砂の丘
慎吾はただじっと、広い広い砂の丘を見つめて立っている。
遙か上空を流れゆくのは、大きな鉛色をした雲の固まり。
朝から空模様が悪くて辺りは薄暗く、少し肌寒いからなのだろう、人の姿はまばらで寂しい。
慎吾は砂の上で急に裸足になると、目の前にそびえ立つ壁のように見える砂丘を登り始めた。まるで修行者のような表情で、一心不乱に砂の丘へ挑む。
軽く歯を食いしばり、力強い足どりで一歩一歩確実に砂を踏みしめる。
しかし脆弱な砂の坂は踏みしめる度に崩れ、足に込めた力を削いでしまう。
砂と格闘することしばし、慎吾は息を切らせることもなく砂丘の頂へと上り詰めた。眼下に再び続く砂の下り坂には、人の足跡など付けられていない。
そして下り坂の終わりからは、なだらかな砂浜となりその先に海が広がっている。
思わずその光景に目を奪われる。
天気が良ければとても美しい景色なのだろうが、今日はあいにくの天候だ。
砂浜に打ち寄せる強い波には時折、白波が立っている。
びゅう!
突然吹き付けた、砂の坂を駆け上がってきた鋭い風の固まり。
慎吾はその風に打ち倒されるように、どう! と、仰向けに倒れ込んだ。
黒い瞳を見開き、忙しなく流れる重そうな雲を睨み付ける。大の字に四肢を伸ばした体の上を、風に飛ばされたきめ細かな砂が転がり過ぎて行く。
耳に届くのは、体内から響いてくる心臓の鼓動。
力強いそのリズムを確認すると、ゆっくりと身を起こす。
慎吾は立ち上がると、しばらく砂の斜面を降りたところで腰を下ろした。
潮風が黒髪をなぶる。
心を揺さぶる寂しげな風の音は、様々な出来事への想いを脳裏に呼び起こす。
あの日、瞳子が差し出した亡き母からの手紙に、慎吾は一瞬我が目を疑った。
質の悪い冗談かとも思ったが、瞳子の紫色に見える不思議な瞳はとても真剣だった。
そして手紙の封筒へ添えられていた、小さなシロツメ草のイラスト。
それは間違いなく母、遙から慎吾に宛てられたメッセージ。
まったく、お袋らしい……慎吾はそう思う。
取り壊し寸前の茶館も気懸かりだったのだろうが。
それよりも悲しみに打ちひしがれた瞳子に、手を差し伸べずにはいられなかったのだろう。
そして、瞳子。
少しばかりの事情は聞いているものの、慎吾が彼女にしてやれる事は少ない。
冷たいようだがどんな言葉を尽くしてみたところで、ただの慰めにしかならない。まして悪戯にその傷へ触れるなど、決して許される事ではないのだ。
しばらくは、ぼんやりと物思いに耽っている事が多いようだったが。
瞳子は次第に、柔らかな笑顔を見せるようになった。
そして気さくに瞳子へと声を掛けてくれる、商店会の賑やかな面々に慎吾は深く感謝している。
何気なく傍らへと視線を移し、慎吾は大きな手で砂を握った。
さらさらと、はかなく指の間からこぼれていく砂の粒。
不器用な奴だが、どうしているのか……。
母と同じ栗色の髪と大きな栗色の瞳。
遠い街でひとりで暮らす弟を思う。
心配が必要か?
いいや、心配されているのはこちらの方だろう。
慎吾は思わず苦笑した。
思考に沈む慎吾の頬へ落ちてきたひとしずくの雨粒。
さあっと微かな音を立てて、霧のように細かい雨が降り始めた。
じきに本降りへと変わるかもしれない。
「この様子なら今日は無理だな、日を改めるか……」
慎吾は小さくつぶやいて立ち上がると、体に付いた砂を払って踵を返す。
その瞬間、海からの風が慎吾の大きな体にまとわりついて、耳元でそっと囁く。
「おい、このまま遠くへ出かけちまおうぜ」
その魅力的な囁きを、慎吾は静かに黙殺した。
「……そんなに慌てるなよ」
まだだ、そんな軽い誘いには乗ってやらない。
今はまだ、その時ではない。
そう、今は瞳子が待つ温かな茶館へと帰るのだ。
しかし、その温かさに心を奪われてしまってはならないと、慎吾は不安を感じてもいる。
安らぎは時に心を縛る鎖にもなり得る。
翼を広げられなくなった自分の姿を、慎吾はとても想像出来ない。
今は待つのだ、大空へと舞い上がる瞬間を。
じっと待つのだ、しなやかな翼いっぱいに受ける力強く神秘的な風を。
見上げた砂の坂を見上げて、慎吾はひとつ肩をすくめた。
降りて来たならまた上るのか。
人が一生を掛けて歩いて行かねばならぬ道も同じ事の繰り返しだ。少しばかりの遠回りをしたとて、それも間違った道ではない。幾筋もの分かれ道があっても、己が目指す場所へと通じていればいい。
さあ、考え事は終わりだ。登り切ったら腹ごしらえをしよう。
取りあえず何か食べなければ、空腹で動けなくなる。そういえば国道沿いに並んだ露店で、焼いたとうもろこしを売っていた。
醤油が焦げる匂いが香ばしい、一本買って丸かじりだ。
食べている間、露天商のおばさん達と世間話をするのも良いだろう。
そう決めた慎吾は、また力強い足どりで砂の丘を登り始めた。