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すべての論理が届かぬ地にて

作者: カール

——言葉が、届かなかった者たちのための記録小説。


かつて公立中学校で言葉の意味が通じず、思考と論理が踏みにじられた経験を持つラザル・Kは、大人になったある日、廃校となったその場所へと戻る。

目的はひとつ——「届かなかった言葉たち」を拾い上げ、記録すること。

序章「この声は届かない」

 


 この声は、誰にも届かない。

 最初から、そんなふうに設計されているのだと思う。

 つまり僕の声は、壁の向こうにいる人間には届かないし、たとえ届いたとしても、それが“意味”として受け取られる保証はどこにもない。


 


 廃校の門をくぐったのは、雨上がりの火曜日だった。

 空は薄曇りで、風はないのに風の音がしていた。

 僕の足音だけが、濡れたアスファルトに吸い込まれて、何か大事なものが過去から少しずつ抜け落ちていくような感じがした。


 


 僕はここで生まれ、ここで壊れた。

 そして今、ここに戻ってきたのは、**“通じなかった言葉たち”**を拾い集めるためだ。

 記録者として。敗者として。あるいは、もう一度誰かと語るために。


 


第1章「死んだ中学校」

 


 中学校の建物は、死んでいた。

 まるで巨大な哺乳類の死骸みたいに、白く、無表情で、ただそこに横たわっていた。

 窓はすべて割れており、校庭には雑草と空き缶が混ざり合っていた。


 


 僕はゆっくりと玄関をくぐる。

 かつて毎日通っていた道だが、今は床の軋みひとつにも意味があるように感じられる。

 廊下の壁には、ひび割れた掲示板が残っていた。もう誰も読まない通知と、「清掃当番」の表だけが色褪せずに貼られている。


 


 僕は、教室の扉を開ける。

 かつて“言葉が死んでいた”場所。

 あの頃の僕は、たぶんまだ信じていた。

 「話せば分かる」「説明すれば伝わる」――そんな教育テレビ的な信仰を、だ。


 


 でも違った。

 あの空間では、言葉はただの暴力だった。

 「殺すぞ」「死ねよ」「マジで意味不明」「黙ってろ」


 それは音の連続だったが、意味の断絶だった。

 僕はそこに“言語”がなかったことを、今でも鮮明に覚えている。


 


 ある日、僕は国語の教師にこう言った。

 「先生、比喩は“他者がいる”って前提がないと成立しません」

 教師は僕を見て、苦笑して、「難しいことはテストに出ないぞ」と言った。


 その瞬間、僕はなぜか冷めたスープのような気持ちになった。

 それは絶望ではなく、単なる“温度の消失”だった。


 


 ここは中学校じゃなかった。

 これは、言語を模した何か――ただの「音の出る箱」を詰め込んだ訓練場だった。


 


第2章「触れるかもしれない言葉」

 


 旧図書室に行こうとしたとき、僕は彼女に出会った。

 階段の中段に座って、何かをノートに書いていた。

 夕方の光に照らされ、髪の影がノートに落ちて、まるでそのページ自体が考えているように見えた。


 


 「……君、誰?」


 僕の問いに、彼女はすぐに顔を上げた。

 驚きもせず、警戒もせず、ただ静かに観察するような目だった。


 


 「あなた、“届かない言葉”を集めてる人でしょ?」


 


 それは、あまりにも正確な言葉だった。

 僕が今まで誰にも説明できなかったことを、彼女は一行で言い当てた。


 


 「……ああ、たぶんそうだ」


 「私も、書いてるよ。届かないやつばっかり」


 


 彼女は自分のノートを僕に見せた。

 そこには、こんな文が書かれていた:


 「私は、通じない言葉でしか、自分を守れなかった」


 


 僕は、何も言えなかった。

 久しぶりに、誰かの言葉が、言葉として“届きかけた”瞬間だった。


 


 「名前は?」


 「ナナ」


 


 ナナ――その響きは、短く、静かで、まるで音楽の休符みたいだった。


 この出会いが、何かを変えるかどうかはわからなかった。

 でも、ほんの一瞬でも、言葉が“触れた”気がした。



第3章「思考の欠片を集めて」

 


