05
――学校の休日。
カフェビアンキを柊に任せて、桐花は真奈美と一緒に店の材料の買い出しに出ていた。
その帰りに、急にトイレに行きたくなった真奈美のために近くにあった公園へと向かう。
だが、すぐに戻ってきた真奈美。
どうやら、公園のトイレにはカギがかかっていて使用できないようだ。
「もう、なんで使えないの~!」
真奈美は、縮こまってモジモジと身をよじらせる。
イギリスでは日本とは違い、公園にトイレはあるが、土日にはカギがかかっている確率が高い。
飲食店や駅構内などにもトイレはあるが、前者は断られることが多く(客ではない者は)、後者は有料だ。
これはイギリスだけでなく、欧州全般でいえることなのだが、公然でのトイレの数が極端に少ないのだ。
「こうなったらそこらの茂みで」
「ちょ、ちょっとそれはマズイよ!?」
隠れてしようとする真奈美を止める桐花。
二人は、以前にあまり治安のよくないといわれるロンドン南部の地区で、大通りを歩いていた若い女性が突然路地裏に入り、しゃがみ込んでズボンを下ろし始めたのを見たことがあった。
桐花はそれを見て驚いたが、真奈美が興奮し始めたので不快な気持ちを抱いた。
いわゆる立ち小便というやつ? なのだが、イギリスでは犯罪ではない。
「もうダメ~漏れちゃうよぉ~!」
二人はしょうがなく近くにあったレストランに入ることに。
店内に入ると、すぐにトイレに向かった真奈美を待ちながら、桐花は頼んだココアを飲む。
……まったく子供じゃないんだからさ。
そして、どっちが保護者かわからないと思っていた。
すっきりした顔をして真奈美が戻って来ると、彼女はロンドンパブの定番メニューフィッシュアンドチップスとチーズポップシュリンプを注文した。
「今から食べると晩ご飯が入らなくなるわよ」
「いや~出すもの出したらお腹減っちゃって」
右手を頭に当てておどけてみせる真奈美。
それから彼女は、ドリンクを忘れていたことを思い出し、桐花と同じくココアを頼んだ。
しばらくして店員が持ってきたココア、フィッシュアンドチップス、チーズポップシュリンプがテーブルに置かれた。
真奈美はそれらを次々に自分の口へと運んでいく。
「桐花ちゃんも食べて食べて。一緒に食べたほうがおいしいからね」
だが、桐花は首を横に振って断った。
いつも冷静な彼女なのだが、今日は特に素っ気ない。
真奈美はそんな桐花のことが気になったのか、元気がないことを心配そうに訊いた。
「別に何かあったわけじゃないけど……。ココが最近ずっと休んでいるから」
力のない声で言う桐花を見て、真奈美はニッコリと微笑み、チーズをたっぷりとつけたシュリンプを頬張る。
「ココちゃんのことが心配なんだね。桐花ちゃんはやっぱり優しい!」
「……別に普通よ。それよりも次からはちゃんとトイレのことも考えて、出かける前から飲み食いの加減には気をつけなさい」
「そして厳しい!」
声を弾ませて言う真奈美。
桐花は、いつものことだと大きくため息をつくしかなかった。
――それからカフェビアンキに戻った二人。
店には見慣れない白人女性が、カウンター席に座って柊と話をしていた。
その表情は、とても深刻なことを話しているように見える。
近づく真奈美と桐花を見た白人女性は、突然カウンター席から立ち上がった。
「すみません。ココがどこへ行ったわかりませんか?」
丁寧な物腰で訊いてきた女性に、二人は戸惑っていると――。
「この人はエルメス·グラッドスト―ン。ココの叔母なんだってよ」
柊が白人女性が何者なのかを教えてくれた。
それから白人女性は丁寧な物腰のまま、静かに声を出す。
「実は……数日前からココが帰って来ないんです」
それを聞いた桐花は、持っていた材料の入ったビニール袋を床に落としてしまった。
「ごめんなさい……」
桐花が落としてしまったビニール袋の中身を拾っていると、柊もそれを手伝う。
その横で――。
ココの叔母であるエルメス·グラッドスト―ンに、真奈美は何か帰って来ないことに心当たりはないかと訊いていた。
エルメスは表情を曇らせ、話を始める。
なんでもココが捨てられた野良猫を飼いたいと言ってきたのだが、エルメスとココが暮らしているアパートでは動物を飼うことが禁止されていた。
そのため、無理なことを伝えるとココは家を飛び出していってしまったのだと言う。
「私が悪いんです……。もっとあの娘が納得できるように説明してあげればよかったのに……いえ、できることなら飼うことができるように努力するべきだった……」
俯きながら言うエルメス。
彼女の話では、ココは一緒に暮らすようになってからワガママ一つ言わず、家での態度も学校の成績も良く、あまり手のかからない子だったようだ。
だから猫を飼いたいと言った頼みくらいは、なんとか聞いてあげるべきだったと、彼女は後悔していた。
今にも泣きだしそうなエルメスに、柊がそっと暖かいコーヒーを差し出す。
彼女は「そんな悪いですよ」と言ったが、真奈美がニッコリと微笑んでサービスだと言った。
エルメスは「ありがとう」とお礼を言うと、出されたコーヒーにミルクを入れ、ゆっくりと飲み始める。
「柊さんって、いろいろ気が利きますよね」
「そうかぁ? こんくれぇ普通だよ」
桐花が柊に感心して声をかけると、彼はどうでもよさそうに返事をした。
彼は普段から突っ張った態度やぶっきらぼうな物言いなのだが、やることはいつも紳士だった。
桐花が思う。
……悪ぶった男って大嫌いだけど、柊さんはちょっと違うよなぁ。
ギャップなのかな?
初対面の印象は最悪だっただけに。
なんにしても人って見かけによらないものよね。
「それで、警察には言ったんですか?」
真奈美がエルメスに訊くと、すでに警察には探してもらえるように頼んだのだが、どうもあまり相手にしてもらえていないようだった。
事件性がないただの一般人の家出に、いちいち警察が動いてられないのはどこの国でも同じだ。
それを聞いた真奈美は、もう一度警察署へ行こうと言い出した。
「おいおい、そう何度言ったって連中が動いてくれるわけねえだろ」
柊がそう言うと、真奈美は警察には友達がいると言って、その人に力になってもらえるように頼んでみると返した。
「いつ警察官の友達なんてできたんだよ?」
「ふふ。こないだ連れて行かれたときに仲良くなりました」
「ああ……学校に制服着て紛れ込んだときの話か……」
柊は、真奈美が桐花とココが通う学校に女子中学生の格好をして侵入して捕まったときのことを思い出していた。
不法侵入者として捕まった真奈美だったが、身元引受人として柊が警察署へと行くと、何故か和やかな雰囲気で迎えられた。
外国人――自国の者ではない人間が警察の厄介になったということで、それ相応のペナルティを覚悟していた柊だったが、どうもそんな感じではなかった。
なんと真奈美は、警察官たちと仲良くドーナツを食べながら世間話をしていたのだ。
そのときに知り合った人間に頼むのかと、柊は思っていた。
「よし、善は急げです。さっそく行きましょう」
そして真奈美は、エルメスの手を掴んで、カフェビアンキを出て行った。
その後――。
桐花はエルメスの話で、あることを思い出していた。
……ココが言っている猫って、あのとき助けた子だよね。
じゃあ、その近辺にいるのかも。
「おい、帰ってきてそうそうどこへ行くんだよ?」
柊が黙って出て行こうとする桐花に声をかけた。
だが、彼女は「ちょっとそこまで」と言って、そのまま出て行ってしまった。