和服姿のご婦人は
日暮れ時はとても肌寒いです。暖かそうな上着を羽織っている、道を行く多くの人々。
店内から外へ出ると、風の冷たさに思わず身震いをします。
お客様と交わしたわずかな会話を思い出すと、自然に笑みがこぼれます。
今日もたくさんのお客様がいらっしゃいました。
営業時間を終え、メニューを乗せたイーゼルを店内に入れようとしていると、
「こんばんは……」
そう言って私に微笑みかけたのは、和服姿のご婦人でした。
その清楚な姿にしばらく見とれていた私は慌てて挨拶を返します。
「あっ、こんばんは! 日が暮れると寒いですね」
「今日はもう、お店はお終いですか?」
イーゼルを抱えたままの私を見た残念そうな表情のご婦人。どうやら茶館へいらっしゃったようです。
私はイーゼルをお店の中へ置いて、扉を大きく開きました。
「いらっしゃいませ。画廊茶館へようこそ!」
胸に手を当てて一礼する私に、和服姿のご婦人は楽しそうにくすくすと笑いました。
静かな店内で、火に掛けたポットだけが賑やかな音を立てています。
「ブレンドをいただけますか?」
「かしこまりました、特製ブレンドは当店の自慢です」
「あら、それは楽しみ」
少し御髪に白いものが混じっていますが、とても若々しく上品な方です。
カウンター席に座ったご婦人の注文に、私は温めておいたサーバーにドリッパーを乗せて、フィルターを取り出しました。
コーヒーの粉を量ってフィルターへふんわりと移し、ゆっくりとお湯を注いでいきます。
「さすが、手慣れていらっしゃいますね。でも、とても丁寧で……」
「いえいえそんな。こんな事を言ってはお客様に失礼なのですが、私などまだまだですわ」
ご婦人に興味津々といった様子で見つめられ、私は緊張気味に答えます。
コーヒーの粉へと浸透してゆくお湯、私はその様子を注意深く見守ります。
フィルターの中の粉が膨らんだ頃、しばらく蒸らしてから再びお湯を注ぎます。
少しずつ、サーバーに溜まってゆく褐色のエキス。
「このお店は、いつもあなたがおひとりで?」
「今日は留守にしていますが、ちゃんとマスターがいます。とても背が高くて大きなマスターです」
私はカウンター奥にある慎吾さんの椅子へ、そっと目を向けます。
慎吾さんが茶館に居て下さるだけで、とても安心出来るのです。
「楽しそうですね」
「実はとっても楽しいんです! そう見えますか?」
「ええ、とても」
緩んでいる両の頬に手を当てて私が聞くと、ご婦人はそう答えて下さいました。
私はカップへと静かにコーヒーを注ぎ、ソーサーにスプーンを添えて丁寧にカウンターへと置きます。
「お待たせしました」
「いただきます、いい香ですね……」
ご婦人はカップを手にすると、目を閉じて香りを楽しんでいらっしゃいます。
しっとりとした和服姿、私はとても憧れます。
「和服が珍しいですか?」
「あっ! す、すみません。とんだ失礼を」
どうしても見とれてしまいます、私は慌ててぺこりと頭を下げました。
「いいえ、そんな事ありませんよ。和服は着付けが大変だと遠慮される方も多いですけど、やっぱり慣れとコツです。良いものですよ」
ころころとまあるい微笑みのご婦人は、カップを置いて店内を見回します。
私もつられて、壁に飾られた絵を眺めます。
遙さんに手を引かれ、初めて茶館に入ったあの日に眺めたたくさんの絵。
そして今でも、私を包み込んで下さった遙さんの温かい優しさを忘れません。
『遙さんのような女性になりたい』
私が密かに心に持っている目標です。
飾る事のない、遙さんの心の在りよう……。
でもそれは、どんなに努力しても真似が出来ないものなのだと分かりました。
少しの間、そんな物思いに沈んでいました。
ふと気が付けば、ご婦人はじっと私を見つめています。
「あ、ごめんなさい」
恥じらいに両手で口を押えた私へ、ご婦人は柔らかな笑みをくださいます。
「いいえ、この茶館は良い雰囲気のお店ですね。コーヒーも美味しい、何より貴女の笑顔を見ていると、とても楽しい気持ちになります」
「あ、あのあのあの、ええと、ありがとうございますっ!」
ぼっ! と、音を立てて顔の温度が急上昇します。
湯気を立ちのぼらせて、私はうつむいてもじもじしてしまいました。
「あら、いけない。もうこんな時間」
ご婦人は壁の時計を見て、驚いたように口元へ手を当てました。
「おいくらですか?」
ご婦人は席を立ち、財布を取り出します。
「あ、はい。四百八十円です」
「ほんとうにありがとう、お店に入れて貰って助かりました。お昼過ぎから出掛けていたのだけど、思いの外帰りが遅くなってしまって。風が冷たいので、少し温まりたかったから」
「嬉しいです、お役に立てて良かったですわ。ありがとうございました」
お釣りを手渡して、笑顔でご挨拶です。
お店を閉めてしまう前で本当に良かった、一日の終わりに素敵なご婦人とお話が出来ました。
私はカウンターを出てお店の扉を開けます。
「寒いですし、夜道には気を付けて下さいね」
「ええ、ありがとう。じゃあまたね、水無月 瞳子さん」
「え?」
どうして私の名前をご存知なのでしょう。
扉を開いたままの私はぽかんとして、和服姿の美しいご婦人を見送りました。