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海を越えて伝えられた色

 お昼過ぎの緩やかな時間の流れはお客さんの間だけ。喫茶フェアリーテールの厨房で並んで忙しなく手を動かすのは、オーナーの智一とアルバイト店員の彩人だ。

「彩人君、フルーツは準備出来たかい?」

「……はい、ただいま準備中デス」

「トッピングって、楽しいよね!」

「……はい、まったくその通りデス」

 エプロンをきりっと締めた智一は目の前に大きなパフェグラスを並べ、うきうきとクリームとソースの層を幾重にも重ねている。楽しそうな智一のうきうきを盛りつけられた冷たくて真っ白なクリームと、美味しそうなソースの色で弾んだパフェグラス。

 その傍らでまるでロボットのように、用意した果物を流水で洗う彩人の表情はげんなりとしている。

 二人の表情は対照的だ。彩人は洗い籠からオレンジを取り出すと、ぽんぽんと手の平で弾ませてカットに取り掛かる。口でぶつぶつ言いながらでも、器用に果物をカットする手を止めない。

 男の子の手とは思えないほど、細くて綺麗な指。右手に持ったペティナイフを閃かせてリズミカルに果物を切り分けていく。

 彩りも豊かなたくさんの果物、オレンジ、バナナにりんごに黄桃、キウィにマンゴー、メロンにパイン、可愛いベリーにチェリー。

「おや、彩人君。今日は機嫌が悪そうだね?」

「……当たり前です」

「あはは、まあ今回は君の失策だよ。声を掛けられたのが美人だからって、訳も分からず、ほいほいとついて行ったりするからだ。子供の頃、親御さんに言われただろう? 知らない人について行かないようにってね」

「ええ、確かにそう言われていましたけど。別に美人だからって、ついて行ったんじゃありません!」

 彩人の不機嫌な表情にくくっと笑った智一は、焼き色も香ばしい、くるりと巻かれた細長いロールクッキーを丁寧に包装から取り出す。

 彩人は裕二に誘われた合コンをすっぽかし、龍崎貴子と名乗る女性に声を掛けられ、車へと乗せられた。合コン会場へ向かうと思っていたものの、着いた場所は本城グループの本社ビルだった。

 そこで社長令嬢である、本城美咲と出会い……。

 彩人は「アーティスト・ブランド」という、美咲が起ち上げようとしている会社に誘われたのだ。

 あらゆる芸術の分野で自らが選び抜いた、若い芸術家のみずみずしい感性を披露すること。そして国内に留まらず、世界に「アーティスト・ブランド」の名を知らしめること。

 そう……「アーティスト・ブランド」は、美咲が大切に温めてきた夢だ。

 同い年の女の子が抱いた夢とは思えない、ひとりではとても抱えきれないほどの大きな夢。

 差し出された美咲の手を取った彩人は、その大きな夢に魅せられたのか。それとも、大きな夢をひたすらに追い続ける美咲の姿が危うく見えたのか。 

 ……実は彩人にも、まだよく分かっていない。

 そして世の中は、ツケというものが必ず巡り巡って来る。

「智一さんはご機嫌ですね。スペシャル・パフェが四人前、それからビッグバーガーセットですからね」

 彩人は思わぬところで、店の売り上げに貢献することになってしまぅた。「合コン」の約束をすっぽかしたばかりに、そのバツとしてみんなに奢る羽目になってしまっのだ。

『フェアリーテール特製スペシャル・パフェ』

 それが四人前。プラス、『デリシャス・ビッグ・ハンバーガーセット』が一人前。

 フェアリーテールでも、屈指の高額メニューだ。

(俺のバイト代の、何時間分だろう?)

