第一章 1
新しい生活にも慣れてきた。
といっても、今まで一度も入った事のない隣の部屋に、ネイビィ・ネオンという人物が住み着いただけだ。
彼女が来てから、既に二日が経った。荷物は、僕の部屋を経由しないと、彼女の部屋には運べない様で、昨日から何度も出入りがある。僕の部屋の荷物よりも、この二日間で運び込まれた荷物の方が多いだろう。荷物を運んでいるのは、エンプティだが、人間がダイヴしているわけではなく、オート操作だろう。ロボットと同じだ。ただ、外部の宅配業者に依頼しているわけではなく、外には漏れない独自のシステムだとは思う。恐らく、どこかの場所に配達してから、自分たちで運び込んでいるはずだ。そのルートから、自分の組織がわかるのではないかと、調べたことが過去にあったからだ。勿論、手掛かりはなかった。
「ネオンさんから連絡がありました」イオが言った。
「要件は?」僕は答える。
「話した事がある、とのことです」
「いいよ」
最初に会った時以来、ネオンとは会っていない。シンジュの奇行についての資料を読んだり、その捜索をしていたのだろう。
ネオンが何者なのかは、一切わからない。夕食の時に、ラムネにきいたが、答えてくれなかった。本人にきけ、という事なのだろう。
シンジュの奇行については、確かに無視する事が出来ない。でも、ネオンという異物を招いてまで、捜査する必要があるだろうか?仮に、ネオンの捜査能力が優れていたとして、隣で生活する必要があるだろうか?この疑問に対しても、ラムネに訊いたが「友達が欲しいとでも思った?」と返された。
この件は、どう終わるのだろうか?
今は、なにもわからない。
「ネオンさんが来ます」イオが言った。
「どうぞ」
扉が開く。元々、こちら側からは、鍵を掛けていない。その習慣がないから、今更変える気にもなれない。
「失礼します」ネオンが入ってきた。見た目は十代後半で、黒の髪を一部だけブルーに染めている。ショートヘアで小柄で愛嬌のある笑顔で挨拶をした。右手に小さな箱を持っている。
「これ、ケーキです。良かったら一緒に食べませんか?」ネオンは、右手の箱を少し持ち上げて言った。
「ああ、ありがと。コーヒーでいい?」僕は、立ち上がった。
「私が用意します」
「僕の方が近い。あと、慣れてる。そこに座っといて」僕は、テーブルを示した。
ネオンは小さくお辞儀をして用意に取り掛かった。
キッチンは、ネオンやラムネの部屋がある壁とは、対面の壁にある。その壁には、ドアが三枚あり、左からキッチン、トイレ、バスルームだ。この部屋には、ドアがあと一枚だけある。それが、配達で何度も開いている扉で、ラムネの部屋を左、キッチンを右に見た時に、正面の壁の左側に位置している。そのドアは、この部屋では一番大きく、ある程度の大きさの荷物でも、組み立てたまま中に入れる事が出来る。車一台なら、そのまま入るだろう。
キッチンに入ると、予め用意していたカップに、二人分のコーヒーが淹れられていた。イオが、僕とネオンの会話を聴いて、準備してくれていたのだ。
部屋に戻ると、ネオンは、ケーキの入った箱を開いたとこだった。
「早いですね」カップをテーブルに置いた僕に、ネオンは言った。
「うん。まぁね」
僕は、いつもと同じ椅子に座った。ネオンは、その反対側だ。夕食の時は、その位置にラムネが座っている。箱の中に簡易の皿とフォークが入っていたので、それを取り出すだけだった。
ケーキを一口食べると、懐かしい甘さが口の中に広がった。しばらく食べてなかったので、より一層美味しいと思った。
「ベルさんは、ここでの生活が長いのですか?」コーヒーを飲んだネオンが言った。
「うん。長いね」僕は答える。
「ここって、どこにあるんですか?」
「さぁ、アメリカとかじゃない?」
「えっ、日本じゃないんですか?」ネオンは驚く。
「そうかもしれない。僕も、詳しくはわからないから。一応、仕事の割合から、日本時間に設定しているけど、正しいのかどうかはわからない」
「窓もありませんよね」ネオンは、この部屋でドアが一枚もない、唯一の壁を見た。コンクリート剥き出しの壁には、絵が映し出されている。イオが勝手に選んだ絵だ。たまに、その壁を使って古い映画を見る事がある。映画館という施設が存在した時代と同じ方法だ。
「たぶん、地下だと思うけど」僕は答える。
「たぶんって、知らないんですか?」
「僕は、ネオンと境遇が似ているから」
「あれは、なんですか?」ネオンは、ドアがない壁の左端にある黒い箱を指さした。高さが二メートル、幅が二メートル、奥行が三メートルある真っ黒の箱だ。重い扉と最新のセキュリティ対策が施されている。
「金庫だよ」僕は答える。この最低限のものしかない部屋では、唯一の異物だろう。ブラックボックスと命名しているが、他人とは共有していない。
「なにが入っているのですか?」
「人に見られたくないもの。あとは、大事なものとか、盗まれたら大変なものとか」
