06
――ロンドン市警察。
その署内で、一人の男が買っていたチャイニーズフードを食べていた。
仕事が忙しく、朝からコーヒーしか胃に入れてなかった彼はようやく一息ついていると、突然名指しで呼び出される。
渋々署内の受付のほうへと向かうと、そこにはあまり会いたくはない人物が待っていた。
たこ焼きカフェビアンキの店長――橘真奈美だ。
「マーク! ちょっと聞いてよ!」
マークと呼ばれた男――。
フルネームはマーク·グリーンノア。
この地域に900人はいると言われているロンドン市警察の警察官の一人だ。
「なんだ真奈美。またなんかやらかしたのか?」
真奈美の姿を見たマークは、うんざりした表情で彼女へと近づいて行った。
彼と真奈美の出会いは、彼女が桐花の通う学校に生徒になりすまして不法侵入したときだ。
校内に東洋人の女が制服を着て歩き回っていると通報を受けて、学校の近くを巡回していたマークが一人向かってみると――。
校内の物販付近で、明らかに成人した東洋人の女が中学校の制服を着て歩いていた。
「あっ! グットモ―ニングです!」
しかも目が合うと、ニッコリと笑顔で挨拶をしてくる。
「おいお前。こんなところで何をしているんだ……?」
「何って? 変なこと訊くなぁ。学校に授業を受けに来たに決まっているでしょ」
すっとぼけている真奈美。
いくら日本人が欧米人よりも幼く見えるからといっても、彼女が成人なのは明らかだった。
「ちょ、ちょっと!? あたしはこの学校の生徒ですよ!? 誰か~助けてぇ~!」
マークは「この女だ……」と思ってそのまま連行。
真奈美は警察署に連れて行かれるまで、自分は中学生だと言い続けていたが、取り調べでドーナツを差し出すとすぐに自白した。
それから柊が身元引受人としてやってきた。
真奈美の犯した罪は一応初犯ということと、単なる悪ふざけの部類に入れられ、すぐに解放される(実際学校側も、怪しい人物が桐花の保護者である真奈美だということは理解していたようだ)。
それ以来、真奈美は何かとマークに絡むようになっていた。
「違う違う。ココちゃんが帰って来ないんだよぉ!」
真奈美の説明がまったく足りていない言葉に辟易するマーク。
彼が真奈美を落ち着かせようとすると、その後ろにいた女性――エルメス·グラッドスト―ンの姿が目に入った。
エルメスが丁寧に頭を下げて、言いづらそうにここへ来た理由を説明した。
彼女の姪であるココ·グラッドスト―ンが、ここ数日間家に帰って来ないことを。
マークは大きくため息をついて、二人を署内にある部屋へと連れていく。
「本当ならこんなことはしないんだからな」とブツブツ言いながら、すっかり冷めてしまったチャイニーズフードを持って、二人を部屋へと案内した。
話はわかったが、家出くらいで警察は動かない。
マークは椅子に座るなり、真奈美を見つめながら言う。
「別に警察に頼んでないよ。あたしはマークにお願いしてるんだから」
「あのなぁ。俺は警察官だぞ」
「うん。知ってる。でも友達だから」
マークは二度目のため息をついた。
この日本人女性は、そこまで親しくない人間に図々しくも頼ろうとしている。
なんという厚かましさだと、マークは日本人女性のイメージを根本から覆されていた。
真奈美はそんな彼のことは気にせずに、街の至るところに仕掛けられている監視カメラ映像を見せてほしいと頼んだ。
「イギリスにはテレスクリーンがあるでしょ。さあ、早く見せて」
「そんなものはない。まったく『1984年』かよ。このロンドンには普通の監視カメラしかないぞ」
マークは、ジョージ·オーウェルの作品に出てくるテレビジョンと監視カメラを兼ねた装置が話に出てきたせいか、真奈美のことを独裁者みたいだと思っていた。
「それにお前たちに勝手に映像を見せたら、俺が首になってしまうだろうが」
「いいじゃん。警察を首になったらカフェビアンキで雇ってあげる」
マークは「ふざけるな」と言葉を返した。
彼は、この街を守るために幼い頃から夢見てきた職業に就いたのだと、真奈美に怒鳴り散らした。
だが、何故だろう?
