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~約束、星降る夜に~ (後)

 朝から窓の外を何度も見ている私は、曇り空を眺めながら深い溜息をつきます。

 美樹さんは彼と二人で流星群を見ようと約束していらしたのに。時間ごとにテレビから流れる天気予報を見ているのですが、どうにも天候は回復しそうにありません。

 窓の外を見ながら憂鬱そうな顔をしていると、無言で立ち上がった慎吾さんが、ドアベルの隣に可愛らしい“てるてる坊主”をぶらさげて下さいました。

 私がずっと天気の話ばかりしている事を、気に掛けて下さっていたのでしょう。

「ありがとうございます!」

 てるてる坊主を人差し指でちょんとつついて慎吾さんにお礼を言うと、大きな後ろ姿はちょっと照れくさそうです。

 でも、次第に強くなって来る風。

 とても残念です、少しくらい晴れてくれたっていいのに。

 慎吾さんが作って下さった“てるてる坊主”の力も届かず。お昼過ぎから降り出した雨は止む事が無く、そのまま日が暮れてしまいました。


 美樹さんは、彼を迎えに行かれるのでしょうか。

 そんな事を考えているとドアベルが鳴り、お店の扉を開いた美樹さんの姿が。

 淡いお化粧が清楚な美樹さんのイメージを引き立たせています。綺麗に着飾って、緩やかなウェーブの長い髪がふわりと揺れました。

「こんばんは、美樹さん。とても綺麗ですよ」

 美樹さんは私に答えることなく、硬い表情のままで外の様子を眺めています。

「……冷たい雨」

 美樹さんの表情は曇ったまま。

 残念な気持ちはよく分かりますが、この空模様では星を見るのはとても無理です。

「私は今から高台に行きます」

「えっ! 今からって……。彼はもう帰ってらしたんですか?」

 思い詰めた表情。美樹さんの様子が少しおかしいです。

 私は強く言ってでも、彼女を引きとめなければならないと思いました。

「美樹さん、どうしたんですか、何があったんです?!」

「大切な約束なの」

 小さくかぶりをふった美樹さんはそう言って、身を翻すと茶館を飛び出してしまいました。

「美樹さん、待って下さい!」

 私は慌ててカウンターを出ると、美樹さんの後を追いました。

 強い風と雨に手をかざし、美樹さんの姿を探しましたがどこにも見あたりません。

「急いで追いかけないと」

 この風ではとても傘など使えません。

 私はすぐに髪を留めているバレッタを外してカウンターの上へ置くと、長い黒髪が邪魔にならないようにひとつにまとめます。

「すみません、慎吾さん。お客様をお願いします!」

「ちょっと待て瞳子っ!」

 慎吾さんの叫び声を置いて、私はレインコートを身に纏うと茶館を飛び出しました。

「美樹さーん!」

 強い風雨の中を、私は美樹さんの名を呼びながら走ります。

 夕刻の上にこの天候です、商店街にほとんど人の姿はありません。商店会の皆さんに尋ねようにも、どのお店も早じまいをしているのです。

 中央通りの真ん中で立ち止まった私は、胸に手を当てて荒い息を鎮めます。あたりは暗くなり風雨が吹き荒れる様は、いつもの商店街ではないように感じます。

「早く展望台に行かないと」

 私は坂上の高台を目指して再び走り出しました。

 緩やかな坂道。右手には雨にけむり、高校の校舎がぼんやりと見えてきます。激しい風雨は一向に弱まる様子がなく、木々を揺らし私の体を叩き続けます。

 坂上には公園と共に街を一望出来る広い展望台があるのです。

 私は力を振り絞り走り続けます。

 長い坂を登り切ると、展望台で空を見上げる美樹さんの姿を見つけました。風邪でもひいたら大変です、早く美樹さんを連れて茶館に戻らなければなりません。

「美樹さん、良かった!」

 しばらく両膝へ手を当てて呼吸を整え、美樹さんの側へ寄ろうとした私は、突然強風に煽られました。一瞬体が宙に浮き、声を上げる事も出来ずに思わず固く目を閉じます。

 私はそのまま強く地面に叩き付けられ、激しい痛みに一瞬息が止まりました。

 やっとの思いで、痛みに震える体を起こします。

「美樹さん」

 美樹さんは、どうしてしまったのでしょうか。

 悲しげな瞳の美樹さんが、ゆっくりとした足どりで私へと歩み寄ってきます。

『ごめんなさい、瞳子さん。でも、あなたが必要なの。二人の約束を裂いてしまう、この暗い雲を吹き払うために』

 何が起こっているのでしょう。

 水溜まりに弾ける雨粒。

 体の痛みに立ち上がる事も出来ずに、私は顔を上げて美樹さんを見つめます。

『あなたの瞳の力を貸してちょうだい』

「……私の瞳ですか?」

 私には美樹さんが何を言っているのかわかりません。

『そう。あなたのその力があれば、二人の願いは叶えられる』

「美樹さん、何を言って……」

 その時、私は両目の激しい痛みに声も出せず、その場にうずくまりました。両目の痛みにどうすることもできない私に表情を無くした美樹さんが、私へとゆっくり手を伸ばします。

 痛くて怖くて私はただ震えることしかできません。

 美樹さんが伸ばした手の指先が私の顔に触れようとしたその瞬間、雨を弾く地面から鮮やかなエメラルド色の光が吹き上がりました。小さな悲鳴を上げて美樹さんが数歩後退り、私はその光の勢いに息をのみます。

