第1話 変わってしまった世界
「会社も日本も何もかも、全部無くならないかなぁ」
時刻は深夜、自室のベッドに仰向けに横たわりながらそう呟いたのは、紛れもなく俺だ。
名前は茂木颯斗。しがないサラリーマンをやってる。
今日もいつもと同じように、お客様の接待飲み会を終えて、家に帰り着いたわけだ。
ネクタイのせいで首が苦しい。でも、着替える元気は残ってない。
それに俺は知ってる。
着替えたところで、この息苦しさが消える事なんて無いんだよな。
このまま眠ってしまおう。
眠っている間だけは、この喉につかえてる何かのことを意識せずに済むからな。
そう思って微睡んでから、どれくらいが経ったんだろうか。
気が付いた時、俺はベッドの上から放り出されてた。
仰向けに寝てたはずなのに、いつの間にかうつ伏せに寝返りを打ってしまったらしい。
っていうか、寝返りを打ってベッドから落ちたってところかな。
まぁ、そんなことはどうでもいいや。
とにかく、この固い床のせいで痛む右頬を労わるために、起き上がった方が良いよな。
そうして、妙に埃っぽい床から顔を放そうと腕に力を入れた俺は、全身に痛みを覚えて悶絶した。
「っく……思ったより派手に落ちたみたいだな……」
ベッドの高さは大したことないはずなんだけど。
っていうか、ベッドから落ちたのに目を醒まさなかったってのは、我ながらヤバいだろ。
なんて思った俺は、ふと、左手の指先がどす黒く染まっていることに気が付く。
「ん……これは、血? は? え、どういう……」
呟きながら、指先にこびりついた血液に意識を集中しようとして、俺は視界に飛び込んで来た情報に気が付き始めた。
派手に倒れている本棚。
画面が粉々になったテレビ。
ボロボロと崩れている部屋の壁紙。
茫然とそれらを眺めながら、事態を把握しようと努めていた俺の後頭部に、爽やかな風が掛かる。
そんな風に引かれるように背後を振り返った俺は、崩壊した壁から見える満天の星空を目の当たりにした。
「は? 嘘だろ……?」
俺の部屋の壁が抉られるように崩壊してる。
どうしてそうなったのか、良く分からない。
1つ言えることは、その崩壊のせいで俺が寝てたベッドが真っ二つになったらしい。
「冗談だよな……? 地震でも起きたのか?」
それにしては、静かすぎる気がする。
もっと、サイレンの音とか人の声とかが聞こえて来ても良いはずだ。
「いや、ちょっと待て。そもそも、壁が崩れてどれくらい時間が経った? 救助隊に見つからないまま、置き去りにされたとか?」
ここでどれだけ考えても仕方が無いことだよな。
なにより、壁がこれだけ崩壊してるってことは、このアパート全体が崩れてもおかしくないだろうし。
「まずは、部屋から出るべきか」
思い立ったが吉日っていうし、俺はすぐに行動することにした。
幸い、手足は問題なく動く。
とはいえ、完全に無傷ってわけでも無かったらしい。
っていうのも、俺の左手にこびりついてた血液は紛れもなく俺の物だったらしい。
証拠として、俺の額には触れて分かる程度の傷があった。
後でしっかりと処置をする必要があるだろう。
玄関から部屋の外に出て、1階に降りれる階段に向かう。
ちょっとふらつくけど、建物から外に出るくらいはできそうだ。
あとは、これからどこに向かうかだな。
避難所とかがあるのか、それとも最寄りのスーパーとかに行くべきか。
なんてことを考えながら、階段を1段降りたところで、俺は思いがけないものと遭遇することになる。
「今はまだ、ここで大人しくしておいた方が良いと思うぜ」
「誰だ!?」
慌てて周囲を見渡した俺は、だけど、誰の姿も見つけることができない。
そんな俺をあざ笑うかのように、その声は再び声を掛けてくる。
「慌てるなって、ほら、そこの陰に隠れて外の様子を見てみろよ。そうすれば、オイラの言ってる意味が分かるはずだ」
「外の様子?」
降りかけていた階段から背後に視線を移した俺は、声の言う通りに部屋の前から外を覗き込んだ。
俺の部屋はアパートの3階にある。
つまり、俺が今いるこの通路も、3階にあるワケだ。
そんな通路からアパートの前の道を見下ろせば、ある程度の範囲は見渡せる。
声の主が何を言いたいのか、少しでも情報を集めようと視線を動かした俺は、すぐに気が付いた。
アパートの前の道を、何か小さな影が歩いている。
それも、1つや2つじゃない。
人間にしては細すぎるけど、2足歩行をしてるから犬とかでもない。
俺が知ってる限りで一番近いシルエットをもつ生き物は、猿とかになるかな。
まぁ、猿でもないような気がするけど。
「何だよ、あれ」
手に棒状の物を持っているそれらの影達は、そのまま道を歩いて去って行く。
その様子を見送った後、そう呟いた俺に、さっきの声が答える。
「オイラも詳しくは知らねぇ。でも、お前を助けてくれるって感じでもないのは、見て取れただろ?」
「それは、確かに」
灯りが無かったからよく見えなかったけど、奴らの動きはまるで、何かを探しているように見えた。
探していると言っても、救助隊のそれとは違う。
どちらかと言えば、そう、狩人のそれ。
「奴らはな、お前ら人間を狩ってるんだぜ。オイラ、何人も捕まえられる様子を見たんだ。間違いねぇ」
「人間を!? って、お前はそれをただ見てたって言うのか? 助けてやれよ!」
「ははは、冗談もほどほどにしてくれよ、オイラが人間を助ける? そんなの、無理に決まってんだろ。それに、お前さんでも助けるなんて出来っこないんだぜ?」
「直接は無理でも、誰か助けを呼ぶとか」
「それも無理なんだよ。まぁ、起きたばっかりのお前さんには、理解が追いつかないだろうけどなぁ」
「どういう意味だよ」
憤りに任せて声のする方に目を向けてみるけど、やっぱり誰も居ない。
この声の主は、俺をおちょくるつもりなんだろうか?
なんていう俺の疑問を知ってか知らずか、小さなため息の後に、再び声が聞こえてくる。
「この世界は変わっちまった。そういう意味だよ」
その声の直後、4階へと続く階段から、1匹の黒猫が姿を現した。
「おうおう、良い表情してるじゃねぇか。やっぱり、人間の驚く顔は面白いなぁ」
「んなっ!? 猫!? 喋ってる!?」
「まぁ、そういうことだ。1週間前、この世界が変わっちまった時から、猫は言葉を話せるようになったんだよ」
「マジかよ!?」
「まぁ、嘘だけどな。全ての猫が喋れるわけじゃねぇ。オイラが特別ってワケだ」
「……意味分かんねぇ」
言葉を失う俺を見て、どこか得意げな表情を浮かべた黒猫。
この時の俺には、その表情こそが、この世界が変わってしまったことを示しているように思えてならなかった。