 財布のお札が空高く羽ばたいた、彩人は口の中に詰め込んだ苦虫をぎりぎりと噛み潰す。

「彩人君、何を言っているんだい? 売り上げなんてどうでもいい話さ。僕は君の心配をしてあげてるんだよ。この僕の真摯な瞳を見て欲しいな、ほらほら」

(細い筋目で、よく見えません)

 心の中でぼやいた彩人はうろんな目で、にこにこと微笑む智一を睨んだ。

「はい! スペシャル・パフェ四人前と、ビッグバーガー出来たよ、よろしくね!」

「……ふぁい」

 彩人は、魂が抜けたような返事をして、テーブル席で笑いさざめく友人達に目をやった。

「お待たせしました」

 テーブルに、ずしりと重いスペシャル・パフェを置いていく。

「きゃあっ! 大きぃ~」と、女の子達から歓声が上がる。

 声の主は、綾乃と楓、ほのかに緑。

 そして、隣のテーブルでふんぞり返っている祐二の前にも、一応丁寧にハンバーガーセットを置いた。

「おい。なんでお前がいるんだよ」

 くんくんと鼻をひくつかせて、デリシャス・ビッグ・ハンバーガーセットの香りを楽しんでいる祐二。

 彩人は、じろりと祐二を睨んだ。

「何だよ、俺も大変だったんだ。何しろ客寄せパンダが来ないんだからな!」

 裕二は、当たり前だと言わんばかりの表情だ。

(……やっぱり、俺はパンダ扱いか)

 彩人の心の抗議は、裕二にまったく届かない。大きなハンバーガーの食欲をそそる匂いに、満足そうな祐二。 

「それにな。あの本城美咲とお前、噂の二人が揃ってすっぽかしだ、大変な騒ぎだったんだぞ!」

「そうよ! ほんと、連絡が取れなくて困ったんだから。何かあったんじゃないかって、心配したんだからね!」

 くるくると長いスプーンを回し、ぷりぷりしている綾乃。

「緑なんか、パニックになってたんだから!」

 楓は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべている。その楓の言葉を聞いた大人しいほのかが、ちらりと緑を見た。 

 今しも巨大なパフェに挑み掛かろうとしていた緑は、自分が話題に上ったことに気付き、慌てて引っ込めたスプーンの先をちょっとくわえて、照れくさそうに「えへへ」と笑う。

 楓がバイト中の緑に「彩人が来ない」と電話を掛けたら、慌てた緑はすっ飛んで来たらしい。

 しかも「親戚に不幸がありました」と、無茶苦茶な理由を付けてバイトを早退したらしいのだ。

「さぁ彩人、詳しく話しなさいっ!」

 む! と胸を反らした綾乃が、ずずいっ! と彩人に迫る。

 ぶすぶすと体中に突き刺さる、みんなの尖った視線が痛い。困り果てた彩人は、まるで法廷に立つ被告人のようだ。

「話しなさいって言われても、本城グループの本社ビルで、本城さんに会っただけだ」

 むろん、冤罪である……いや、何の罪なのか分からないが。裁判長の綾乃と向かい合う彩人は、銀のトレイを盾のように抱えて身を守る。

「……で?」 

「本城さんと付き合うの? 付き合わないの?」

「どうして話がそっちに行くんだよ!」

 ああ、しつこい。彩人はもう、答えるのも面倒になってきた。

「はっきり言っておく、彼女と交際なんて考えていない。俺は彼女の会社に、アーティストとして協力してくれないかって誘われただけだ」

 彩人が強い口調で言うと、綾乃が心の奥底を探るように、すうっと目を細めた。

「ホントに?」

「ああ」

「ホントにホント?」

「しつこい」

「なぁんだ、つまんないのー」

 綾乃と楓が顔を見合わせて「ねー」と、頷き合う。

「交際だって」

「変だよ彩人」

「きゃはは」と、妙にはしゃいでいる綾乃と楓。

 いつもと様子が違うぞ? 心の中で首を傾げた彩人は、ちらりとほのかへ視線を送った。

 彩人の視線を感じた大人しいほのかが、びくりと背筋を伸ばして硬直する。隠し事など出来ないほのかの顔を見れば、一目瞭然だ。これは絶対に何かある。彩人が尚も、じーっとほのかを見つめていると。

