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涙に濡れたイーゼル

 萌音(もえね)という名が付けられている、駅前通りの人気のお店。

 こぢんまりとした可愛らしい店舗。掲げられた古い木製の看板は、すぐに和菓子を連想させる。慎吾はふわりと風に揺れる、紺色の小さな暖簾をくぐった。

「い、いらっしゃいませぇ……」

 ぱたぱたと店先へ出てきた店員の小柄な女の子が、慎吾を見上げて驚いたように固まった。一瞬、思考を停止させていた女の子は、気を取り直して可愛らしい営業スマイルを浮かべる。

「いかがですか? どれも美味しいですよ!」

 硝子ケースに並べられているのは、つん! と澄ましているように見える上品で綺麗な和菓子。

 しかしこの店の評判は、たくさんの種類がある創作大福だ。手の平にちょこんと乗る位の大きさ。小振りで可愛らしい大福餅が、ケースの中で行儀良く棚に並べられている。

 一番の人気は「カフェ・オレ大福」

 柔らかな薄い求肥にくるまれた、カフェ・オレ味が付いた白いんげん豆の餡、その中には生クリーム。カフェ・オレ味の大福となどとは、ミスマッチだと思われる。しかし食べてみると、カフェ・オレの風味と滑らかな生クリームが口の中に広がり、とても美味しい。

 慎吾は硝子ケースを右から左へと順に眺めた。目を細めて「ふむ」と、顎に手を当ててしばし思案する。

「カフェオレ大福と、生チョコ大福、それからマロンクリームと柚餡、こし餡を、みんな二つずつ」

「はい! 少々お待ち下さい!」

 女の子は使い込まれた木製のお盆を持って、店の奥へと姿を消した。

 慎吾は何の気なしに店内を見回す、甘い匂いに何だか胸焼けがしてきた。よほどの事がない限り、甘いお菓子など口にしないからだ。

「御遣い物ですか?」

 お盆に大福を載せて戻って来た女の子が、慎吾に聞いた。

「ああ、だけど簡易包装でいいよ」

「ありがとうございます! 少々お待ち下さいねっ」

 化粧箱を断ると、店員の女の子は、たくさんの大福餅を器用に包んでくれた。

「千五百円になります!」

 慎吾は、ジーンズのポケットから財布を取り出して代金を手渡す。

「二千円お預かりします」

 慣れた手つきで、ぽぽんっ!と、レジを打つ女の子。

「お待たせしましたぁ! 商品とレシート、五百円のお返しですっ」

 包みを紙袋へ入て、何やらくすくす笑いながらお釣りをくれた。

(まあ、この店に似合わないよな……俺は)

 思わず胸の中で苦笑する。

「あ、たくさん買ってくださいましたから、おまけです。梨の果汁を使った餡ですよ、食べてみて下さい!」

 女の子は、白い餡をたっぷりと載せてある串団子を一本、紙袋へ入れてくれた。

「ありがとう」

 甘い物が増えた。

 慎吾は、女の子から差し出された包みを受け取ると、

「ありがとうございました、またどうぞー」

 朗らかな声に送られて、また暖簾をくぐって店を出た。

 降り注ぐ、うすぼんやりとした日差し、目を細めて空を見上げる。

(さて……)

 火曜日の午後、今日は茶館の定休日。

 瞳子は朝から自室の掃除を始めていた。

 淡いピンク色のトレーナーと、スリムジーンズ姿に明るい色合いのエプロン。

 ポニーテールにまとめた長い髪が忙しなく揺れ、やる気満々でぱたぱたと行ったり来たりしていた。

 休日だというのに、今日も忙しく働くのだろう。

(……そろそろ、いい時間だな。久しぶりに車を使うか? いいや、また故障したら後が面倒だからな) 

