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アトリエ

 少し狭い階段をゆっくりと上り、白塗りのドアのノブを回す。

 茶館の二階にある小さな部屋に入ると慎吾はぐるりと室内を見回した。

 埃っぽい部屋には家具など何ひとつ置かれてはおらず、そこにはただ静寂だけが留まり、油彩画に必要なテレピン油が発する独特の匂いが微かに残っている。

 この匂いの好き嫌いは人にもよるが、子供の頃から油彩の画材が身近にあったので慣れているのだろう、慎吾は少しも不快に感じない。

 若くして他界した母、「遙」はこの部屋をアトリエとして使っていた。

 茶館の定休日や一日の終わりに少し暇を見つけては、ここで大好きな絵を描いていたのだ。筆を手にキャンバスに向かうその表情は、真剣というよりとても優しかったのを慎吾は覚えている。

 その絵の素質は弟へと受け継がれたようであり、母は当時小学生だった弟へと、茶館の壁に掛けられているたくさんの絵を眺めながら色々な話を聞かせていた。

 母は、いつも笑顔を絶やす事のない人だった。

 さりげない心配り、気配りは人の心に安らぎを与える……。

 当時の茶館には、いつも皆の笑顔があった。

 しかしふと笑顔をおさめた母の、儚げな印象を知る者は少ない。性格の明るさとは裏腹に、あまり丈夫な身体ではなかった。

 母は心に努めて、明るく振る舞っていたのかもしれない。

「あの、慎吾さん?」

「ん? ああ、すまない」

 自らの思考に沈みかけていた慎吾は、遠慮がちな声に振り返る。

 小さなボストンバッグひとつを持った瞳子が、所在なげにドアの側にぽつんと立っていた。

 身に付けているのはシックな黒のカットソーに、裾が長い白っぽいスカート。

 どうやら瞳子は大人しく、歳のわりに派手好みではないようだ。

「本当にこんな部屋でいいのか?」

「はい」

 もう一度、部屋を見回した慎吾が確認をすると、瞳子は大きく頷いた。

 茶館にも一応生活設備は整っているが、この部屋はやはり狭い。長身で大柄な慎吾は部屋に入っただけで圧迫感を覚える。

 茶館の裏手には祖父母が住んでいた離れの一戸建がある。かなり古い建物だが、この狭い部屋よりはずいぶんと快適だろう。

 そこを自由に使えばいいと言ったのだが、どうやら瞳子はこの部屋が気に入ったらしい。

「また、遙さんに会えそうな気がして……」

 瞳を伏せた瞳子が、そっとつぶやく。

 ある梅雨の日、心が繋がりあっていたはずの大切な人との絆を失い、寂しさと悲しみを抱え一人街を歩いていた瞳子は、偶然雨宿りをしたこの茶館で母に会ったという。

 母は瞳子を茶館へと招き入れると、自慢だったカフェ・オレを淹れてその悲しみに濡れた心を癒し慰め、茶館で働かないかと誘ったというのだ。

 悲しみの淵で途方に暮れる自分へと、暖かく優しい手を差し伸べてくれたと瞳子は言う。

 彼女の心の中で、母は特別な存在なのだろう。

 しかし、瞳子は茶館で母の幽霊にでも会ったという事になる。この茶館が独特の雰囲気を持っている事は、慎吾も承知しているので特別驚いたりはしない。そんな事もあるかもしれない……その程度だ。