 上目遣いの彼女が泣き出しそうに見えたので、彩人は慌てて笑顔を見せると、ほのかから視線を逸らした。

 それにしても。

 綾乃も楓も、ほのかに緑も。きゃあきゃあとはしゃぎながら、大盛りのパフェを完食してしまった。やはりデザートは、別の所に入るのだろうか。

 裕二は……まぁ、この際視界に入れないでおこう。パンダ扱いが気に入らない彩人は、あえて祐二を視界の隅へと追いやった。

「あ、そうだ!」

 不意に腕時計を見た綾乃が声を上げる。

「ええと、あたしと楓、ほのかは莉奈先生に呼ばれてるの。だから、もう行かなきゃ」

「わ、ホントだー!」

 綾乃がそう言うと、台詞棒読みの楓が慌ててバッグを引き寄せ、テーブルの上の携帯を放り込んだ。

 どこかほっとしたようなほのかは、上目遣いのまま彩人を見上げて、真剣な顔でこくこくと頷く。

 綾乃に楓、ほのか達三人は、莉奈先生……同じ講師のゼミを選択しているのだ……が。

「え? みんな予定無いって言ってたじゃない! 久しぶりに、ショッピングモ-ルに行こうって言ってたじゃない……」

 驚いて大きな目を見開いた緑が、口を尖らせた。

「ごっめーん、緑。つい、うっかりしてて」

「そ、そうそう、そうなのよー」

 お互いに目配せをして、緑に手を合わせる綾乃と楓。何故か身を小さくして、俯いてしまったほのか。

「と、いう訳だから、私達は行くね。緑は彩人と行ってきたら?」

「そ、そうそう! 彩人に任せたからっ!」

「……沢渡君、ごちそうさま」

 そそくさと逃げ出す、綾乃と楓。消え入るような声で、お礼を言ったほのかの好感度が上昇するも。彩人は、あまりにも大人しいほのかが心配になった。

「もう! みんないい加減なんだからっ」

 テーブルへと頬杖をついて、不満そうな緑がぶつぶつ言う。

「まぁ、講師の呼び出しなら仕方が無いだろう」

 彩人は、トレイに空のパフェグラスを乗せて片づける。

「もう、仕方ないなぁ……じゃあ、彩人でいいや、いこ?」

「彩人でいいやっていうのはどういう事だ? それに俺はバイト中なんだけどな」

 呆れて苦笑する彩人。

「あ、俺が行く、俺!」

 肉を口いっぱいに頬張った裕二が、諸手を挙げて立候補するが……。

「飲み込んでから喋れよ。いいから、お前はゆっくり食ってろ」

 眉間に皺を寄せた彩人は、情け容赦なく「むーむー」と唸る裕二を斬って捨てる。

「行っておいでよ、彩人君」

 にこやかに笑う智一がカウンターから、彩人に声を掛けた。

「え? でも」

「もうすぐ晴美も帰ってくるからね、店は大丈夫。せっかくなんだ、彼女のお供……いいや、デートしてきなよ」

「でででで、デートって!」

 端から見ても、可笑しいくらいに狼狽する彩人。

「いいんですか!?」

 がたん! と、椅子を鳴らして緑が立ち上がった。

「うん。それにしても、みんな美味しそうにパフェを食べてくれて、ほんとに嬉しいな。あまり注文してくれるお客さんが無いから、作るのが楽しくてしょうがない」

 まぁ、スペシャルな値段を考えれば無理もない。

「ほらほら、彩人君。彼女を待たせちゃ駄目じゃないか!」

 上機嫌の智一に急かされて、彩人は仕方なくエプロンを外した。


 ☆★☆


 毎日アルバイトと課題に忙殺されている彩人は、休日の昼間に街を歩くことは滅多にない。

 人の波に気圧されながら、緑と賑わう通りを見て歩く。ぽん、ぽんっと弾むような足取りで、ショーウインドーを覗き込んで歩く緑。

 そんな緑の後ろを歩く彩人は、ガラスに映るその笑顔を見て、ふっと肩の力を抜いた。

 緑は高価なアクセサリーなどに、あまり興味を示さない。路上の小さな一角を利用して、開かれているフリーマーケットを見つけると、ぱっと駆け出した。広げたシートの上に、所狭しと並べられた品物を見ながら、店番をする若い女性と楽しそうに言葉を交わしている。

 人と関わるのが上手な緑は、いつもたくさんの友達の中心にいる。絶やすことのない笑顔……明るくて、元気一杯。ちょっとお節介なところが玉にキズだが、それも許せてしまう。 