 慎吾の車は離れのガレージに置きっぱなしだ。……確かガソリンはまだ入っていたはずだが。

 十年以上前の車で、美しい流線型のボディを持っている。ボディカラーはブラック、古いスポーツクーペで、調子が良いと思っていると不意に故障する困った相棒だ。

「そっとしておいてやるか」

 腕時計で時刻を確認した慎吾は、バス停へと歩き出した。


 ☆★☆


「あらあら、もうお昼なのね?」

 居間の柱時計を見上げた紫織は、小さくあくびをして腰を上げた。

 午前中に家事はみんな済ませてしまった。後は夕食の準備だけだが、それは夕方でもいいだろう。昼食に、何を作ろうかしら? そんな事を考えながらしずしずと台所へ向かう。

 一人だから、ちょっと食べられれば良いわよね。

「さぼりじゃないのよ、手抜きじゃないのよ」と、呟きながら冷蔵庫を開けて食材を吟味していると、玄関の呼び鈴が鳴った。

「あら、誰かしら?」

 今月の集金は、みんな終わっているわよね? ひょっとして宅配便? なら印鑑が必要ね。

 紫織は着物の襟を正しながら、ぱたぱたと玄関へ向かう。

「あっ!」

 玄関の引き戸、その硝子に映っている大きな人影に、紫織の表情がぱっと明るくなった。

 急いで鍵を開けて引き戸を開けると、そこには慎吾が立っていた。

「こんにちは」

「もう、何の挨拶よ! それを言うなら、ただいまでしょ? ほら、あがってあがって!」

 紫織は他人行儀な挨拶をする、慎吾の大きな手を取って急かす。

「元気そうですね」

「あなたもね……この前姿を見たのはいつだったかしら?」

「二週間ほど前です」

 紫織は随分会っていないような気がしたが、慎吾は笑いながらそう答えた。

「紫織さん。これ、お土産です」

 慎吾が差し出した紙袋を受け取る。

 それは見覚えがあるデザインの袋だ。

「あら、有り難う! ほら、早く早くっ!」

 広い背中を、後ろから押して廊下を歩く。大きな体、鴨居で頭をぶつけないように、慎吾が身を屈めて居間に入った。

 紫織は慎吾を卓の側に座らせて、とりあえず自分も落ち着いた。受け取った包みを開くと、可愛い大福餅がころころと並んでいる。

「萌音の大福よね! 嬉しい! 後でお茶を淹れるわね」

 子供のように喜ぶ紫織だが、大福よりも慎吾が来てくれたのが嬉しくてしょうがない。

 慎吾はこうしてたまに顔を見せてくれるのだ。幸一郎とはお互いに距離を取っているように感じられて、紫織はそれが少し寂しいのだけれど。

 ここは頑張って、美味しい食事でもてなさなければならない。

「そうそう、お昼ご飯まだでしょう? すぐに用意するから、食べて行きなさいな」

「あ、昼飯ですか……」

 ちょっと考える素振りを見せた慎吾を、絶対に逃してはなるまいと紫織が畳みかける。

「一人だと味気ないのよ。久しぶりだし、我が儘を聞いて頂戴」

 慎吾は余程の事が無い限り断らない。紫織が手を合わせて、懇願するように見つめると、頭を掻いた慎吾が体の力を抜いた。

 今日も最初から、昼ご飯を一緒に食べてくれるつもりだったのだろうに。 

 そんな素振りはいっさい見せないが、慎吾はいつも自分よりも、周りの人の事を気に掛けている。 

 紫織は、くすりと笑うと台所へ向かった。

(お味噌汁と鱈の西京焼き、がんもとお野菜の炊き合わせ。 後は、ほうれん草のごま和えね……ぬか漬けも出してあげないと)

