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エスプレッソをキャンバスに

「何だよ店員さん、そんな事も知らないの?」

「あ、あの……申し訳ございませんっ!」

 腕を組んで、ぐるりと店内を見回している不機嫌そうなお客様の指摘に、私は丁寧に頭を下げました。眼鏡を掛けた青年は憤懣(ふんまん)やるかたないといった表情で、苛々したように眉間に皺を寄せています。

「旧市街の商店街に、たくさん絵を飾った珍しい喫茶店が開店しているって聞いたから来てみたけど、有名な絵画なんて一枚も飾ってないじゃないか。それに……」

 青年の茶色の瞳が眼鏡の奥で、私をじろりと睨みました。

「絵の描き方も何にも知らないで、よく『画廊茶館』なんて名前の店で働いているよな」

 青年は、どうにも溜飲を下げてくださらないようです。

 私はひたすら恐縮しながら頭を下げ続けます。

「釣りは要らない。もっと勉強しなよ」

「あの、そんなっ!」

 青年は千円札をテーブルへ置いて席を立ち、さっさと茶館を出て行ってしまいました。

 青年が店を出た後、私はしばらく動けませんでした。テーブルの上に置かれた千円札が妙に遠く感じます。

 心に突き刺さる言葉に、私は唇をかみしめました――。


 ☆★☆


「疲れました……」

 閉店時間が待ち遠しいなんて思った事は、これまでにありません。胸のもやもやがずっと続いていた一日でした。

 お店の掃除と片付けを終えて、とりあえずテーブル席の椅子へと腰を下ろします。

 肩を落として溜息をついていると。

「お疲れ様、瞳子ちゃん。今日は災難だったわね」

 ふんわりした茶系のセーターに、暖かそうなチェックのロングスカート。

 カウンターの椅子に座って、ゆったりと足を組んでいる遙さんが苦笑しています。

「遙さん……」

 嬉しいです。

 膝を抱えて体を丸め、どうしようもなく落ち込んだ気持ちの中へ沈んだままでいるのはとてもつらい事なのに。

 そんな時に、そっと声を掛けてくれる人が側にいてくれる。

 こんなに心強い事はありません。

「絵の描き方ね。構図とかデッサン、画材の用法っていうのかなぁ……」

 遙さんは、ぴんと立てた人差し指をくるくると回します。

「構図やデッサンは基礎。画材については描きたいモチーフによって使い分ける人もいれば、ひとつの技法に惚れ込んで、自分が求める表現をずっと突き詰めていく人だっているのよ」

 ぴょん! と、椅子から飛び降りるようにして立った遙さんが、くるりとその場でひと回りすると……。

 エプロンを締めた姿に変身です。

 近頃、私は遙さんとお話ししていると、ときおり重要な事を忘れ去っている事に気が付きます。

「ごめんね、ちょっと理屈っぽくなったわ」

「いえ……私の勉強不足はちゃんと認めます」

「あらあら真面目なんだから。絵描きじゃなきゃ、分からなくても当たり前よ」

 しゅんとしている私の背中を、遙さんは軽くぽん! と叩いて励まして下さいました。

「気にしないの、私も何回か経験したわ。世の中にはいろんな人がいるからね」

 そう言いながらカウンターへと入った遙さんが、冷蔵庫を開けて何やらごそごそしています。

 ええと、私は何か甘いものを入れていたでしょうか?

「瞳子ちゃん、お夕飯作ってあげるから一緒に食べましょう。美味しいもの食べて、おしゃべりして、ゆっくりお風呂に入ってぐっすり寝ちゃうの。それで嫌な事はすっきり忘れられるから」

 くるくると、ペティナイフを手の平で器用に回しながら遙さんが笑います。

「あ、私も手伝いますっ!」

「いいからのんびりと座っていなさい、今夜は私の腕前を見せてあげるから。慎吾も帰って来ないようだし、ゆっくりしましょ」

 椅子から腰を浮かせた私にそう言って、遙さんはパスタを取り出して秤に乗せました。

 ニンニクと鷹の爪を刻む小気味よい音が、リズム良く響きます。

 パスタ鍋とキッチンタイマーを慎重に見比べながら、オリーブオイルをちょっと深めの鍋へ。

「瞳子ちゃんは、辛いのが苦手よね」

 多めに刻んだニンニクと鷹の爪を少しを入れて炒め煮ると、食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐります。