 だが自分にとっていくら特別な存在だとしても、また幽霊に会いたいものだろうかと、慎吾は思う。

 瞳子は少し変わっている娘かもしれない。

 そして瞳子が母に渡されたいう手紙は、慎吾へと宛てられたものであり。

 要領を得ない文面で茶館をもう一度開店させ、瞳子を働かせて欲しいと綴られていたのだ。

 封筒に描かれた小さなシロツメ草のイラストと母のサイン。

 慎吾自身も、その手紙を母が書いたものだと信じざるを得ない。

「長い間使っていない部屋だから、掃除が大変だぞ?」

「それは頑張りますね」

 ボストンバッグを床に置いた瞳子が窓を大きく開くと、夏を感じさせる熱気を帯び始めた風が室内に吹き込んで来る。

 瞳子は長い黒髪を押さえて、窓から見える景色をめずらしそうに眺めている。

「ここからは商店街がよく見えますね。八百屋さんや、魚屋さんの大きな呼び声が聞こえてきそうです」

「そうだな。買い物客で賑やになるから、夕方には本当にここまで響いてくるぞ」

 慎吾は煙草を一本出してくわえると、ぼさぼさの頭を掻いた。

 休業してはいるが、この茶館も商店会の立派な一員である。

 この街の商店街には活気があり、強い集客力を持つ駅前の大型店にも決して負けてはいない。夕刻には買い物をするたくさんの主婦達で賑わうのだが、軒を連ねる商店街に見える人の流れは、まだまばらだ。

 慎吾の祖父も、そして母も商店会に積極的に関わっていたからなのだろう。

 威勢の良い商店会の面々の発案により、茶館の再開店を祝う壮行会が、後日に予定されていた。

 もっとも皆、酒を飲む口実が欲しいだけなのかもしれないが。

「いらっしゃいませ、画廊茶館へようこそ!」

 長い黒髪を風になびかせた瞳子が振り返り、涼やかではっきりとした声を出した。

 光を弾く笑顔、紫色にも見える不思議な色合いの瞳を細めて微笑む。慎吾は煙草をくわえたまま、ぽかんと瞳子の顔を凝視した。

「えと、あの。商店街の皆さんに負けないようにと……。れ、練習です」

 慎吾の驚いた顔に、真っ赤に頬を染めた瞳子がうつむいてもじもじしながら、消え入りそうな声で言った。

 なるほど、お袋が気に入る訳だ。

 こみ上げる笑いを苦労して噛み殺しながら、煙草を箱の中に戻した慎吾はひとつ息をついた。

 茶館の再開店を決めたのだが、何から手をつけたらいいものか……。やらなければならない事が山積している。

 この部屋も、古いエアコンを買い換えて、カーテンなども用意しなければならない。タンスやクローゼットも必要だろう。

 開け放たれた窓を見ながらそんな算段を始めた慎吾は、ふと部屋の隅に視線を向ける。

 その一画は、いつも母が大切にしていたイーゼルが置かれていた場所だ。

 母が愛用していたイーゼルはとても使い込まれた古い品だが、造りがしっかりとしている良い品だった。そしてそのイーゼルは紆余曲折を経て、今は絵の道を志す弟の手元にある。母の形見として、今は都会でひとり苦労しながら絵を学ぶ弟を、支えてくれているだろう。

「そうだ、忘れるところだった」

 慎吾はそう言って、イーゼルの居場所だった一角に置かれている黒い衣装ケースを瞳子に渡した。

「これは?」

 黒い衣装ケースを受け取った瞳子が、きょとんとした顔をした。

「開けてみろよ」

「はい」

 不思議そうな顔をした瞳子が、床に置いた衣装ケースをゆっくりと開ける。

「あっ!」

 箱の中には真新しい黒いジャケットが、綺麗に畳まれている。

 一瞬、大きく目を見開いた瞳子は小さな声を上げ、中に入っていたジャケットを手に取り、大事そうに抱きしめた。

 慎吾が商店街の洋裁店に、母が着ていたものと同じ衣装を頼んでおいたのだ。

「お袋が言ったんだろう? よく似合うってな」

 慎吾は、強い光を受けてエメラルド色に輝く飾り石が付いたリボンタイを、瞳子に差し出す。リボンタイに留められているのは、茶館で楽しげに働いていた母の襟元で輝いていた飾り石と同じ物だ。

 泣き笑いの顔でリボンタイを受け取った瞳子が、そっと涙をぬぐった。

 今日から母のアトリエは、住み込みで働く瞳子の部屋になる。

 ひょっとしたら、本当にまた母が遊びに来るかもしれない。

「いいや、まさかな」

 慎吾はひょいと肩をすくめると、馬鹿げた想像をさっさと頭の中から追い出した。

 これから目が回るほど忙しくなる、そんな想像を巡らしている場合ではないだろう。

 まもなく梅雨が明け、長い長い眠りについていた茶館が目を覚ます。

 窓から射し込む強い日差しが、これから始まる暑い夏を思わせていた。

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