第一章 4
目的は果たした。
「戻りますか?」私は、ベルさんに言った。
「そうだね」
エレベータで降りた。
一階のフロアにも人が沢山いる。
「魚みたいだったね」ベルさんが言った。
「どういう事ですか?」私はきいたが、答えは返ってこなかった。
後は、ステーションに戻るだけだ。思ったよりも早くコンタクトが取れた。これで、シンジュさんの捜索も進むだろう。
私たちは、出口に歩いている。私たちの右斜め前から出口に向かっている女性が一人いる。また、この建物に入ってくる人もいた。今のペースだと出入口で四人が詰まりそうなので、歩くペースを落とした。スカイラインを含めた道路を走る全ての車は、コントロールされているので、どこかで詰まるなんて事はない。完璧な制御下で走っているからだ。
「他に見るとこが無いなら、ここで離脱してもいいよ」ベルさんが言った。
「ステーションに戻さなくていいんですか?」
「離脱しても、勝手にステーションに戻る事は出来るんだよ。エンプティは、人がダイヴしていない状態でも、簡単な命令に従う事なら出来るから」
「鳩みたいですね」
「ロボットだけどね」
悲鳴が聞こえた。
咄嗟の事に固まってしまった。
走り去る人影がある。
その場に蹲る人。
それは、私たちの目の前の出入り口でおきた。
あの二人だ。
私たちの少し斜め前を歩いていた人と、外から入ってくる人が出入口で出会い、そして、外から来た人が走り去った。
周りの人たちは、蹲る人を囲う様に立ち止まって見ている。現場から離れている人は、少し覗く様に見るだけで元の行動に戻った。
私は、蹲る人の元に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」私はしゃがんで声を掛けた。えっと、確か、翻訳機能があったはず。指を結んで、言語を中国語にした。私の口から中国語で発音された。たぶん、大丈夫ですか、という意味だ。
その人は顔を上げた。まだ、怯えた顔をしている。その人が中国語で喋った。それが、殆ど同時に翻訳された音声となり聴こえた。
「私の鞄が盗られてしまった。あれは、大切な物です」と翻訳された。彼女は、走り去った人の方を指さしている。今は遠く離れた所にいる。そして、タクシーを止めようと手を挙げている。
この距離なら、まだ届く。
エンプティなら。
私は立ち上がった。
ハイヒールじゃなくて良かった。
「なにしてるの?」ベルさんの声。
今は、答えている時間がない。
早く捕まえないと。
走り出す最初の一歩目で、左肩に手が掛かった。
私は振り返る。
誰?
そこには、ベルさんがいた。
「なにするつもり?」ベルさんが言った。
「あの人を捕まえないと」私の声は、少し大きく早口だった。
「駄目だ」冷静な口調でベルさんは言う。
「邪魔しないで下さい」私は、ベルさんの手を振りほどく為に右手を動かした。
次の瞬間。
わけのわからない力によって、地面から五センチ程の所に、私の顔があった。両手は後ろで押さえつけられている。
後ろを振り返る。
ベルさんだ。
なにをしたんだ?
「どいて下さい」私は言った。
「どんな理由があろうと、エンプティが人間相手に危害を加える事は許されていない」
「でも、この人の大切な鞄が」
「仕方がない。でも、証拠の映像が残っているから、警察が捕まえるだろう」
仕方がない?