「もう、おやめなさい」

 光が収まった後。鋭い声が響き黒いジャケットを身に纏った女性……それは遙さんの後ろ姿でした。

 強い風になぶられるリボンタイに輝いているエメラルド色の飾り石。肩越しに私を見つめる優しい栗色の瞳と栗色の濡れ髪。

「は、遙さん!」

「よかった。やっと、やっとあなたの側へ来る事が出来た」

 随分と長い間、遙さんの顔を見ていなかったような気がします。遙さんは私の手を引いて立ち上がらせて下さいました。

「あ、ありがとうございます」

 膝が震えてその場に座り込んでしまいそうでしたが、私は遙さんにすがりつくようにして体を支えます。

「美樹さん」

 私へと顔を向けた美樹さんの悲しそうな、そして何かを訴え掛けるような表情。美樹さんの姿を見ているだけで、胸が苦しくなってきます。

 そんな私を背にかばい遙さんが前に進み出ました。

 一段と強く吹き付ける風が髪を乱し、まるで壁のように遙さんの前へと立ちはだかっているようです。

「この嵐が止んだって、彼がこの場所を訪れる事なんて出来ない。それはあなたが一番よく分かっているはずよ」

「そんな、そんなことない。彼は絶対に来るわ。瞳子さんの瞳の力があれば、時間だって巻き戻せるんだもの!」

 強い口調でそう言い放つ遙さんを見つめ、美樹さんが震える肩を抱いて首を振ります。

「美樹さん、私の瞳の力って何を言ってるんですか?」

「瞳子ちゃん。いいの、もういいのよ……」

 雨と風を真っ向から受け、私を手で制した厳しい表情の遙さんが静かに口を開きました。悲しみと怒りがない交ぜになった、遙さんのこんな表情は見たことがありません。

「でもっ!」 

 私は力を込めて、懸命に遙さんの袖を引きます。

「あなたがどんなに瞳子ちゃんにすがっても、瞳に宿る力に頼っても過去は変えられない。時間を巻き戻して失った命を取り戻すなんて事は絶対に出来ない!」

 美樹さんを鋭く睨みつける遙さん、その言葉は鋭利な刃物のようで。

 私は遙さんの袖にしがみ付き、呆然とその横顔を見つめます。

「瞳子ちゃん。茶館の中に美樹さんの彼が描いたという絵は無かったでしょう?」

「は、はい……」

 私は頷きました。

 遙さんがおっしゃるように、彼が描いたというセーヌ川の絵は茶館の壁に飾られてはいません。

「瞳子ちゃん、目の前の彼女は美樹さんじゃない。彼女の姿を借りた、彼の絵の想いなの」

 淡々とした遙さんの口調は、溢れ出す感情を抑えつけているように感じられます。

「そう、彼が描いた絵が抱いている想い」

「彼の想い……」

 私は、それ以上の言葉を継ぐ事が出来ません。

「美樹さんは茶館に飾られた彼の絵を見つめて、異国の地で暮らす彼へ想いを寄せ続けていた。一途にね。それはまだ私が生きていて茶館に居た頃の話。すべて私が経験した事よ、私はあなたのようにずっと美樹さんのお話を聞いていたから」

 話を続ける遙さんは、悔しそうにきゅっと唇を噛み締めます。

 信じられません。私が繰り返された過去の時間にいたのだと、遙さんはおっしゃいます。

「夢を叶える為とはいえ、美樹さんの彼は随分と無理を続けてね。フランスでの滞在中に体を悪くして、そのまま……」

 私は絶句しました。 

『二人にとって、とても大切な約束だった……。それが叶わないなんて、失われるなんて私は耐えられない!』

 美樹さんは溢れ出る涙をそのままに、遙さんの言葉を拒絶するように髪を振り乱して叫びます。

 切なく、とても深い悲しみを湛えたその瞳。

 彼が描いた絵は茶館で遙さんに彼の事を話す、楽しそうな美樹さんの姿を今でも憶えているのかもしれません。

 そして、彼が美樹さんに寄せていた想いも。

 遙さんは力を込めて両手をぎゅっと握りしめています。

「彼が亡くなった後。茶館に飾られていた絵は、彼のお父様が形見にしたいからと引き取りにいらした。あのままずっと茶館に飾られていたのなら、私が強い想いをいつまでも包み込んでいてあげられたのに」