 魚を焼くために焼き網を乗せてガスコンロに火を付けた紫織は、ふと遠い日の出来事を思い出した。

 あの時も、こうして焼き網を用意したはずだ。


 それは、親友である遙の葬儀が終わって一週間が過ぎた頃だった――。


 空を覆うのは、黒くて厚い雲。

 強い雨は止むことが無く、虚しく道路を打ち続ける。紫織は部屋のカーテンを閉め切ったままでいた、空模様を見ると気持ちが挫けそうになる。


 涙雨……。

 嫌な言葉だ。


 早過ぎる親友の死に心の整理が付かない紫織は、一日中自室でぼんやりしていた。

 遙との思い出を追うと、千々に心が乱れる。紫織はそれが怖くて、何も考えられない。 

 夕刻になっても止みそうにない雨。泣きはらした目が痛い。晴れ間でも見えれば、気持ちも少しは違うのだろうに。

 吐息と共に、紫織の長い黒髪が揺れる。

 明るい栗色の髪をした遙は、紫織の長い黒髪を羨ましいと言っていた。そんな小さな事でも、遙との思い出が蘇り、どっと心から溢れ出す。 

 何をする気にもなれず、床に座ってクッションを抱えていると、何やら家の中が騒々しい事に気が付いた。

「何事?」

「お、お、お、お嬢様! た、た、た、大変でございますっ!」

 紫織が部屋から顔を出すと、ちょうど部屋の前を通りかかった家政婦のナミさんが、慌てた様子で言った。

「げ、玄関先で、こ、子供が倒れているんです!」

「えっ!?」 

 子供? この雨の中で? 紫織は驚いた。

 ナミさんは相当気が動転しているが、間違いでは無いようだ。


 困った……。

 父も兄も、まだ仕事から帰って来ない。

 しかし放っておく訳にいかない、紫織は急いで階下へと向かった。

 旧家で大きな屋敷の九条邸。道路から玄関へと続く中程、石畳の上で子供が倒れている。服装は男の子のようだ。ずぶ濡れで、何か大きな袋を抱えていた。 

 慌てて駆け寄ろうとした紫織は、大きく目を見開いた。

「慎吾君、慎吾君じゃない!」

 倒れているのは遙の長男、慎吾だった。

 すぐに駆け寄って抱き起こす。「……だ、誰?」唇から、呻くような声が漏れ出した。

「ナミさん! 金山先生に電話して、早く!」

 紫織は慎吾を抱いたまま、大声で叫んだ。


 ☆★☆


「先生、具合は……」

「雨に濡れて体力が低下してますが、心配ありませんよ。もし熱が高くなるような事があれば、その時はこの熱冷ましを飲ませて下さい」

 紫織は安堵の吐息を漏らす。往診用の鞄に聴診器をしまって、九條家の掛かり付け医、金山先生は「ほっほっほ」と笑った。

「先生、本当にありがとうございました」

「じゃ、お大事にね。そうそう、お父様によろしく。たまには健康診断に来るようにと、伝えておいて下さいね」

「はい、確かに伝えます」

 先生を玄関で見送った後、紫織は慎吾を寝かせてある自室へ戻った。

 ベッドの側へ寄ると慎吾は目を閉じている、少し呼吸が早い。紫織は水枕を確かめた後、額に乗せられているタオルを洗面器の水に浸して絞った。丁寧に畳んで、熱を持つ額に乗せる。

(何があったんだろう……?)

 すぐに沢渡家へ電話をしようとした紫織だったが、どうして慎吾がここへ来たのかが気になる。待てるのは僅かな時間だけど、話を聞いてからにしようと思いとどまった。


 遙の子供達を、紫織はよく知っている。

 兄の慎吾は元気でやんちゃな子だ。中学もそろそろ卒業か、落ち着いた雰囲気が身に付き始めている。弟の彩人は、女の子のように繊細な容姿をしている大人しい子だ。男の子なのに成長していくにつれ、ますます遙に似てくる。

 可愛い二人の子供を残して逝った、遙の無念を思うと紫織はやりきれない。

 そんな事を考えていると、「う……ん」慎吾が小さく唸った。

 気が付いた! すると突然、ベッドから慎吾が跳ね起きた。「イ、イーゼルはっ!」鬼気迫る表情で辺りを見回して叫ぶ。ベッドから降りようとする慎吾を、紫織は慌てて押しとどめた。

「慎吾君、駄目よ! お願いだから寝ていて」

「……く、九条さん?」

 気付いてくれたようだ。紫織は部屋に置いてある、慎吾が大切に抱えていたイーゼルを指さした。

「イーゼルはあそこに置いてあるわ、ちょっと雨に濡れていたけど大丈夫よ。きちんと水気を拭き取ってあるから心配しないで」

「お願いです。イーゼルの事は、父さんには言わないで!」

「え?」

 真剣な表情で訴えかける慎吾。

 眉を顰めながらも「分かったわ、約束する」紫織は肯いた。

「でも、あなたがここにいる事だけは、お父さんに連絡するわね。警察を呼んだりして、大変なことになっていたら困るから」

「……はい」

 慎吾は小さな声で返事をする、自分がしている事をちゃんと分かっている賢い子だ。

 部屋を出て電話の前に立った紫織は、はてと首を傾げた。

(なるべく、大事にならないように考えないと)

 しばらく頭を悩ませて、数種の答えを用意した紫織は、受話器を手に取った。

 沢渡家の電話番号は分かっている、呼び出し音を聞きながら暫く待っていると、電話が繋がった。

『もしもし、沢渡です』

「あ、九条ですが……」

『あ、ああ! 紫織さん……』

 受話器越しでも分かる、幸一郎の少し疲れたような声。

「あの、慎吾君が……」

『しっ、慎吾がどうかしましたか!? 姿が見えなくなって、あちこち探し回っていたんです!』

 思った通り、幸一郎が切羽詰まった叫び声を上げた。

「あ、あの、大丈夫です! 私の家でお預かりしています。だから……」

『わ、分かりました。す、すぐに、すぐに迎えに上がりますから!』

「あの、幸一郎さん。少し落ち着いて下さい」

 焦る幸一郎を宥めるように、紫織は柔らかな声を出した。

 少々立ち入り過ぎか……でも、放っておくわけにはいかない。

「お宅で何があったのか分かりませんが、少し体調も良くないようです。先程、当家の掛かり付け医に診察して頂きました。心配ありませんが、大事をとって今夜は動かない方が良いとのことです。私が責任を持ってお預かりしますわ」