 歩き疲れた彩人と緑は、オープン・カフェのテーブルに落ち着いてぐったりとした。

「緑」

「なぁに?」

「はしゃぎ過ぎ」

「そうだねー」

 アイスカフェ・オレのストローから口を離して、緑が「てへへ」と恥ずかしそうに笑った。

「でも、ホントに驚いた」

 ことり……とカップをテーブルに置いて、そっと息を付く。しばらく瞳を伏せて、体で緩やかなリズムを刻む。

「緑?」

 怪訝な表情で彩人が名を呼ぶと、緑はぱっちりと目を開けた。真っ直ぐに見つめる緑の大きな瞳に慌てた彩人が、ふいっと視線を逸らした。

 微かに寂しそうな笑みを浮かべた緑は、人差し指でちょんとカップの周りに出来た水滴をつつく。

「彩人って、そんな仕事がしたかったんだ」

「アーティスト・ブランドの事か? だから俺は……」

「分かってる、分かってるよ!? でも、もっと……う~ん、ほらぁ!」

 言葉が見つからないのか、緑はもどかしげにコツコツとテーブルを弾く。

「ほらぁって、それじゃ分からないよ」

「彩人は、お金にならない絵を描く人だって思ってたのに」

 その緑の答えに、彩人は思わずテーブルへと突っ伏した。

「それは……。ええと、才能が無いって話か?」

 うろんな目で、緑を見上げる。

「もう! そうじゃないよっ!」

 苛立ったように緑が席を立った。

 突然の風が、ざあっと木々を揺らして過ぎゆき、テーブルの上の木陰がざわざわと揺れる。

 それはまるで緑の心のようだ。少しの沈黙が二人の間に越えがたい溝を作る。

 そんな時、決まって緑は言うのだ。

「ね、彩人。画材屋さんに行こう!」

 やっぱり。緑は彩人の手を引いた。

「どうしても画材屋に行く事になるんだよな」

「いいじゃない、彩人も好きでしょ?」

「ああ、好きだけど」

 そこには、二人の間に共通の話題があるからなのだろうか……。


 大通りに面したビルの二階、緑のバイト先でもある画材店。フロアにきちんと設置された商品棚、並べられているのは様々な画材。

 水彩絵の具、油の絵の具、たくさんの種類が揃えられた筆。色鉛筆、コンテにパステル、カラーマーカーなど。各種の水彩紙に、大小様々なキャンバスと、その品揃えも豊かだ。

 瞳を輝かせ、とても嬉しそうな緑。

 あっちの棚こっちの棚へと、まるで蝶が花から花へと渡るようだ。

「ね、ね、私が今、どんな色が欲しいのか分かる?」

 いつもそう彩人に聞く、悪戯っぽい笑顔の緑。

 緑の事を、どれだけ理解しているのかと。自分は試されているのだろうか?

 その答えを誤れば、大切な友人の絆は切れてしまうのだろうか。


 彩人には、微かな不安がある。

 だから彩人は、いつも心にあるアトリエ……その扉を開く。


 呼吸を整え、意識を集中してアトリエをイメージする。ぼんやりと、心に浮かんで来るアトリエの扉を開いた。

 絵本作家志望の緑は、温かい色調でメルヘンチックな楽しい絵が信条だ。

 まるで自分が見た夢を語るような、緑が創作する物語。温かで、優しくて……でも、決してそれだけではない。読み終えた後で、きちんと心に残るように、物語へと織り込まれた大切なこと――。

