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黄昏時の紳士さん

 ――午後七時前。


 暗闇に踊る街の光を映すエメラルド色の飾り石、リボンタイを揺らす北風に頬が感じる冷たさ。

 私は閉店時間の茶館の前で扉に背を預け、人待ち顔で中央通り商店街を行き交う人々を眺めています。

 辺りは暗くなり、道を往くのは学生さんや会社帰りのサラリーマンに、OLさん。懐中電灯を手に反射タスキを肩から掛けて、ウォーキングをしているお歳を召した夫婦。夜勤など、これからお仕事で出勤なさる方がいらっしゃるのかもしれません。

 ぼんやりとそんな事を考えながら、私は時間を過ごします。

 実はここ最近、この時間になると必ず茶館の前を通られる方がいらっしゃるのです。


 「こんばんは」と、その方に初めてそう挨拶されたとき、メニューを乗せたイーゼルを抱えていた私は驚いて飛び上がってしまいました。イーゼルと小さな黒板が道端に転がり、私は声を出す事も出来ず、どきどきと早鐘を打つ心臓の鼓動はなかなか鎮まってくれません。


「これは失礼、大丈夫ですか? お嬢さん」


 私が道へと放り出してしまったイーゼルを拾い上げたサラリーマン風の男性が、すまなさそうに言いました。


「あ、い、いいえっ! 私の方こそ申し訳ありません」


「すみません。驚かせてしまったみたいですね。一生懸命に働いていらっしゃる姿に、つい声を掛けてしまいました」


 イーゼルを持った大きな手、背が高い方です。髪はきっちりと整えられ、眼鏡の奥で細められた目。少し神経質そうな方ですが微かに浮かんだ目尻の皺、とても優しさを感じさせる笑顔です。ベージュのコートにセンスの良いネクタイ、その姿にはまったく隙がありません。

 『黄昏時の紳士』……そんな言葉がぴったりの方です。

 その黄昏時の紳士さんはイーゼルを立てて黒板を乗せると、放り出した鞄を拾い上げるとさして気にした様子もなく、ぱんぱんと埃を払いました。

 

「では失礼」


「あ、は、はいっ! お気をつけて!」


 街を覆う静かな闇の中へと消えていく姿。何となく、ぽーっと見とれていた私は、慌てて会釈をして紳士さんを見送りました。それから私は、閉店時間に茶館の前で黄昏時の紳士さんと挨拶を交わすのが、何となく日課のようになりました。

 どうしてもという訳ではありませんが、何故か閉店時間が近づくと時計を気にしてしまいます。


 夜空には星が瞬いていて、少し冷え込んできました。

 私は両手を擦り合わせて、赤くなった指先に「ほーっ」と息を当てて暖めます。


(今日は遅いですね……)

 

 腕時計に目をやって、溜息を付いたときでした。


「こんばんは」


 そんな言葉と共に、すっと私の前を通り過ぎた人影は、黄昏時の紳士さんです。


「あっ、こんばんは、お仕事お疲れさまです!」


 私が慌てて挨拶すると、黄昏時の紳士さんは立ち止まって、ゆっくりと振り返りました。


「ありがとう。貴女の声を聞くと、一日の疲れがとれて気持ちが軽くなりますよ。冷え込んで来ました、風邪でもひいたら大変だ、早くお店にお入り下さい」


 そう言って黄昏時の紳士さんはにっこり笑うと、軽く手を挙げました。


「お気を付けて!」


 私は軽く会釈をします。背を向けて手を振る仕草、力強い足取りで足早に歩いて行かれます。

 交わす言葉はささやかな挨拶。ひと言だけの短い会話ですけど、何か相通じる気持ちを感じられる事がとても大切な事だと私は思います。「Closed」と書かれた木製の札を扉の取っ手へと掛けて、私はお店の扉を閉めて、カーテンを引きました。


 これで、今日の営業はお終いです。


「遙さん!」

 

 ふと気付けば、お店のカウンターの中には遙さんの姿。

 お湯を沸かす小さなポットが、しゅんしゅんと音を立てています。 


「瞳子ちゃん、お疲れ様。こっちに来て座りなさい。手が冷たくなったでしょう、温かい飲み物を淹れるわね」


「あっ! ありがとうございます」


「ところで……ねぇ、瞳子ちゃん。寒いのにお店の外で何をしていたのー?」


「ええと……ちょっとですね」


 興味深そうな遙さんに、私は少し照れながら曖昧に答えました。

 お父さんってあんな感じかな? 何て思いましたが、そんなこと恥ずかしくて言えません。


「あ~っ瞳子ちゃん、ひどいわ。私に意地悪するのね」


「い、いえ、決してそんな訳ではっ!」


 私に背を向けて肩を落とした遙さんに、私はあたふたと慌ててしまいます。

 多分、遙さんはくすりと微笑んで、可愛くぺろっと舌を出していらっしゃるのでしょうけど。


「……黄昏時の紳士さんに、ご挨拶です」


「黄昏時の紳士さん?」


 ちょっと俯いた私が上目遣いでそうぽつりというと、くるりっとこちらを向いた遙さんは栗色の大きな目をぱちくり。

 きょとんとしている遙さんに、私は『黄昏時の紳士』さんのお話をします。


「うふふ、黄昏時の紳士さんか……良く似合ってるわね。礼儀正しくて、生真面目なところなんか特に」


 じっと私の話を聞いていた遙さんはくすくすと笑いながら、ぽん!とひとつ手を打ちました。


「え?」


「はい、お待たせ。遙さん特製のカフェ・オレよ」


 私の疑問符を置き去りにして、遙さんがカウンターへと置いて下さったのは温かいカフェ・オレのカップでした。


「わぁ! いただきます!」


 とっても嬉しいです。


 優しい遙さんのカフェ・オレ。

 先ほど感じた疑問符も、頭の隅っこへ消えてしまいました。

 大振りのカップを丁寧に持って、そっとひとくち。


「ああ、おいしいです……」


 思わず、吐息が漏れ出します。


 「あらあら、感激してくれるの? うふふ、ありがと」


 嬉しそうな遙さん。やっぱり、私のカフェ・オレとはひと味違います。とても香ばしいのに、柔らかなミルクにまあるく包み込まれるような優しい甘さ。体の芯から心まで、ほっこりと温まります。


「あの人には、あれが精一杯なのね~。変わらないわ、無理しちゃって。ほんとに照れ屋で不器用なんだから」


 小さな声でそうつぶやいた遙さんの微笑みは、初恋を憶えた少女のように可憐です。

 その栗色の瞳は窓の外、街を覆う優しい闇を見つめてるようでした。


「遙さん、あの人って?」


「え? うふふ、秘密よ。何でもないのー」


「あ、遙さんも意地悪ですっ!」


 なぜかほんのりと頬を染めた遙さんは、恥ずかしそうな笑顔を浮かべるだけで教えて下さいません。

 もっとお話を聞きたくても、遙さんご自慢のカフェ・オレに私の疲れた体はとろけていきます。


 『黄昏時の紳士』さん。


 ひょっとして、遙さんはあの方をご存じなのでしょうか?


 一日の終わり、私は茶館で過ごすこのひとときを、とても楽しみにしています。

 目を閉じて、静かに流れる音楽に合わせて体を揺らしている、楽しげな様子の遙さん。

 私はそんな遙さんの気持ちに想いを馳せながら、カフェ・オレが揺れているカップの縁を、指先でついっと撫でました。

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