「うん、あるでんてっ♪」

 ぴぴっとタイマーが鳴るとパスタトングを手に取って、歌うようにつるつるっとパスタの固さを確かめた遙さんは、鍋にパスタを移して塩気のある茹で汁とオリーブオイルを振りかけ、さっと手早く絡めます。

 お皿に取り分け、ぱらぱらと刻んだパセリをふりかけて。

「はい、出来上がり!」

 夕食は、遙さんお手製のペペロンチーノ。

 キュウリとレタスとトマトのサラダを、さっぱりとしたドレッシングでいただきます。

 特別に缶ビールを一本だけ、小さなグラスで分け合います。

「さてさて、今日も一日ご苦労様」

 そう言って笑う遙さん。

「いただきます」と、二人できちんと手を合わせます。

 遙さんの料理は、私の記憶に刻まれる事がなかった『優しいお母さんの味』なのでしょう……とても美味しいです。


 ☆★☆


 美味しいパスタとサラダをいただいて、元気が戻ってきました。

 私が食器を洗っていると、遙さんがカウンターの奥で何やらごそごそしています。

「瞳子ちゃんも、すっかりお店に慣れたわねー」

 遙さんがビニール製のカバーを外すと、一台の機械が姿を現しました。

 やや小振りの四角い箱が、銀色に輝いています。

「今はまだ、あなた一人で大丈夫なんでしょうけど。慎吾はどう考えているのかしら」

「遙さん、これって……」

「コーヒーマシンよ、なんと全自動っ! 小さくて中古品だけど、業務用に違いはないわね」

 喫茶店の繁忙時の為に作られた省力化機械。

 遙さんの説明では、ブレンドやエスプレッソ、紅茶までと様々なメニューに対応しているようです。

 機械の調子を見ている遙さんは、扱い方を心得ていらっしゃるのでしょう。

「ブレンドなんかに使うのは、やっぱり気が引けるけど」

 ひととおり掃除と点検と済ませ、機械の上部に深煎りの豆をセットした遙さんは、

「はい、スイッチオン!」

 景気の良い掛け声で、機械のスイッチを押しました。

 うーんと唸り出すコーヒーマシン。

 遙さんは、その間にカップを取り出して温めています。

 ノズルからカップに注がれるのは、高い圧力で抽出された微細なクレマを褐色の表面に湛えたエスプレッソ。

「良い調子、綺麗な褐色ね。こっちで作ったのがスチームドミルクよ、見ていなさいね」

 遙さんはエスプレッソを入れたカップへと、器用にミルクピッチャーを傾けてミルクフォームをゆっくりと、そっと流し込んでいきます。

「うふふ。ほらほら、見て見て」

 『ラテアート』エスプレッソの褐色と、白いミルクの柔らかなグラデーション。

 エスプレッソの表面に浮いているのは、ふんわり優しいまぁるいハート。

「いい? 本番はこれからよ」

 くすりと笑った遙さんが取り出したのは、一本の楊枝です。

 二杯目をカップに注ぐと再びスチームドミルクを注ぎ込み。遙さんは軽く指で摘むように楊枝を持って、表面に差し込みついっと泡とミルクを寄せていきます。

「はい、これがスワン……白鳥ね」

 エスプレッソのクレマとクリームのようなミルクフォームが、綺麗に白鳥の姿を浮き上がらせています。

 私は目を丸くして、遙さんのしなやかに動く手先を見つめていました。

「遙さん、凄いです!」

「ふふ、ありがと。瞳子ちゃんも試してご覧なさい。きっとこの先、役に立つわ」

「はいっ!」

 遙さんは『リーフ』『ねこ』『羽根』など、色々なラテアートを見せて下さいました。

 私が以前に勤めていた喫茶店では、バリスタと呼ばれる専門職の方が働いていらっしゃいました。彼等の手によるラテアートはとても綺麗でした。

 私は遙さんの描かれたラテアートも繊細で、とても綺麗だと思います。

 やっぱり、絵心がなければ描けないのでしょうか。

 私も遙さんに教えて貰って、幾度も試してみましたが。

 前途はとても多難のようです。

「瞳子ちゃん」

「……はい」

 何となく打ちひしがれて、しおれた声で返事をすると遙さんはぱっちりとウインクをひとつ。

「そうそう。今日お店に来た彼、きっとまた姿を見せるわよ?」

「え? でも……」

「瞳子ちゃん。ささくれだった気持ちでいる時、不意に口を突いて出てしまった心ない言葉や、態度は必ず後悔するものよ。悪意ばかりを持った人なんてそうそういないの、今度はあなたにからんだりしないと思うわ」