 つい、すらすらと嘘をついてしまったが、この際仕方がない。

『しかし、それでは九條さんのご迷惑になります』

「迷惑だなんて……お気になさらないで下さい。慎吾君は明日、私がお連れします。では、ごめんください」

 紫織は幸一郎の返事を待たずに受話器を置いた、これでいい。

 自室に戻ると、紫織は慎吾に尋ねた。

「お腹は空いていない?」

「はい」

「もし、お腹が空いたらすぐに言ってね。大丈夫よ、今夜はここに泊まりなさいね」

 紫織は慎吾を安心させるように微笑んだ。

 安堵した表情の慎吾は大きく息をついて、照れたように視線を逸らして下を向く。

「あのね、慎吾君」

 紫織は、思い切って尋ねてみることにした。

「お母さんが使っていたイーゼルよね? どうしてこんな雨の中をここまで抱えてきたの?」

「……それは」

 まだ聞いてはいけなかったか。紫織は身を堅くしたが、慎吾はぽつりぽつりと話し始めた。

 遙の葬儀が終わり、一週間と経たないうちに、幸一郎は遙の私物を処分し始めたという。

 茶館の二階のアトリエからは、絵の具も筆も、描きかけの絵もすべて。泣きじゃくる彩人が幸一郎へしがみついて止めたのだが、耳を貸してくれなかったらしい。

 慎吾は厳しい表情で唇を噛んだ。

 紫織には幸一郎の気持ちが痛いほどよく分かる。遙を感じさせる品が目に、心に触れると、悲しみに飲み込まれてしまうのだろう。

「母さんのイーゼルは、絶対に捨てさせない。あのイーゼルは、彩人が持っていなきゃいけないんです!」

 ぎゅっと拳を握る慎吾。

 目頭が熱くなった紫織は、すぐに椅子を立って窓辺に寄った。冷気が顔を冷やしてくれる。慎吾は父の目を盗み、弟のために茶館から重いイーゼルを持ち出して、暗い道を雨の中ここまで駆けて来たのだ。

「大丈夫よ。彩人君に渡すまで、お母さんのイーゼルはここへ置いておけばいいわ、私がちゃんと預かるから」

 慎吾はじっと紫織の顔を見ていたが、表情を緩めて頷いた。

 良かった、どうやら信用されているらしい。

「さ、もう寝なさい」

 紫織は慎吾をベッドへ寝かせて、明かりを落とした。

 ベッドの側へ椅子を寄せて慎吾の様子を見る。

 慎吾はどうやら落ち着いたようだ、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。


 紫織は、幸一郎のひどく疲れた声を思い出す。

 彩人の事も気に掛かる。しかし、今は考えていても仕方がない。

 紫織は暗い天井を見つめて溜息をつく。

 明日になればみんなうまくいくわけではないが、明日になってからまた考えよう。


 うつらうつらしながら……午前一時が過ぎた。

 慎吾は落ち着いている、軽く汗を流してから寝ようと椅子を立った紫織の耳に、微かなすすり泣きが聞こえた。

「慎吾君!」

 驚いた紫織は、慌ててベッドの慎吾を覗き込む。

「慎吾君、どうしたの? どこか痛むの?」

 返事はない。

「慎吾君? 慎吾君!」

 すっぽりと布団を被って、体を丸めている慎吾を揺すってみる。

「ごめんね」

 紫織は少しだけ、布団をはぐった。

「慎吾君……」

 慎吾は両手を握りしめ、歯を食いしばっていた。

 きつく閉じた目から涙が流れている。泣きたいのを必死に堪えているその姿に、紫織は胸を締め付けられた。

「泣いてもいいんだよ」

「……泣けない。僕が泣いたら、彩人が」

 紫織がそっと促したが、慎吾は枕に顔を埋めるようにして首を振った。

 優しい母を失い、慎吾もどれほどに辛かった事だろう、泣きたかった事だろう。しかし弟を不安にさせまいと、懸命に堪えていたに違いない。


 自分は、お兄ちゃんだから。


 紫織は慎吾の傍らに座ると、丸めた体に覆い被さるようにして抱きしめた。

「泣きなさい」

 そして、少し強い口調で言った。

「強くなりたいのなら、彩人君を守りたいのなら、今は泣きなさい。それは恥ずかしい事じゃない。我慢して目を逸らして、悲しみを心の奥底へ沈めてしまっては駄目」

 紫織は慎吾を抱く手に力を込める。

 逃げるのではない、闘うのでもない、悲しみを自然に心へと受け入れる事。

 それはまだ、慎吾には難しい事かもしれない。

「我慢しないで」

 歯を食いしばって耐える慎吾の喉の奥から、嗚咽が漏れた。

「強く……なろうね」

 慎吾のすすり泣きは、次第に大きくなる。

(遙のばか、遙のばか、遙の……)

