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「遙色のPalette」~Cherry red~(2)

 遙が愛用するイーゼルへセットされている、大きなキャンバス。

 イーゼルの少し先には、花瓶にたくさん活けられている綺麗な生花。

 キャンバスとモチーフを見比べる遙の真剣な表情、そして光を湛える栗色の瞳。

 口を固く引き結び、体は少し前傾姿勢になっている、額にはうっすらと滲む汗。軽く指を添えるように持った鉛筆が、リズム良く遙の心に映ったモチーフを描き出す。


 キャンバス全体を見渡し、練りゴムを使ってはまた線を引く。

 そんな作業をずっと繰り返している。 

 一度椅子から立ち上がった遙はキャンバスから数歩離れ、腕を組んで小首を傾げると隅々までキャンバスを見渡す。


 制作に精を出していた部員達も、気力が途切れた者からひとり減りふたり減りして、美術室にはもう他の部員は残っていない。


 夕闇に気持ちを急かされる事もなく、静かな室内で遙が持つ鉛筆の音だけが微かに響いている。

 不意に、遙の手が止まり、鉛筆がこぼれ落ちた。

 眉を寄せて表情を歪めた遙が、練りゴムを強くキャンバスに押しつける。


「これじゃ駄目よ……」


 キャンバスを両手で掴んで俯いた遙が、喘ぐように小さく開けた唇から、弱音が漏れ出した――。


「美樹原は花を描いているんだ、展覧会に出品するの?」


「うみゅわあああああっ!」


 突然、後ろから声を掛けられて遙は飛び上がった。

 その拍子にイーゼルを強く蹴飛ばしてしまい、派手な音を立ててイーゼルが床に倒れ、キャンバスが床に転がった。

 

「誰よっ! びっくりするじゃないっ!」


 振り返った遙が怒鳴ると、目の前で固まっていた幸一郎がすまなさそうな顔をした。


「ご、ごめん、美樹原」


「あ……いいんちょ」


 現れたのは、またもや幸一郎だ。

 そしてまたもや、ぷしゅうと遙の怒りがしぼんだ。

 たぶん悪意は無くて、タイミングが悪いだけなのね……と、遙は思う。


 遙がぽん!とエプロンをはたいてキャンバスを拾い上げると、幸一郎は慌てて床に倒れているイーゼルを拾い上げて苦労しながら組み上げた。

 幸一郎が組み上げたイーゼルへとキャンバスを乗せて、遙がふうと息をつく。


「どうしたの、私に何か用?」

 

 気分が沈み込んでいるので、ついつい刺がある口調になってしまう。

 幸一郎は俯いて頭を掻いていたが、思い切ったように顔を上げた。

 

「み、美樹原がどんな絵を描いて、展覧会に出品するのかって、き、気になったから」


 真っ直ぐな幸一郎の視線に、遙は何だか後ろめたくなった。


「……そう」


 言葉に詰まって視線を床に落とした遙に構うことなく、幸一郎はイーゼルに乗せられてるキャンバスをじっと眺める。

 

「美樹原の絵、とても綺麗だね」


「ねぇ、いいんちょ……ほんとにそう思う?」


 意地悪なんかする気はまったく無かったが、もやもやとした想いを抱えている遙は、反射的に強い口調でそう問い詰めてしまった。


「あ、ええと、ご、ごめん。実はよく分からない」


 ちょっと視線を泳がせた後、照れ笑いを浮かべた幸一郎があっさりと白状した。

 