 悔しそうに話す遙さん。でも遙さんは大切な息子さんを失った、彼のお父様の気持ちを尊重したのでしょう。

『二人が微笑み合うのを……ずっと夢見ていた、ずっと願っていた』

 美樹さんを見守り続けた絵にとって、心残りは叶うことなく消えた二人の約束。

 深く焼き付いている悲嘆に暮れる美樹さんの姿と切ないその言葉。

 交わされた約束が叶わない限り残された二人の想いはひとつにならないと、今でも悔やんでいるのです。

 でも、そうではありません。

 私は握っていた遙さんの袖を放し、しっかりと自分の足で立ちました。

「あなたは、お店で二人の事を私にたくさん聞かせてくれたじゃないですか、あなたは二人が感じていた幸せをたくさん知っています、そうでしょう!?」

 私は自分の心に沸き上がった想いの全てを、美樹さんの姿を借りた彼の絵に伝えなければなりません。

 美樹さんが感じていた嬉しさや、心を揺さぶる不安……遠く離れていたって、二人の心はしっかりと繋がっていたはず。

 二人はお互いを想い、その気持ちをそっと伝え合っていたのです。

 私は大きく大きく吸い込んだ息を精一杯に胸へと溜めます。

 吹き付ける強い雨と風を吹き払うように、私は全身を使って声の限りに叫びました。

「二人の想いは、ちゃんとひとつになっていたんです!」

 はっとしたように私を見つめる美樹さんが、顔を歪めて両肩を強く抱きしめました。

 その時、私の体の中から何かが湧き上がってきます。

 体を駆け抜けた激しく力強い衝撃。

 瞳から溢れ出る大粒の涙。

 自分自身に何が起こったのか理解出来ない私は、そっと頬を流れる涙に手を触れます。

 それは、とても温かで。

 それは、とても力強くて。

 それは、とても優しくて。

 溢れ出した感情の奔流に抗うこともできず、私は暗い夜空を振り仰ぎます、まとめていた黒髪がほどけて雫を散らせながら広がりました。

「あ……」

 わずかに開いた唇から声が漏れ出ます。

 それまで吹き荒れていた強い風が突然止み、冷たい雨が上がったのです。

 上空に渦巻いていた暗雲は次第に霞んで消え去り、晴れ渡る星空がいっぱいに広がりました。

 高台に突然訪れた夜の静寂。

 輝く無数の星を散りばめた夜空。

 暗い天空から尾を引いて流れる美しい流れ星。

 美樹さんと彼が心待ちにしていた、そのあまりにも美しい光景。


 たくさんの流れ星が地上へと降り注いでいます。

 しばらくの間、流れる星々の残滓をじっと見つめていた美樹さん……。いいえ、彼が遺していった絵の想いは。

 私にたくさんお話を聞かせてくれた美樹さんの姿で、柔らかな笑顔を向けました。

 微かな夜風が彼女の長い髪をなびかせ、ほのかな燐光が彼女の姿を優しく包み込んでいきます。

 ……そして。

『ごめんなさい。それから、ありがとう』

「美樹さん!」

 私を見つめた美樹さんは小さく微笑みました。

