03
プイっと顔をそらしている桐花を見てから、真奈美は視線を客席へと移す。
雑談をしているのはいつものことだが、今は仕事中ということもあり、やはり気は抜いていない。
真奈美が何かに気がついたのか、突然冷蔵庫からバニラアイスを皿に盛りつけてテーブルへと向かった。
桐花は注文もされていないのに、どうしてだろうと疑問に思った。
それを見て、さっきから雰囲気が暗かった客の席だと桐花へ言う柊。
真奈美は手に持ったバニラアイスをテーブルへと置き、一人で俯いていたお客さんに笑いかけている。
「サービスですよ!」
真奈美の弾んだ声が店内に響く。
すると、まるでカーテンが開かれた部屋のように、パッと雰囲気の暗かったテーブルの空気が明るくなった。
「やっぱすげえわな、真奈美は」
柊が感心した様子で乾拭きした皿を並べながら言った。
顔立ちだけなら真奈美よりきれいな女性はたくさんいるが、彼女には言葉にはできない華やかさがある。
それは桐花や柊が出会ったときから変わっていない。
真奈美が微笑むと、不思議とあたりが明るくなるーーそれはここロンドンでも同じだった。
……天賦の才ってやつかな。
残念だけど、あたしにはけっして手に入りそうにないわね……。
真奈美に優しいと言われた桐花だったが、彼女のほうが余程だと思ってその様子を見ていた。
戻ってきた真奈美が、柊へ休憩してきてと言うと、彼は店を出て煙草を吸いに行った。
そして、皿を洗い始める真奈美。
桐花はうなだれた姿勢のまま、そんな彼女をじっと見ていると――。
「どうしたの桐花ちゃん? 何か気になった?」
「あたし……何も言ってないけど」
「あたしが知らないとでも思った? ほら、有名な諺に、目は口ほどに物を言う、っていうのがあるでしょ」
桐花の視線から何か感じ取った真奈美が、先ほどの柊と同じように乾拭きをしながら言った。
だが、桐花は力のない声で「本当に何でもない」と返した。
そんな彼女を見ながら真奈美は、微笑みながら話を始める。
ピーチカラーの髪色をしたツインテールの少女――ココ·グラッドスト―ンのことだ。
真奈美が客から聞いた話によると、彼女――ココの両親はすでに亡くなっている。
今は遠い親戚の叔母のところに住んでいるらしい。
「じゃあ、ココの家族はもういないんだ。真奈美やあたしと一緒ね」
悲しそうに言う桐花に、真奈美が言葉を返す。
どうやらココには年の離れた姉がいるようだ。
ココの姉は有名な生物学の学者で、仕事で海外へ行っている。
桐花はその話を聞いて、だから彼女は、成績優秀だった姉に負けまいとして張り合ってくるのか、と思った。
「おい、またやられたらしいぜ」
柊が苦い顔をして、外から戻ってきた。
彼の話によると、店の近くでひったくり――強盗事件があったそうだ。
桐花が、警察は来ているのかと訊ねると、柊は首を横に振った。
イギリスの警察は、ひったくりや強盗ぐらいでは出動はしない。
軽犯罪はあまりにも数が多過ぎて、とても全部捜査していられない状態になっているからだ。
そのため、万引き、車上荒らし、スリ、不法侵入などで貴重品やお金を取られても被害額8000円以下では捜査対象にすらならないのだ。
「見ている野次馬に訊いたら、最近ここらで暴れてるスクーターギャングって連中の仕業だってよ」
スクーターギャング――。
オートバイなどの二輪車でひったくりや強盗に及ぶ集団。
2018年頃からイギリスで社会問題になっている犯罪者グループのことだ。
彼らは、単にスクーターに乗りながら強盗するだけではない。
手には銃や刃渡り三十センチを超える鉈を持ち、信号待ちの車の窓を割って貴重品を強奪したり、ピザの配達人や歩行者を殺害し携帯や貴重品を奪う。
高価そうなアクセサリーは首や手からもぎ取る。
手段が荒っぽいやり口だ。
「怖いわね……」
桐花がそう言うと、真奈美が豊かな胸を張って、そこへドンッと自分の手を叩きつけた。
「大丈夫だよ。桐花ちゃんはあたしが守るから。それに今は柊さんもいるしね」
「おいおい、犯罪者集団を相手に俺を巻き込むなよ。お前らに何かあっても俺は助けたりなんかしねえぞ」
「またまた~頼りにしてますよ、柊さん」
顔を引きつらせている柊の背中を、バシバシと叩きながら言う真奈美。
筋肉でガッチリとした彼の体が良い音を鳴らしている。
かなり強く叩いているのだろう、正直痛そうだ。
……まあ、柊さんはよく知らないけど、真奈美がいれば大抵のことは心配いらないわね。
叩くのを止めるように言う柊と、それでも続けている真奈美。