 ナナは、廃校の図書室を“思考の墓場”と呼んでいた。

 彼女は週に数回、そこへ通っては、かつて置かれていた図書カードの束を並べ直していた。


 「ここ、みんなが“考えようとして諦めた場所”だよ」


 


 彼女が言ったとき、僕は少しだけ身震いした。

 その言葉の正確さに。

 ここにあった本のほとんどは――誰にも読まれず、カビに負け、沈黙に吸収された。


 


 僕たちは、そこから記録を始めた。

 使われなかったノート、落書き、古い黒板消しの裏、誰かのプリントの余白。


 ナナはそれらを“断片”と呼び、僕は“未遂の意味”と呼んだ。


 


 ある日、彼女が古い机の中から一枚の紙を見つけた。

 そこには走り書きでこうあった:


 「もうダメ。話しても何も変わらない。俺の中には、誰も入ってこない」


 


 僕たちはその文字を、そっとノートに写した。

 まるで風化しそうな骨を丁寧に拾うように。


 


 それから数週間、僕たちは誰のものともわからない記録を集め続けた。

 それらは全部、未完で、傷ついていて、でも――**“確かに言葉であろうとした痕跡”**だった。


 


 「ねえ、K。届かない言葉って、どこに行くと思う?」


 「消えるんじゃない。ただ、聞く者がいなかっただけさ」


 


 ナナはその答えに、ほんの少しだけ、笑った気がした。


 


第4章「届かないという自由」

 


 ナナは少しずつ変わっていった。

 彼女の言葉は、以前よりずっと強く、でも遠くなった。


 


 「ねえ、K。あたしね、届かなくていいかもしれないって思い始めたの」


 


 それは不意に刺さる言葉だった。


 


 「届かないってことは、壊れないってことでもあるでしょ」


 「……壊れるのが、怖い?」


 「ううん。壊されるのが、もう嫌なの」


 


 僕は何も返せなかった。

 彼女が“届くこと”に希望を持たなくなったのだとしたら、僕の問いはすでに敗北していた。


 


 言葉は届くことで、形を持つ。

 でも、それは同時に、傷と暴力を引き受けることでもある。


 彼女がそれを避けるなら――それは彼女の自由だ。

 届かないという選択。届かないという防御。届かないという静寂。


 


 僕たちは言葉を集めてきた。

 でも、それを“意味として再構成する”ことが、果たして正義だったのか。

 そこには、ずっと疑問があった。


 


 「ナナ。君が届かないままでいたいなら、それでいい」

 「でも、もし一言でも、誰かに渡してみたいと思ったら――その時だけは、俺に渡して」


 


 彼女は頷いた。

 そして、僕の手に紙を一枚渡した。


 


 「届かないと思っていた。でも、あなたには渡してみてもいいかもしれない」


 


 そこに、すべてがあった。


終章「それでも語るということ」

 


 春が来た。

 廃校の屋根に、鳥が巣を作っていた。

 風が強く、空は青く、そして静かだった。


 


 ナナはもう来なくなった。

 理由はわからない。ただ、ある日を境に現れなくなった。

 彼女のノートだけが、図書室の机の上に残っていた。


 


 僕はノートを読み返した。

 そこにはたくさんの“届かない言葉”が、丁寧に並んでいた。


 


 誰かに伝えるためではなく、自分を見失わないために書かれた言葉たち。


 傷、恐れ、皮肉、沈黙――

 すべてが、どこかで“理解されることを諦めていない文字”だった。


 


 僕はそのノートを、そっと閉じた。

 そして、表紙にこう書き足した。


 「語られなかった言葉たちへ――それでも、あなたたちは語っていた」


 


 届かない言葉も、残る。

 届かないまま、誰かを形作ることもある。


 


 僕はまた歩き始めた。

 言葉は届かないかもしれない。

 でも、語ること自体が、人間である証拠なのだ。


 


 そして今、君がこの物語を読んでくれたなら――

 それは、たった一度だけ“届いたかもしれない”という奇跡なのだと思う。


 


 そう信じても、いいだろう?


 


 ラザル・K

この物語は、実のところ、僕自身への手紙だったのかもしれません。

過去に置き去りにしてきた“届かなかった声”たち、

意味にならなかった問い、伝わることを諦めた言葉たちへ――

ようやく「書く」という形で返事ができた気がします。

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