「へんなひと」


 自分に向けられた、淡い想いに気付く様子もない遙がぽつりと言うと、幸一郎は目の前で胸を反らすほどに息を吸い込んで……思いっきりむせた。

 げほげほと悶絶する幸一郎を、遙は何か変わった生き物でも見るような、複雑な表情で見つめる。


「だ、大丈夫? いいんちょ」


 幸一郎の目まぐるしい変化に、目を白黒とさせていた遙は、それでも最低限の気遣いだけは出来た。

 両膝に手を当てた前傾姿勢で、ぜぇぜぇと肩で息をしていた幸一郎は、「はーっ」と息を整え、ばっ!と勢い良く顔を上げた。


「ね、ねえ、美樹原。気晴らしに、ぼ、僕を描いてみてよっ!」


「ええっ! い、いいんちょを描くの? い、今から?」


「うん。ほ、ほら、櫛だって持ってるから!」


 幸一郎はそう言って、一生懸命に髪を整え出す。

 いや、あの、櫛はどうでもいいんだけど……と、苦笑する遙。


 そんな遙に構うことなく、幸一郎はやる気満々だ。

 遙は仕方なく、イーゼルへフリーサイズのスケッチブックを載せ、丸椅子を引き寄せる。


「じゃあ、いいんちょは椅子に座って」


「う、うん。わ、分かった」


 椅子に向かって歩く幸一郎、右手と右足が同時に前へと出ている。

 ぎくしゃくとした動きで丸椅子に座った幸一郎を、遙がじーっと見つめていると。


「ど、どうしたの? 美樹原」


「いや、あのね……」


 ちょっと口籠もった遙の頬が、ほんのりと朱に染まった。


「脱がなくてもいいのーなんて、聞くのかなーって」


「そ、そんなこと聞かないよっ!」


 真っ赤になった幸一郎が、恥ずかしそうに大声を上げた。緊張も少しはほぐれたのかもしれない。

 

「じゃあ始めるわね、体の力を抜いていて。自然な表情で、特に意識して笑ったりしなくてもいいから。私に話しかけても良いわよ、でも大事なところでは黙ってって言うから」


 鉛筆を手に取りイーゼルの前に座った途端、遙の表情が変わった。優しげな栗色の瞳が強い光を帯び、遙の視線が幸一郎を射貫く。


「ね、ねぇ、み、美樹原……」


「どうしたの? お手洗い?」


「ち、ちがうよっ!」


「言われた事を理解するのに時間が掛かるから、出来ればドモらないできちんと話して」


 遙の口調までが変わった、それだけ真剣だという事なのだろう。一度身じろぎをした幸一郎がごくりと喉を鳴らして、ぴしっと背筋を伸ばした。

 遙が持つ鉛筆が少しずつスケッチブックに振れるたびに、微かな線が描かれる。じっと幸一郎を凝視しては、イメージを指先へと伝えていく。


「美樹原は、子供の頃から絵が好きだったの?」


「うーん、よく覚えていないけど。クレヨンを握ったら離さない子供だったらしいわ。床や壁はもちろん、テレビや冷蔵庫にまで描いちゃったんだって」


「うわぁ」


 極彩色の花やら何やらがたくさん。

 床や壁、家具にまでも描かれた部屋を想像して、幸一郎が苦笑する。


『遙、お願いだから、紙からはみ出ないでねぇ~』母の苦笑いを、遙はよく憶えている。


「ねぇ、さっきまで描いてた花の絵、気に入らないの?」


 不思議そうに首を傾げた幸一郎の言葉に、遙の規則正しい鉛筆の動きが微かに乱れた。


「気に入らないという訳ではないわ。ただ、想いが伝えられないの、あれじゃ見たままを描き写しただけでしかない」


 遙はキャンバスから目を逸らして肩を落とす。


「え? でも、写真みたいだよ」


「いいんちょ、私は絵を描いているの」


 この感覚は、話しても分かって貰えないかもしれない。

 遙はなるべく口調がきつくならないように、やんわりと答えた。

 

「モチーフへの気持ちを整理出来ないの。早く描かなきゃいけない、表現しなきゃいけないって」


「それは、締め切りがあるから?」


「うん、それもあるけど」


 遙の心を苛むのは焦りだ。


 誰もが与えられた時間の中で、最大限に力を発揮して作品を仕上げる。

 皆と同じように、心に映したモチーフをキャンバスに表現する事が出来ないのは、自分自身の感受性が低いからだと遙は思っている。


「そうだね。公平性を保つためでもある締め切りだから、それは仕方ないけど」


 幸一郎は考え込むように、微かに視線を動かした。


「美樹原、君の感受性については関係ない」


「え?」


 きっぱりとした言葉に遙は手を止めて、ぽかんと幸一郎を見つめた。

 幸一郎は遙に見つめられていても穏やかな表情で言葉を続ける。


「美樹原は、モチーフの本当に心を動かされる部分を見極めたいんだ。そしてそれを表現したい。だから美樹原に感じる心が無いっていうんじゃない、僕はそう思う」


 遙は幸一郎を見つめながら、鉛筆を動かし続ける。 


「美樹原が強く惹かれるのは、心の水面に波紋を起こすものなんだよ。それは大切なものだったり、心を奪われたものだったり」


 ひとつひとつの言葉を、大切そうに話す幸一郎。

 自分が思っている事をちゃんと伝えたい。


 そんな誠実さが感じられる。


「でも、展覧会だってもうすぐなのに」


 遙は無意識に、現実を引き合いに出して逃げようとした。


 しかし……。


「うん。無理矢理に書いたって良い結果にはならないさ、でも美樹原なら大丈夫。自分を信じなよ、僕もその……応援するから」 


 遙を否定することなく、頬を掻きながらそう言った幸一郎は。


「何にも出来ないけどね」


 そう付け加えて、照れ笑いを見せた。

 どきっ……!