 遙さんは、そう言って軽やかに微笑みました。


 ……そして数日後。

 遙さんの予言は的中しました。

「いらっしゃいませ!」

 扉を開いた青年の姿。

 胸がどきどきし始めますが、私は一生懸命に自然に振る舞います。

 カウンター席へと座った青年は、そわそわと何となく落ち着きがない様子です。何度もメニューを開いては閉じて……。

「あ、あの」

 遠慮がちに手を挙げた青年。

 お水を満たしたグラスとおしぼりを置いて、私はぺこりとお辞儀をします。

「この間は失礼いたしました。ご注文ですか?」

 今日は青年の表情と口調に、この間のような刺々しさを全く感じません。

「あ、いいえ。えっと、あの、ブ、ブレンドを……」

「ブレンドですね、かしこまりました」

 私は心を和ませる、柔らかな微笑みを心掛けています。

 でもどうしたのでしょうか。

 私がカウンターでサイフォンに向かっている間も、彼は落ち着きがない様子で店内を見回しています。

「お待たせしました」

 彼の前にカップを置くと、彼はいきなりカウンターへと両手を付きました。

「この間は、すいませんでした!」

「え?」

 突然に青年から謝られ、私は驚いて目をぱちぱちとさせてしまいます。

「俺。いえ僕は、市役所の隣にある市立美術館で、学芸員をしているんです」

 うなだれた青年は、ぽつりぽつりと話します。

「実はこの間、美術館で絵画の展示作業中に大きな失敗をやらかして、こっぴどく叱られたんです。それで苛々してて、ついあなたにあたってしまって……本当に、本当にごめんなさい!」

 深々と頭を下げる青年、その事をずっと気にしていたのかもしれません。

 体を小さくしているその姿は、とても憔悴しているように見えました。

「いけません。お客様、どうぞ顔を上げて下さい」

 私がそう言うと、おずおずと顔を上げた青年はうっすら目に涙をためて、真っ赤な顔をしています。

 すぐにハンカチを差し出した私は、ふと思い付きました。

「そうですわ、ちょっと待っていて下さいね!」

 私はカウンターへと入ると、コーヒーマシンを起動します。

 遙さんに教えていただいたことは、ちゃんとマスターしました。

 手順通りエスプレッソを抽出して、温めたカップに程良く満たしスチームドミルクを作ります。

 ミルクピッチャーへ移したスチームドミルクをゆっくり注ぎます。ミルクピッチャーを傾けると、ふわりと白い流れがエスプレッソの海に広がります。

 そっと優しく。

 楊枝で表面をなぞるとハートの形が静かに浮かび上がります。私はエスプレッソに浮かべたミルクにハートを描きました。

 ちょっとだけ形が崩れてしまいましたが、今日は会心の出来映えです。

「覚えたてのラテアートです!」

 ちょっと得意げな口調になってしまいましたが、お許し頂けるでしょうか。

「お客様とお話ししたのがきっかけで、私もひとつ勉強出来ましたわ。ですから、もうお気になさらないで下さいね」

 カップの中でゆらゆらと揺れているのは、私が心を込めて描いたハートです。

 青年は照れくさそうに滲んだ涙をハンカチに吸わせて、眼鏡を掛け直しました。

「とても柔らかくて優しい。まるで……店員さんみたいです」

 青年はカップを両手で丁寧に包み、私が描いたハートをじっと眺めてそう言って下さいました。


 ☆★☆


「瞳子ちゃん、もうお腹一杯……」

 少し疲れた顔の遙さん。

 私の特製、苺と生クリームをたくさん使ったケーキを前にしても、食欲が湧かないようです。

「いくら私だって、こんなにたくさん飲めないわよ」

 遙さんの前には、エスプレッソのカップがたくさん並んでいます。

 私は凝り性なのかもしれません。

 とても楽しくて、毎日ラテアートの練習をしています。

 カップに浮かんたくさんのラテアートが、遙さんを囲んでいます。少し形は悪いですけど、遙さんへ感謝の気持ちを込めたつもりです。

 次は何を描いてみましょう。

 お客様、リクエストはございませんか?

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