プロローグ
モチーフを見つめる真剣な眼差し。
真っ白なキャンバスに向かう心は、様々な感情に揺さぶられているでしょう。
絵筆はその感情を色鮮やかに描き出します。
一枚の絵に託された想い――。
それは過ぎゆく時の流れの中でも、決して色褪せることがありません。
美しく彩られたキャンバスに刻まれているたくさんの想いは、今もこのお店の中で静かに眠っているのです。
グラスの中で溶けた氷が微かな音を立てる。
閉ざされた喫茶店の薄暗い店内の静寂に支配された空間は、まるで時間の流れが止まっているように感じられる。
そして今は喫茶店に似合わない強い酒の香が漂うのみ。
カウンターに寄りかかる慎吾は、空になったグラスをちらりと一瞥した。
Tシャツに、洗いざらしのジーンズというラフな姿。
大柄で筋肉質な体は威圧感さえ感じさせる。
秀麗な顔の造作なのだが、いまいち冴えないのはぼさぼさの髪と頬にざらつく無精髭のせいだろう。
身なりさえ整えればそれなりの男に見えるのだろうが、本人にまったくその気はないようだ。
慎吾はふと、顔を上げた。
目に映るのは、店内の壁一面に掛けられた数多くの絵。
水彩、油彩などの技法を用いて様々なモチーフが描かれており、どの作品からも描き手の大切な気持ちが伝わってくるようだ。
すべての絵は店主だった慎吾の祖父が飾ったもの。
その店内の様子から、もともと付けられていた店の名前まで変わってしまった。
「画廊茶館」
常連の客は皆、親しみを込めてそう呼んでいた。
残り少ないウイスキーのボトルに伸ばそうとした手を止めて、慎吾は静かに目を閉じる。
今日は妙に、どの絵もざわついている。
何かを予感しているのか……。
何かを期待しているのか……。
「いや、店の取り壊しが決まったせいだな」
自分が感傷的になっているからそう感じるのだろう。もうすぐ消える場所に心を残すのは馬鹿げている。
首を振って自嘲的な笑みを浮かべると煙草を取り出し、くたびれたライターでゆっくりと火を点ける。
窓から見えるのは、厚い雲が垂れ込めている鉛色の空だ。
もしかすると、昼過ぎには雨になるかもしれない。
「梅雨が明ける頃にはこの店は無くなる、お前は悲しむんだろうな……」
遠慮がちに紫煙を吐いて、そっとつぶやく。
その黒い瞳が見つめる先にある、一枚の絵。
キャンバスに描かれた幼い兄弟が、無邪気に微笑んでいた。