 その瞬間、遙の胸が大きく高鳴った。


「あ、あれ? やだ、なに?」


 どうしたのだろう、頬が妙に熱い。

 遙は、幸一郎の笑顔をじーっと凝視している自分に気が付いた。


『美樹原が強く惹かれるのは、心の水面に波紋を起こすものなんだよ』


 幸一郎の言葉が、頭の中へ響いている。

 自分の胸に、心に抱えている重い物を、デッサン用の石膏像を抱えてくれたように、幸一郎が支えてくれたような気がした。


(いいんちょって、こんな顔してたんだ……)


 この時になって、遙は初めて幸一郎の顔をはっきりと見た。

 真面目な表情、整った顔立ちが目立たないのは眼鏡のせいだろうか。

 遙はそう意識したとたんに、幸一郎の顔が真っ直ぐに見られなくなった。

 

(あ、あれ、ど、どうしたんだろ、うわ、こ、こまったなぁ……)


 遙はイーゼルへ乗せている、大きなスケッチブックで次第に顔を隠し、視線をあっちこっちへ動かしながら、ちらちらと幸一郎の顔を盗み見る。鉛筆がうまく動かない、さっきまで描けていたのにどうしてだろう。

 ああ、もうっ! ちゃんと見ないと、スケッチなんて出来ないのに。

 幸一郎の顔をちゃんと見ようとすると、その度に心臓がドキリと跳ねる。


(あ、あれ? なんで私、こんなにドキドキしてるの?)


 ああ駄目、意識すると駄目、でも見ないと描けない、でも意識すると駄目、でも見ないと……。


 遙の頭の中で起こっている、ぐるぐるぐるぐるの堂々巡り。


 ええいっ!


 覚悟を決めた遙は制服の袖をまくり、栗色の瞳を見開いてスケッチブックを睨み付けた――。


 夕日はすでに姿を隠し、茜色の空は宵闇に浸食されてもう細い筋にしか見えない。

 そろそろ下校しないと、先生に叱られてしまうだろう。


「かっ、描けたわっ!」


 遙が鉛筆を置くと、幸一郎が興奮したように丸椅子から立ち上がった。


「え、本当!?」


「う、うーん。あはは」


 しかしスケッチブックを胸に抱く、遙の答えは歯切れが悪い。


「ねえ、美樹原。早く見せてよ!」


 遙はおずおずと、スケッチブックを幸一郎へと差し出す。

 緊張した様子でスケッチブックを受け取った幸一郎が、顔を紅潮させて開いた。


 その瞬間、幸一郎の動きが止まり、眼鏡の奥の目が点になった。


「み、美樹原……これは?」


 ゆらりとスケッチブックを掲げる幸一郎。


 そこへ描かれていたのは、学生服を着た「しゃれこうべ」


 想像力を最大限に発揮して描かれた、真っ白な幸一郎のガイコツは良く描けていて、両目が入る大きな眼窩が、とても空虚で静謐な雰囲気を演出している。


 これはこれで、なかなか会心の出来なのだが。


「あ、あははー。ごめんね、いいん……沢渡君。どうやら内面を描きすぎちゃった、えへ♪」


「『えへ♪』 じゃないよ美樹原っ! 僕は一生懸命だったんだぞ、緊張してたのに!」


「だから謝ってるんだってばっ! それに自分の骨なんだから、いいじゃない!」


 何となく頬を染めた遙は、幸一郎の手から素早くスケッチブックを抜き取った。


「お、遅くなっちゃったね。えーと、いいん……沢渡君はバス通ね? わ、わたしは自転車だから、じ、じゃあさよならっ!」


 舌を噛みそうになりながら、一気にそうまくし立てた遙は、いい加減に荷物をまとめて美術室を飛び出す。


 またもや幸一郎を置き去りにしたままで。


「明日はもう一度、展覧会用の絵に挑戦するわっ!」


 遙は走りながら、ぎゅっと手を握る。

 上手に描けたら、またいいん……沢渡君に見て貰おうかな、見て……くれるよね、きっと。


 遙は照れ隠しとほてった頬を冷ますように、自転車置き場を目指して薄暗い校舎を全速力で駆け抜けた。



 「遙色のPalette」~Cherry red~


 ほのかな恋心は、艶やかで優しいさくらんぼの色。

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