 その言葉と共に彼女の足下から勢い良く沸き上がる目映い金色の光。吹き上がる光の渦に美樹さんの姿はゆっくりと溶け込み、夜空へと上っていきました。

 暗い天空の頂点から、星は止むことなく降り続けます。まるで流れ星として降り注ぐのは、夜空の彼方に消えた絵の想い。

 体から急に力が抜けていきます。

 遙さんは私を支えて、左手をそっと握って下さいました。

「ごめんなさい。薬指が痛かったでしょう? いけないって思った時には、私はもう茶館に近づくことすら出来なくなっていた。こんな方法でしか、あなたに知らせてあげる事が出来なかった」

 遙さんの声が震えています。

「茶館に遺された絵の想いに、遙さんは気付いてらしたんですね」

 小さく頷いた遙さんが浮かべた寂しげな微笑み。私がどんなに言葉を尽くしても消えない遙さんの後悔。

 遙さんは私を、そっと抱きしめて下さいました。

「あなたが無事で良かった。でも、やっぱりあなたは、あなたの瞳には……」

「え?」

「ううん、何でもない。本当に良かった」

 私の瞳をじっと見つめながらそうつぶやいた遙さんは、小さくかぶりを振りました。

「そろそろ慎吾があなたを探しに来る頃ね。あの子は鋭いから、私は姿を消さなきゃいけない。ひとりで立っていられる?」

「はい……」

「ごめんね」

 憂いを帯びた栗色の瞳を伏せて、小さく息をつきます。

 微笑んだ遙さんの姿は、宵闇に掻き消えるように消えてしまいました。

 そして、遥さんが言われた通りに。

「大丈夫か、瞳子っ!」

「慎吾さん……」

 私を呼ぶ大きな声。

 遙さんのおっしゃるとおり慎吾さんが駆けてきます。

 意識が薄れて倒れゆく私を、慎吾さんはその力強い腕でしっかりと支えて下さったようでした。


 ☆★☆


 洗いかけのコーヒーカップを手にしたまま、私は物思いに耽っていたようです。気が付けばもう、辺りは暗くなっていました。

 丁寧にカップを置いて、私は暗闇がもたらす静寂の中に身を置きます。

 彼が描いた一枚の絵が秘めていたのは、あまりにも強く二人の幸せを願った一途な想いでした。

 叶う事なく消えた二人の儚い恋。

 美樹さんはこの街を離れ、遠い街で暮らしていると遙さんが教えて下さいました。

 でも美樹さんと彼が交わした温かい心を、彼の絵は宝物のようにずっと抱き続けていくのでしょう。

 静かな夜――。

 茶館に飾られている絵達は今夜、私に何も答えてくれそうにはありません。

 でも、私には強く感じる事が出来ます。

 描かれた絵が、ずっと大切にしているそれぞれの想い。

 お店の片付けを済ませ、明かりを消してふと振り返った私の目には。

 壁に掛けられた美しいセーヌ川の絵が、確かに映っていました。

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