第69話 眠りに誘う夜のよう
「おい朧、本当に大丈夫なのか?」
「当たり前だろ? オイラを誰だと思ってるんだ?」
「あまり無理はしないでよ? 心配するのも疲れるんだから」
「ありがとな、嬢ちゃん。でも、本当に大丈夫だぜ」
ついさっきまで全身が半透明になって、今にも消え入りそうだった朧は、そう嘯きながら立ち上がった。
ふらつく様子はないし、表情もはっきりしてるから大丈夫そうだけど、でもまだ心配だな。
「ほら、俺が抱っこしてやるから、こっちに」
「だぁぁぁぁ!! しつこいなぁ! 大丈夫だって言ってんだろ!? ちょっとはオイラを信用しろってんだ」
「そっか、じゃあ大丈夫だね」
「そうだな」
「いや、信用しろって言ったのはオイラだけど!! 違うじゃん!! そこはもうちょっと……」
「だって、信用してるから」
「ぐっ……」
赤くなった目元を拭いながら、悪戯っぽい笑みを浮かべるマリッサを前に、朧は言葉を濁した。
「と、とにかくだ! 今はこんなこと言ってる場合じゃないんだろ?」
調子を取り戻そうとしてるのか、朧はそう言って辺りを見渡す。
確かに、彼の言う通りだな。
「そうだな。取り敢えず、あのでかい月が放ってる光を何とかしないといけないんだけど……なぁ朧。ちょっと月まで行って光を弱めて来てくれよ」
「んなことできるワケねぇだろ? ったく、オイラを何だと思ってるんだ」
「ねぇハヤト。月の光を何とかしなくちゃいけないって言うのは、本当なの?」
「うん。それは本当だ」
「そっか。ってことは、皆が倒れてるのはやっぱり、光の魔素が原因なんだね」
「良く分かったな。で、地龍が言うには朧がみんなを助ける鍵らしいんだけど」
「朧が鍵? もしかして。朧と闇の魔素に何か関係があるってこと?」
なんで分かるんだよ。
さすがは群青の魔女と言うべきか。
いやまぁ、マリッサは俺達よりも魔素とか魔術とかに慣れ親しんだ世界に住んでたんだから、当たり前っちゃ当たり前だよな。
問題はむしろ、朧の方だ。
彼は俺と同じ世界の住人だから、自分が鍵だと言われても何をすればいいのか分かって無い可能性が高い。
そもそも、俺が朧と同じような普通の猫だったら、何もできないと喚く自信がある。
こればかりは、俺達も協力して、手立てを探すしかないか。
「なぁ朧。闇の魔素を操ったりとか」
「安心しろよ、ハヤト。オイラ、なんとなく分かってるからよ」
「朧? もしかして何か知ってるの?」
「まぁな。皆にはずっと黙ってたけどよ、オイラ、カラミティより前から普通の猫じゃないんだ」
「は?」
「人はオイラを、化け猫とか猫又とか呼んでたぜ? それも、
ハヤトが生まれるずっと昔からな」
「ねこまた?」
「ちょっと待て、朧。それは一体どういう意味だよ?」
「なんだハヤト、お前さん、オイラのことを何だと思ってたんだ?」
「マジかよ……」
信じられん。
いやまぁ、言葉を話す時点で普通じゃないって分かってるんだけどさ。
それはあくまでもカラミティのせいでそうなったんだとばかり思ってた。
違うのか。
でもまぁ、いまさらそれで何かが変わる訳じゃないよな。
それに、朧が普通の猫じゃないって分かれば、色々と腑に落ちることもあるし。
「どおりで、人間の事とか良く知ってる猫だなぁとは思ってたけど、そういうカラクリだったのか」
「まぁな。そんなことはさておきだ。さっそく本当のオイラの力を見せてやろうじゃねぇか」
そう言った朧は、スタスタと軽快な足取りで空港の外に向かって歩いて行く。
「おい、どこに行くつもりだ?」
「ちょっと月の光を浴びようと思ってな。月明かりに照らされる黒猫って、映えるだろ?」
「映えるって……そんなこと気にしてる場合じゃ」
呆れながら朧の元に寄ろうとした俺は、目の前で起き始めた異変に気が付いて、思わず足を止めた。
崩れかかった空港の壁から差し込む月明かり。
そんな光が朧の身体に触れると、まるで霞がかかったように彼の姿がぼやけ始める。
ぼやけたまま、見る見るうちに巨大になって行く朧の影が、瞬く間に空港の天井付近まで到達したかと思うと、急に膨張は止まった。
見上げる程巨大な黒猫の影。
空港の壁際にそっと腰を下ろしたその影は、俺達を見下ろしながら語り掛けてくる。
「ハヤト。オイラはマジで、お前さんのことを天才だと思ったんだぜ? だってオイラは、待ち続ける事しか知らなかったからな。待って待って、待ち続けて、ダメだったら隠れる。そうやってずっと過ごして来たんだ」
「朧?」
「そんなオイラに、お前さんは新しい場所に行くことを教えてくれた。そして今も、オイラが気づいてなかったことを、当たり前のように言葉にしやがるんだ」
ぼやけるシルエットのまま、そう告げた朧は、窓の外に視線を向けながら続ける。
「オイラにとっての居場所は、誰かにとっての居場所でもあって、その居場所に、オイラも含まれてるんだよな」
「何? どういう意味なの?」
困惑してるマリッサ。
彼女の気持ちは分からなくもない。
同時に、俺は朧の言いたい事も少しだけ分かる気がした。
「つまり、朧は皆のことが大好きだって言ってるんだよ。マリッサ」
「それは簡略化しすぎだろ!?」
「そうなんだ。珍しく素直なんだね、朧」
「2人して、オイラをからかうんじゃねぇよ! ったく、調子狂うぜ」
朧がそう呟いた直後。
彼を覆っていた霞が、一気に薄れていく。
そうして姿を見せたのは、すっかり変貌を遂げた朧だ。
背丈は十数メートルはあるだろうか。
巨大な2本の尻尾を大きく振りながら、凛々しい眼差しを走らせるその姿からは、元の可愛らしい面影は感じられない。
「どうだ、驚いただろう?」
得意げに言う彼の眼は、まるで満月のように黄色く輝いている。
その瞳はまるで、雲間に見える朧月のようで、俺は思わず感嘆した。
そうしている間にも、彼は動き始める。
煌々と照り付ける月明かりの下、朧の足元から伸びる無数の影が、空港を覆い尽くす。
まるで、眠りに誘う夜のように。
そんな闇に囲まれた俺とマリッサは、少しだけ目配せをした後、その闇に身を任せたのだった。