初雪~Snow Angel~
「寒いな……」
バスから降りた瞬間に吹き付けた強い北風に、僕は思わず身震いした。
夕刻といってもまだ早い頃合いだけど冬の日暮れは早く、既に辺りは暗くなっている。
赤、青、黄、緑……。
街並みのあちらこちらで瞬く、様々な光の奔流に圧倒される。
その様子は、まるで妖精でも舞っているかのように幻想的で、同時に何やらそわそわとした雰囲気が漂う。
軒を連ねる駅前通りの店が華やいでいるのは、クリスマスが近いからだろう。
プラカードを掲げたサンタクロース姿のアルバイトを幾人も見かけた。
本物のサンタクロースも、イブには大変だろうな。
さて、サラリーマンもこれから残業だ……。
社に戻って報告書の作成など、残務整理をこなさねばならない。
それを考えるだけでも憂鬱になってくる。
沢山の人々が行き交う賑やかな大通り。
足取り重く会社へ向かおうとした僕は、ふと思いついて立ち止まった。
綺麗に着飾った若い女性が、往来の真ん中でぼ~っと立っている僕を迷惑そうに一瞥して追い抜いていく。
「そうだ、この時間ならまだ開いてるだろうな」
取引き先から思いのほか早く帰ることが出来たので、時間には少し余裕がある。
僕は腕時計をちらりと見ると、駅前通りから一本それた道へと進んだ。
はやる気持ちで、自然と足早になってくる。
旧市街の中央通り商店街を歩いていくと緑色の屋根をした建物、古い小さな喫茶店が見えてくる。
窓から漏れている、温かな灯りにほっとした。
良かった、やっぱりまだ営業中だ。
一度、ひょいと扉から店内を覗く、どうやら他に客の姿はないようだ。
僕は古めかしい木製の扉に手を掛けて、ゆっくりと引く。
仕事が忙しくてご無沙汰だったため、ほんの少し気が引けた。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けるとドアベルの音と共に、涼やかな声が迎えてくれる。
振り返った瞳子さんが、にっこりと微笑んだ。
黒いジャケット姿の彼女、エプロン姿がとっても可愛い。
ふわりと胸元を飾るのは、大きなエメラルド色の飾り石が留められているリボンタイ。
バレッタでまとめられた長い黒髪が、僕の目の前で踊った。
「まぁ!」
「瞳子さん、久しぶり。元気だった?」
僕を見て目を丸くする瞳子さんに、決まり悪そうに笑顔を返す。
この店の馴染みはみんな、彼女を「瞳子さん」と呼ぶ。
瞳子さんの姓は「水無月」という珍しい響きの名なのだが、彼女はなぜか自分の姓が嫌いらしい。
「ありがとうございます。ご覧の通り元気ですわ」
「良かった。毎年暮れになると忙しくてね。あれ、マスターは?」
そこで初めて、僕はこの店の若いマスターの姿が見えないことに気が付いた。
いつもカウンターの奥に置いた椅子に、日がな一日腰掛けているだけ。
マスターといっても、彼がコーヒーを淹れている所なんか、一度も見た事がない。
無口だし熊みたいに大柄だから、ちょっと脅える人もいる。
「いつものことです。慎吾さんは、ふらっと出ていかれました」
「そっか……」
留守なんだ。
ちょっとだけ、ほっとしたりしてね。
僕は瞳子さんに案内されるままに、コートを脱いでカウンター席へと座る。
店内に飾られた沢山の絵が、僕を迎えてくれた。
『うわ、あの人久しぶりだね~』なんて、小さな囁き合う声が聞こえるようだ。
(久しぶりだね。みんないいなぁ……毎日、瞳子さんと一緒で)
なんて挨拶を、心の中で言ってみる。
ふと気が付くと、茶館の窓際に綺麗に飾り付けをされた小さなクリスマスツリーが置いてある。
