~約束~ 後日談、ある日の恵子さん
「お邪魔しま~す」
恵子は、とんとんとん! と弾むように茶館の階段を上る。
疲労から高熱を出して、瞳子が寝込んでしまったと慎吾に聞かされた。
慎吾は実家のお義母さんに来て貰おうと思っていたようだが、どうしても都合が付かないらしい。
あいつは気が利かない熊……いや男だし、瞳子ちゃんは女の子だし……。
ベッドから起き上がる事もままならないでは重症だ。
ならばここは私、恵子さんの出番でしょう!
腕まくりをした恵子は、意気揚々と瞳子の看病を引き受けた。
こんこんと、少し遠慮がちに白い扉をノックする。
「あ、はい、どうぞ……」
部屋の中から、瞳子の微かな声が聞こえた。
「瞳子ちゃん、こんにちは」
あまり音を立てないように、そっと白い扉を開ける。
(わぁお、瞳子ちゃんのお部屋だ~)
なんとも不謹慎な事を考えながら、恵子は部屋へと足を踏み入れた。
「瞳子ちゃん、どうかな?」
「こんにちは、ごめんなさい恵子さん」
起き上がろうとするパジャマ姿の瞳子を、恵子は慌てて押しとどめた。
「こらこら、起きたりしないの。ほらね、私が言ったでしょう。気を張って無理していたのよ」
「はい……」
「気にしなくていいから、ちゃんと寝てなさい」
瞳子はどうにも真面目過ぎる。
そんなことを思った恵子は瞳子の顔を見て、ふとある事を思い出した。
「瞳子ちゃん」
「……え?」
恵子はじっと、瞳子の瞳を見つめた。
やっぱりそうだ。
瞳子本人が気にしているかも知れないので恵子は口にしないが、瞳子の瞳は何故か深い紫色に見える。ここのところその綺麗な瞳が、真っ黒なガラス玉のように感じられたので、恵子は密かに心配していたのだ。
「ううん、何でもない。ほらほら寝て寝て」
可愛いパジャマ姿を堪能出来ないのは残念だけど。
恵子は布団を掛け直して何気なく部屋の様子を見回してみる。
多少彩りには欠けているものの……瞳子らしさを感じる、きちんと整理された部屋だ。
ベッド脇のサイドボードに揃えられている、洗面器や新しいタオル。
これは、瞳子の体を拭くための物だろうが……。
(これ誰が? まさか慎吾が? いやいや、そんな事ないわよねぇ)
「あの、恵子さん」
「あ~ははは、なっ何!?」
「?」マークを連発する恵子は、階下の様子が騒がしい事に気が付いた。
「外の様子が騒がしいみたいなんですけど、何でしょう……?」
「私が様子を見てくるわ、横になっていなさいね」
恵子は、すっと椅子を立った。
とんとんと階段を降りて、茶館の裏手の扉を開けた恵子は驚いた。
「ああ、恵子さん。こんにちは、瞳子さんの具合はどうですか?」
商店会長が柔和な笑みを見せる……のはいいのだが。
会長の後ろにずらりと並んでいるのは、中央通り商店会の面々だ。
肉屋に魚屋、八百屋に……あれ? 駅前通りの連中までいるのはどうしてだろう?
ああ、もう見ただけで数えるのがめんどくさい。
「どうしたんです? また商店会の皆さんが勢揃いで」
「いやいや。瞳子さんが倒れたと、もう商店街中が大騒ぎなんですよ。瞳子さんの体に障ってもいけないし、私が様子を聞いてくるといったんですがねぇ……」
困った顔の会長が、のんびりと言った途端。
花やら何やら手にした商店会の連中が、わあっと一気に押し寄せて来る。
驚いた恵子は咄嗟に、ばたんと扉を閉めてその前に陣取った。
「ちょっと待って、いい加減にしなさい。アイドルの追っ掛けかお前らはっ!」
次々と突き出される品を、恵子は懸命に押し返す。
「こら魚屋っ! 病人に刺身なんぞ差し入れするなっ!」
「そこっ! 病人に鉢植えの見舞いなんぞ持って来た馬鹿は、前に出ろっ!」
だんだんと、乱暴になってくる恵子の口調。
ぶっつり……。
一生懸命に宥めていた堪忍袋の緒が派手な音を立てて切れ、恵子は肺一杯に空気を吸い込んだ。
「がたがた騒ぐなっ! 瞳子ちゃんの体に障るだろうがっ! 見舞いに来た奴はおとなしく一列に並べっ!」
恵子の剣幕に、瞳子への見舞いの品を持って、わいわいと騒いでいた商店会の面々がぴたりと静まった。
ふーふーと肩で息をする恵子を、皆一様に恐ろしい魔物でも見るような目で見ている。
恵子がぎろりと睨むと、慌てて皆が一列に並ぶ。
「行儀が良くてよろしい。さて、一人ずつ受け付けましょうか」
眉をぴくぴくと動かし、口元を引きつらせた恵子が壮絶な笑みを浮かべた。
「……まったく」
気持ちは分かるが、程というものを知らんのか。
見舞いの品を両手に抱え、のしのしと茶館の廊下を歩く恵子は、ふっと笑みを漏らした。
瞳子の存在は、ちゃんと中央通り商店街で暮らす、皆の心に浸透しているようだ。
「あら?」
瞳子の部屋の前まで来た恵子は、部屋の中から聞こえてくる話し声に気が付いた。
「ええ? お客さん? どうして? どこから入ったの?」
恵子は扉の前で立ち止まった。
微かに聞こえてくるのは、落ち着いた優しそうな声。
『それじゃあね……また様子を見に来るから、大事にしなさい』
「わわわわわっ!」
足音が聞こえる、誰か知らないが、どうやら帰るところらしい。
恵子は慌てて扉から離れた。
しかし、いつまで待っても扉は開かず、部屋からは誰も出てこない。
「あれ?」
恵子は首を捻りながら部屋の扉を開けた。
「瞳子ちゃん?」
しかし、部屋の中には人など居ない。
そして、瞳子もベッドで静かに寝息を立てている。
「あらま」
ひょっとして寝言?
腕を組んで考えていた恵子だったが。
「まぁ、いいわ」
抱えていた品を丁寧に床へ置くと、瞳子の額に手を当ててみる。
ひんやりしている、これならもう大丈夫だろう。
「ゆっくり休みなさい、頑張り屋の瞳子ちゃん」
ベッドの端に寄せた椅子に腰をおろし、恵子はくすりと微笑んだ。