そんな二人を見ながら、桐花はクスッと笑ってしまっていた。
廃れたパブで白人の若い男たちが集まっていた。
明らかに彼らの持ち物ではないであろうバックや財布を開けて、その中身を確認している。
その店には店員が一人。
やる気なさそうにカウンター内にあるノートパソコンの画面をボ―と眺めていた。
男たちが手をあげて、アルコールを注文する。
店主はかったるそうに、イギリスのビール――ロンドンプライドをテーブルに置いた。
「なんだよ。シケてんな」
男たちがバックや財布の中を見て、不機嫌そうに言った。
彼らはロンドン周辺で活動している強盗集団――スクーターギャングだ。
先ほど確認し終わったばかりのバックや財布の中身を取り、店のゴミ箱へと投げ捨てる。
そして皆、テーブルに置かれたロンドンプライドを持ち、コップには注がずに瓶のまま飲んでいく。
「なあロト。もっとデカく稼ごうぜ」
男たちの一人がそう言うと、次々に同じような言葉を続け始めた。
このスクーターギャングのリーダーであるロト·ウォーターウッドが、彼らの言葉を聞いて顔をしかめる。
「ダメだ。あまり派手にやるとすぐに見つかっちまう。最近の警察のやり口は知っているだろう? あいつらはこっちを殺すつもりで突っ込んでくんだぞ」
オートバイなどの二輪車でひったくりや強盗に及ぶ「スクーターギャング」と呼ばれる集団が問題になっているのもあって、ロンドン警視庁が対抗してある対策を導入した。
それはパトカーを体当たりさせるという、ある意味シンプルな方法――スクーターの背後からでも正面からでも体当たりするというものだ。
世間的には安全を考慮し、特別に訓練されたドライバーのみで行っていると言われているが、ぶつけられる彼らからすれば、命を落とす危険があるやり方だと思われても仕方がないことだった。
ロトはそう言うと、ビールには手をつけず、店員にフィッシュ&チップスとトマトジュースを頼んだ。
運ばれてきたフィッシュ&チップスを勝手に食べ始める男たちを見て、ロトは内心苛立っている。
……これだから下層階級は。
彼ら――スクーターギャングはイギリスの階級制度でいう下層階級の者たちだった。
下層階級は社会の中で最も低い階級。
失業者や、通常の教育を受けていない非常に貧しい者たちが多く、中には文盲――無学で読み書きができない者もいる。
彼らの多くは、ホームレス、または貧困者収容施設で生活をしていた。
そして将来的に就ける仕事は、清掃員、トラックの運転手、介護職など低賃金のものしかない。
下層階級の出身者が社会的に成功をするためには、ミュージシャンかサッカー選手になるしかないと言われているくらいだ。
そして、そこからこぼれ落ちた者たちの多くは、犯罪者となって生計を立てている。
……俺はなんでこんな馬鹿な連中といるんだ。
いつからこうなった?
どこで間違えたんだ?
彼らのリーダーであるロトは中流階級の出身だ。
中流階級の人々は、医師、エンジニア、会計士のような専門職に就き、良い教育を受けていることが多い。
中流出身者の大半が上流階級の者とは違い、土地の所有者や称号を持つ人々ではなかったが、下層階級の者たちと比べて快適な生活を送れている。
はずだったが――。
……ぜんぶ親父とお袋のせいだ。
あいつらが仕事を無くさなければ、俺はこんな寂れたパブで盗んだ金を数える必要なんてなかったんだ。
ロトの家は裕福だったが、社会保障制度の改悪、EU離脱などもあり、経済的に不安定なためか両親が失業してから一気に落ちぶれてしまった。
その後に、工場や肉体労働の仕事で働かなければいけなくなった彼は、どの仕事も続かなかった。
成績が良かったプライドもあったのだろう。
優秀な自分が何故こんな猿でもできる仕事をやらなければいけないんだ。
そのことが、ロトの足を引っ張っていた。
仕事が見つからないことで、彼は家族と揉めるようになり、家を飛び出した。
頭の良かった彼は、口八丁手八丁で街のチンピラたちをまとめあげ、そして現在に至る。
「そういえばよ」
ロトが頼んだフィッシュ&チップスを食べ切った男が、手についたタルタルソースを舐めながら言う。
その話は、有名な生物学者――クロエ·グラッドスト―ンの妹がロンドンの学校に通っているというものだった。
それを聞き、俯くロト。
……クロエの妹か。
俺も落ちぶれなければ、あいつみたいになれたはずなのに……。
そしてロトは、ふと顔をあげた。
「おい、その子供はどこの学校に通ってんだ?」