揺すります。
「心と心の距離なんて、誰にも測れないわ……」
カップの中で揺れる、コーヒーを見つめる麗香さん。
「私は仕事での関わりがあるの、あなたと反対の立場ね。だからそれ以外の事は知らない。それはあなたと同じ事、そこはお互い同じカウントなんだから」
カップをソーサーに戻して縁をなぞる綺麗な人差し指。
そのまま頬杖を付いて、じっと私を見つめる挑戦的な眼差し、深い琥珀色に見えるその瞳。
「あいつ、考えが読めないところがあるから。いちいちぐらぐらしていたら身が持たないわよ」
麗香さんはくすりと笑うと、またパソコンに向かいます。
「ねぇ、お昼には生クリームのフルーツサンドイッチが食べたいな、出来るかしら? 頭を使うとね、どうしても甘い物が欲しくなるのよ」
「は、はい、かしこまりました」
「楽しみにしてるわ」
今日は麗香さんのペースに乗せられっぱなしです。でも、いつの間にか心にのし掛かっていたあの辛い感情は消えていました。
「しっかりしなさいよ。あなたがそんな様子だと、勝ち負けが見えていて面白くないから」
そう言って肩を竦め苦笑した麗香さん。
麗香さんの余裕……なのでしょうか、先週のような刺々しさがありません。
「嫉妬の炎を燃やすなんて、みっともないのもごめんだわ。私はね、いつでも凜とした姿でいたいの」
そう言って微笑む麗香さんの表情に、私はどきりとしてしまいました。
彼女の口振りから、それだけの自信が感じられます。
「胸を張っていなさい。あ・な・たは、わ・た・しと正反対……とても面白いわ。私が持っていないものを、たくさん身に付けていて……だからこそ、ふふ、言わなくても分かるわよね」
すっうと瞳を細める麗香さん。
その瞳の輝きは挑戦的なのですが、何処か親しみも感じてしまいます。
「さ、取り敢えず元気付けてあげたんだから。サービスしなさいよ」
……前言を撤回します。
したたかな……恋敵。
ひょっこり顔を出した、麗香さんの黒くて尖った尻尾がはっきりと見えました。