 泣き出した慎吾を強く抱きしめながら、紫織は心の中でずっと繰り返していた。


 ☆★☆


 翌日の朝早く、紫織は慎吾を連れて沢渡家を訪ねた。

 呼び鈴を押すと、勢いよく引き戸が開いて彩人が飛び出してきた。

「お兄ちゃん!」

 転がるように駆けてきて、慎吾にしがみつく。何度もお兄ちゃんと叫ぶ彩人の頭を、慎吾が撫でている。

 そして紫織は、玄関先に姿を現した幸一郎に気が付いた。やつれた顔に少し厳しい表情が浮かんでいる。深く頭を下げた幸一郎は小さな声で、「おはようございます、慎吾が大変ご迷惑をお掛けしました」と挨拶をした。 

「いいえ、私はなにも」紫織はそう答えて会釈しただけで、口を開かない。

 今の紫織は、口を差し挟める立場ではないからだ。

 幸一郎は、ゆっくりと慎吾の前にしゃがみ込んだ。

「……ごめんなさい」

 俯いた慎吾が、掠れる声で謝る。

 慎吾にしがみついている彩人が、すがるような瞳で幸一郎を見上げた。

 お兄ちゃんを叱らないで……涙を浮かべた彩人の栗色の瞳が、そう訴えかけている。

「すまなかったな、慎吾、彩人」

 幸一郎はそれだけ言うと、二人の頭を撫でた。

 目を細め、くすぐったそうにしている彩人を見て、紫織はやっと胸を撫で下ろす。

 ゆっくりと立ち上がり、幸一郎はもう一度紫織に頭を下げた。

 紫織は踵を返した幸一郎の背中をじっと見つめる。その寂しげな後ろ姿に紫織の胸は締め付けられた。


 ……もう随分と昔の話になる。

 紫織はひとつの淡い想いを胸に仕舞い込み、静かに固く鍵を掛けたのだ。


 そしてそれは、絶対に開けてはならぬ鍵だった。

 しかし……。

 慎吾と彩人を見る。

 今、一歩を踏み出すのか。

 決心するまでに永遠にも感じられる時間が流れた。


 そして紫織は大きく息を吸い込むと、

「ねぇ、お腹空いてない? おばちゃんが何か美味しい物作ってあげよっか!」

 勢いよくしゃがんで、慎吾と彩人の肩を抱いて言った。

 目をぱちくりとさせている兄弟。

 誰になんと言われようと構わない、世間体など知らぬ顔で放って置けばいい。


『あの子達をお願い……』


 体が弱って口がきけなくなるまで、遙はずっと紫織にそう訴え続けた。

 この子達の幸せは、大切な親友……遙の願い。

 その願いを叶える事が自分に出来る事だと紫織は思った――。


 ☆★☆


「あら、いけない」

 どうやら、物思いに耽っていたようだ。

 危ない危ない、美味しい西京焼きが焦げてしまうところだった。

 生姜の芽と共に綺麗に皿へと盛りつけ、茶碗に温かなご飯をよそう。

 きっと、慎吾はたくさん食べるだろう。

 慎吾の顔を見たからなのか、今日は思い出が紫織の心を離してくれない。

 彩人が高校に合格した日に、紫織は遙のイーゼルを手渡した。

「兄貴が僕のために……」

 紫織の話を聞いて、真新しい制服に身を包んだ彩人は、母の形見をきつく抱きしめて静かに泣いた。

 慎吾と彩人……二人の涙に濡れた遙のイーゼル。 母を想うその涙は、きっと遙に届いたはずだ。

 あの日、彩人は決心したのだろう。

 母が……遙が絵に抱き続けた想いを追い掛け、自分自身で確かめる事を。

 そして今も紫織の心の中にある、たったひとつの願い。

 それはもう、決して叶うことが無い願いだが。


「しおりん」


 紫織をそう呼んで優しく微笑む、遙の笑顔が見たい。

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