 それは、緑が物語へと触れた人の心に伝える、ささやかなメッセージ。

 絵本を手に取る、幼く柔らかな心を気遣う緑。

 心を正しい方向へと導くには、甘い優しさだけでは駄目なのだと。

 切なさ、哀しみ、後悔、羞恥、心に棘のように刺さって残る、小さな小さな痛み。

 心への戒めとして、そんな厳しさが必要だと緑は言う。

 その真摯な気持ちに答えるため、彩人も真剣に緑の心が求める色を探す。

 確か、緑が今取り組んでいる題材は……。

 思考を巡らせながらアトリエに佇み、大きく息を吸い込んだ彩人の眼前に突然、黒い影が踊った。

『せ、先生っ!?』

 彩人は目を見張った。ばさりと黒い外套を翻して舞い降りてきたのは「黒衣の画家」瑠璃子だ。黒くてつばが広い帽子から覗く黒い瞳が、彩人を睨むように強い光を放っている。

 高校在学中の一年半ばかり、彩人は「瑠璃子」という名の美術教師に絵を教わった。

 何故か名字は教えて貰えなくて結局聞かずじまい、毎日彼女の思うがままに振り回されたが、それは嫌な記憶ではなく。彩人にとって、とても大切な思い出だ。

 しかし彩人の目の前に現れた、瑠璃子の表情は厳しい。

『何を考えているの、こぉのバカ者がっ!』

 音も立てずふわりとアトリエの床に降り立った瑠璃子の外套が強い風に煽られて大きくはためく。(まなじり)を釣り上げた瑠璃子は大声で怒鳴ると、不意に手を伸ばして彩人の鼻を思い切り抓りあげた。

『いってーーっ!』

 彩人は思わず飛び上がった。あまりの痛みに、ぶわっと涙が滲んで来る。

『な、何をするんですかっ!』

 ごしごしと、目に浮かんだ涙を擦った彩人が大声で叫ぶ。

『あ、あれ? せ、先生?』

 しかし目を開けると、そこに瑠璃子の姿は無い。気のせいかとも思うが、抓られた鼻の頭がひりひりしている。

(何だよ、もう)

 いきなり謎掛けをしておいて「ほら、早く解いてごらんなさい!」と、笑いながら高みの見物を決め込む。瑠璃子という師は、いつもそうなのだ。彼女とと二年半も一緒にいた彩人にとって、師の不思議な力は見慣れているので、今更驚いたりしない。

 そう……このアトリエも瑠璃子から教わった。それにしても挨拶くらいさせてくれたっていいのに。「バカ者」とはいったい何のことなのか。

 彩人は腕を組んで首を捻ったが、どうにも理由が思い付かない。

 瑠璃子の振る舞いの理由を、いちいち考えていては身が持たない。何か意味があるのだろうが彩人は取り敢えず保留にしておいた。

 目の高さに右手を翳す……。手の平で輝いている色を見つめ、彩人は安堵の笑みを浮かべた。

 緑が求める色。

 それは、彩人が思った通りの色だった。

「ほら、この色だろう? 緑が必要なのは」

 彩人は棚から手に取った絵の具を緑の手の平へと乗せた。


 ――その昔には、ラピスラズリを顔料にしたといわれる。

 鮮やかに発色する、不透明水彩絵の具。海を越えて遠い地へと伝えられた……。ウルトラマリンという名の青い色。

「うん。そうだよ、泡になって消えた人魚姫を抱いた……。深い深い海の色」

「緑?」

「ありがとう、彩人……」

 彩人は驚いて、ポケットからハンカチを取り出す。

「……えへ」

 大きな瞳に涙をためた緑が、泣き笑いの顔でハンカチを受け取った。

「ごめんね」

「誤る事なんてない。それより」

 画材店を出ると、既に陽は傾いていた。

 彩人は心配でならないが、落ち着いた様子の緑は照れ隠しなのか小さく舌を出して見せた。

「本当に、大丈夫なんだな?」

「うん、大丈夫だから」

 はにかんだ緑。

 両手を背中に回して、くるりんと回ると、えへへと笑う。

「……そうか」

 胸を撫で下ろし、ほうっと溜息を付いた彩人が顔を上げると。

 大きな夕日を背にした緑が、彩人をじっと見つめていた。

「緑?」

 影になる顔、瞳に光る滴が見えた気がした。

 しかし彩人には緑へかける言葉が見つからない。

「……彩人は、何を描きたいの?」

 耳朶に触れたその緑の言葉は、矢のように鋭く彩人の胸を貫いた。

「じゃあ、またね! 今日はありがとう彩人っ!」

 ぱっと身を翻し、夕日に向かって駆け出す緑。彩人は影を縫い付けられたように、その場に立ち尽くした。

 瑠璃子の外套を思わせる、薄墨の色が広がっていく天空に、微かに瞬き始めた星々。

「俺の絵の……モチーフは……」

 それは、幼い記憶へ微かに残る言葉。もう思い出すことが叶わぬ母の教えだ。

 夕暮れにひとり残された彩人は、自分の右手を見つめてぽつりとつぶやいた。

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