怒鳴られた真奈美は、ニコッと笑みを浮かべている。
「小さい女の子ひとり守れないで、街を守ろうなんておかしいよ」
そう言われたマークは、表情を歪めながらも何も言い返すことができなかった。
そんな二人を見たエルメスが、クスクスと上品に笑い始める。
真奈美が嬉しそうに「やっと笑ったね」と言うと、彼女は二人のやり取りを見ていて、つい笑ってしまったと笑みを浮かべながら返した。
「真奈美……俺が首になったら責任とってくれよ」
それからマークは、二人についてくるように言うと、コソコソと署内を進んでいく。
途中で多くの同僚たちが、真奈美たちを連れている彼を見て「どうかしたか?」と声をかけたが、皆真奈美とマークの関係は知っていたようで、特に追及されることはなかった。
「なぜか真奈美には甘いんだよな、うちの署……」
ボソボソと呟いたマークは、内心で俺もかと一人笑った。
そして、それから監視カメラの映像が見れる部屋へと二人を案内した。
――真奈美たちがマークのいるロンドン市警察へと向かった後。
桐花は一人である路地裏へと来ていた。
そう――。
ココが囲われていた白い猫を、野良猫の集団から助けた場所だ。
そこには、真新しい犬猫用のフードボウルが置かれていた。
桐花はそれを見て、ココがここへ来ていたのだと確信する。
……やっぱりエルメス叔母さんに飼いたいって頼んだのは、あの白い猫のことだったんだ。
だからココがこの近くにいることは確実。
あたしたちくらいの子供が、そんなに遠くへ行けるはずもないからね。
桐花は、最近雑誌で読んだことを思い出していた。
……たしかスクワットって言ったっけ。
スクワットとは、空き家や空きビル、居住者が留守中の家屋などを無断で占拠することの呼び名だ。
2012年頃までイギリス、オランダ、ドイツなどの欧州諸国では、このスクワット行為そのものが合法であるとされてきた。
スクワットが広がった理由には、1960年から1970年代にかけて不動産オーナーが投棄目的でたくさんの空き物件を放置したために、住居のない若者たちが住み始めたのが始まりとされている。
それから時代の――ヒッピームーブメントや学生運動、そして1970年から1980年代にかけての反体制の労働者運動などの流れに伴い、社会的、政治的な運動として拡大していた背景がある。
……この近くの空き家や廃ビルなんかをしらみつぶしに探していけば、ココが見つかるかも。
桐花は早速その周辺を探し始めたが、それらしき建物を見つけることはできなかった。
それも当然だろう。
スクワットは、現在のイギリスでは立派な犯罪行為だ。
そのため多くの空き家や廃ビルは、とっくに撤去されてしまっている。
もう陽が沈みかけた頃、彼女が途方に暮れていると――。
「これすげえな。一体どうやって飛んでんだ?」
目の前をアメリカ風ヒップホップのファッションに身を包んだ白人たちが、大声で話しながら歩いてきた。
……日本にもだけど、このロンドンでもまだあんなのがいるんだ。
オーウェン·ジョーンズの『チャヴ弱者を敵視する社会』だったかな?
たしか、こういう人たちのことをチャヴっていうんだっけ。
チャヴとは、イギリスで使われているスポーツウェアを着た反抗的な若者についてのステレオタイプをあらわした蔑称だ。
もっと砕けた言い方をすれば、若年労働者階級のサブカルチャースタイルである。
桐花は関わりたくないので、目をそらして道を譲ると――。
「こんな小せえのによく飛ぶよな」
……あれってココが持っていたやつじゃ……?
その白人たちが持っていたのは、手のひらサイズのヘリコプターのようなピーチカラーの物体――小型ドローンだった。
白人の男たちは、二台の小型ドローンを弄びながら、ヘラヘラと大声で話を続けている。
「それにしてもよ。歩くのダルくねえ?」
「しょうがねえだろ。ロトのやつがスクーターじゃ足が付くとか言いやがるんだからよ」
「うちのボスは臆病者だからな」
もしかしたら単なる偶然なのかもしれない。
たまたまココと同じモノを持っていただけかもしれない。
だが、桐花は白人の男たちの後をつけ始めた。
白人の男たちは、そのままの音量でさらに話を続ける。
「そんな臆病者のロトがめずらしく躍起になってやがったな。グラッドスト―ンだっけか? あいつロリコンだったのか?」
「どうでもよくね? さっさとチキン買って帰ろうぜ」
「俺が言いてえのは金になんのかってことだよぉ。あんな子供攫ってきてよぉ」
……グラッドスト―ン!?
間違いない、こいつらがココを攫ったんだ。
それから桐花は、ポケットに入れていたスマートフォンを操作すると、そのまま彼らと距離を取りながら後をつけていった。