私の判断がもっと早ければ、こんな事には…。
「なんで…」舌打ちが出た。
「落ち着いた?」ベルさんの声。私の抵抗が無くなったからだろう。
「はい」
ベルさんは手を離した。
私は立ち上がる。
外を見ると、走り去った人も車も、見えなくなっていた。
「犯罪は見逃すのに、正義感が強いんですね」私はベルさんを睨みつけた。
「そう見える?」ベルさんは、フッと息を吐くように笑った。
「邪魔しなければ、今頃、全てが解決してました」私は、その笑顔で更に熱くなった。
「君が犯罪者になってね」
「どうして………。いえ。わかりました。すみません」私は、諦めようと努力した。でも、苛立ちは消えてくれない。
「一部のプロや世界ランカ以外は、人に対して危害を加えられない。もし、こういったケースがあった時に捕まえたいなら、世界ランカにでもなればいい。それが正当な手続きだよ。力の加減も知らない人が、身勝手な正義感で動いたら、相手を殺してしまう」
そう。それは正しい。
でも……。
「あの人は、困ってます」私は言った。
「困っている人なら、いくらでもいる。自分との距離を意識しても意味がない」
「私は、そんな事が出来ません」
ベルさんと見つめ合う。
数秒。
「………方法は二つある」ベルさんは、壁際の誰もいない方向へ歩き出した。「一つは、さっきも言ったように警察に任せる。この建物にも、街中にもカメラが溢れているから、逃げる事は不可能だ。証拠の映像も残っている」
「でも、それだと、何日も掛かるかも…」
「もう一つは」ベルさんは、遮るように言った。「一部のプロか世界ランカに依頼する。証拠さえあれば、彼らは動く事が出来る。ただ、依頼金額が、ぼったくりみたいなものだし、それを君が負担する理由もない」
「そんな人、いないじゃないですか」私はベルさんの背中に言う。
「いるよ」ベルさんは振り返る。
「どこに?」
「一応、ここに。あんまり有名じゃないみたいだけど」
「えっ?」意味がわからなかった。
でも、次の瞬間、膨大な情報が溢れてきて、全てが繋がった。
あまりにも情報が多すぎて、それをゆっくりと、整理する。
「もしかして、世界ランカ…」私はベルさんを見る。
私を取り押さえた動き。
ベルという名前。
世界ランク第七位に、国籍も所属も性別も年齢も思想も不明な人がいた。
「第七位のホワイト・ベル?」私は言った。
「うん」ベルさんは、頷いた。
「依頼します」私は考えるよりも先に喋っていた。「お願いします。捕まえてください」
「いいけど。金額は…」
「大丈夫です。早く」
「……。わかった。イオ」ベルさんは、ガラス越しに外を見た。
二秒。
「ここで待ってて」ベルさんは、振り向いて言った後、瞳を閉じた。
そして、ベルさんの体は、動かなくなった。
「ベルさん?」私の呼びかけにも反応がなかった。考え事をしているわけではなさそうだ。
ここにはいないのだ。
生きてはいない。
目の前のエンプティは、空っぽになってしまった。
ベルさんが離脱したわけだ。
どういう事だろう?
私は、蹲っていた人の元に駆け寄った。
この国の人だと思う見た目だ。年齢は十代後半。
「大丈夫ですか?」私は、この国の言語で話しかけた。
彼女は、落ち着きを取り戻している。
少しだけ、話をした。
鞄の中身よりも、鞄自体が、母親からのプレゼントなのだ、と彼女は言った。これまでも、大切に扱ってきたのだと。
周りの人たちは、日常に戻っている。
彼女だけが、理不尽の被害者なのだ。
「終わったよ」後ろから声がした。
チャイナドレスのエンプティが、そこにはいた。ベルさんが、また、ダイヴしたのだろう。
「どうやって?」私はきいた。
「隣の街まで移動していたから、そこのステーションのエンプティにダイヴして先回りしていた。犯人の身柄と荷物は、警察に任してある。あとは、この人が警察に出向いて、手続きを終えればいい」
「どうして、鞄を持って来てくれなかったんですか?」
「その権利は僕にはない。身柄を抑える所までだから」
「…わかりました。ありがとうございました」私は頭を下げた。
本当に早い仕事だ。
犯人の居場所をどうやって特定したのだろうか?
私と同じ様にハッキングが出来るのだろうか。でも、そんな時間があっただろうか?
「依頼金額だけど、時間が無くて説明をしていなかったのと、隣人だから、という理由で、まけて、百万円でいいよ」
「えっ?百万?」
「うん。サービスで」
急に現実的な問題が、私の前に立ちはだかった。