星やサンタクロースの人形がぶら下がったりしていて、とても賑やかだ。
「今日は寒いね。ブレンドお願い、熱々で」
「かしこまりました」
僕の注文に、にっこりと笑った瞳子さんがカウンターへと入る。
「お忙しそうですね。今日のお仕事は、もうお終いですか?」
「まだまだ、実はこれからなんだ。恥ずかしながら残業前に、ちょっと息抜き」
おしぼりで手を拭いていると仕事を思い出す。
ああ、急に肩こりが気になり出すから不思議だな。
そんな事を口に出せば、瞳子さんが気の毒そうな顔をしてしまう。
そうだ、ぐるりと首を回すだけにしておこう。
「お腹が空いていませんか、サンドイッチなどいかがです? 今日は特別にローストビーフがありますよ」
「わ、豪華だね。クリスマスが近いから?」
「はい!」
楽しそうな瞳子さんの笑顔。
眺めていると、疲れなんて吹き飛んでしまうみたいだ。
「う~ん。時間がないから、急いで詰め込んだりしたら勿体ないなぁ、またゆっくりと食べに来るよ」
料理上手の瞳子さんが作ってくれるサンドイッチは、とても美味しい。
一度グルメリポーターに食べさせて、その感想を聞いてみたい。
しゃっきりとしたレタスとキュウリ、黒胡椒が効いたローストビーフのサンドイッチ。
ああ……食欲をそそるなぁ。
でも時間がない、ほんとに残念だ。
かくんと肩を落とした僕は、カウンターの上にほんのりと湯気を上げる白いティーカップに気が付いた。
なんだろう? 僕は興味津々でカップを覗き込む。
カップの中で褐色の液体とクリームが混ざり合い、柔らかに浮かび上がる模様。
……ラテアートか。
僕はティーカップの中を覗き込んだ。
褐色のキャンバスに浮かぶのは、毛糸の帽子を被ってマフラーを首に巻いた雪だるま。
「わぁ、雪だるまだ。瞳子さんが作ったの?」
「ああっ!見ちゃだめですっ!」
慌てた様子の瞳子さんが可愛らしい。
彼女が取り乱すなんて、ほんとにめずらしいな。
「そんなに慌てなくってもいいのに、とっても上手く描けてるよ」
「ありがとうございます。覚えたてで面白くて……でも、まだお見せ出来るようなものにならなくて、とても恥ずかしいです」
僕がそう褒めると、頬を染める瞳子さんが小さく肩をすくめた。
「お待たせしました」
コーヒーカップを置く綺麗な指の丁寧な仕草。
香ばしい薫りを漂わせるブレンド。
その薫りを楽しんでいると、
「あら?」
窓の外へ目をやった瞳子さんが、驚いたように小さく声を上げた。
「雪……」
「え?」
瞳子さんの言葉に、僕も窓へと目をやった。
ちらりちらりと、虚空から舞い降りる白い綿毛のような雪。
それは、美しくも儚い天使達。
「初雪か、どうりで寒いわけだ……」
「ええ、そうですわね」
窓辺へ歩み寄り、瞳子さんが目を細めた。
「とても綺麗……」
窓の外を見つめている、綺麗な瞳が揺らいでいる。
そんな彼女の後ろ姿を眺めていた僕は、ふとカウンターへ置かれたままのカップを見た。
カップの中に浮いている雪だるまは、とても楽しそうに笑っている。
いけないいけない。
ほんわかとした雰囲気の茶館で、瞳子さんの後ろ姿をぼーっと眺めていたら、随分と時間が経ってしまった。
雪がちらつく夜空。
温かなブレンドで気持ちを奮い立たせて会社へ向かおうとした僕に、
「ごめんなさい、急ごしらえなんですけど」と言って、瞳子さんがひとつの包みを手渡してくれた。
手渡された包みの中身は、ローストビーフのサンドイッチ。
「お仕事、頑張って下さいね!」
気が早いサンタクロースが、僕にプレゼントをくれたようだ。
笑顔で励ましてくれる瞳子さんの優しい言葉に、僕は勇気が湧いてきた。