ネオンが少しだけ目を細めて、睨んだ。
「境遇が似ているってどういう事ですか?」ネオンは、諦めたのか話題を変えた。
「僕も勝手にここに連れてこられただけだから、この組織やこの場所とか目的も知らないんだ」
「勝手に?勝手に行方不明にされたんですか?」
「いや、僕の場合は、死人扱いだった。だから、社会的には死んだ事になってる。ネオンは、どうやってここに来たの?」
「ここの噂を聴いていたので、元々、興味はありました。どうにかして入る事が出来ないかと探っていたら、ラムネさんから声がかかったんです」
「…そう」
恐らく、この組織を嗅ぎまわっている人物を、組織は常にチェックしているのだろう。その中に、ネオンもいて、ラムネが興味を持ったのか。
「なんの仕事をしてたの?」僕はきいた。
「いえ、この三月まで学業に勤しんでいたので、正確には、仕事に就いていません」
「えっ?今、いくつ?」
「今年で二十歳になります」
「専門は?」
「心理学を専攻していました」
「へぇ、大変そうだね」隣人補正で優しさを捻りだして、返事をしておいた。
ラムネがそんな人を招くだろうか?なにか、特殊な能力を持っているのかと思っていたのだが…。
「正確にはって言った?」僕は、ネオンのセリフを思い出した。
「はい」
「なにか、バイトみたいな事はしてたの?」
「探偵の助手をしていました」
「探偵の助手」僕は、懐かしい響きのする言葉を呟いた。蝉の鳴き声をかき消すエンジン音と風を切るプロペラの音が頭の中で鳴り響いた。
「人探しが得意とか?」直ぐに切り替えて、質問した。
「はい。…でも、先生の方が凄いですけど」
探偵なんて職業が、今も需要があるのか。
「この組織って、なんて名前なんですか?」ネオンが言った。愛好のあるにこやかな表情だが、瞳は僕を捉え続けている。探偵の助手なんてきいたから、そう意識してしまっているだけかもしれない。
「名前はない」
「活動する上で困らないんですか?」
「それ以上に恩恵があるんだろうね」
「どんな?」
「外部からの干渉を受けにくい」
「干渉があると困るんですか?」
「さぁ」
「どんな活動をしているんですか?」
「わからない。僕にもたまに依頼が来るけど、一貫性があるようには見えないし」
「どんな依頼ですか?」
「それは答えられない」僕は、笑顔をつくった。
「何人位いるんですか?」
「さぁ。僕が知ってるのはラムネくらいだね」
「偉い人とは会わないんですか?」
「会った事がない。この組織の人間なら、ラムネ以外でネオンが初めてだよ」
「でも、こんな建物を創るくらいだから、儲かってはいるんですよね?」彼女は、部屋を見渡した。
「それは間違いないと思う」
「エンプティドール関係の活動をしているって噂を聞いた事がありますが、どうなんでしょうか?」
「関係はあると思う。詳しくは知らないけど」
「ベルさんは、得意な分野とかあるんですか?」
「得意かはわからないけど、エンプティのパイロットの仕事が多いかな」
「人気の職業ですよね」
「そうだね」
「なんで、エンプティって言うんですか?」
「名前の理由?」
「いえ、ドールを付けない理由です」
「エンプティを創った人は、人形作家だったから、ドールなのは当たり前なんだよ」僕はケーキを一口頬張った。
「ルビィ一族ですよね?人形作家でしたっけ?」
「いや、エンプティを最初に創った人は、日本人だよ。ルビィ・スカーレットとも親しい間柄だったから、共同みたいなかんじだったのかも」
「へぇ、知らなかったです。それじゃ、日本のエンプティメーカが、最初にエンプティドールを販売したんですか?」
「正確には違う。販売を行ったのは、ルビィ一族のドイツのメーカだから。その日本人はもっとプライベートな作品を創ってたんだ。それを商品化したのが、ルビィ・スカーレットだね」
「詳しんですね」
「まぁね」
「それじゃ、エンプティも詳しいんですか?」
「人並には」
「なんどもダイヴした事がありますか?」
「そりゃね」
「いいですね。私も早くダイヴしたいです」
「出来るよ」
「えっ、ホントですか?」
「うん」
「いつですか?」
「今すぐにでも」
「なんで、ですか?」
「たぶん、この組織がエンプティメーカと繋がりがあるからだろうね」
「すごい」ネオンはそわそわしている。
「どこかに行ってみる?」
「はい」彼女の声が少し大きくなった。
「専用端末を持ってる?」
「最初から用意されていました。一応、初期設定も終えた所です」
「人気のステーションには行けないけど、空いている所ならどこでもいいよ。イオ」
テーブルの上に地球の形が浮かび上がり、何十ものスポットが赤く光っている。
「光っている所ならどこでも」僕は言った。
「賢いAIですね」ネオンは、テーブルの上の地球を指で地球儀の様に回転させている。勿論、ホログラムだから触れているわけではない。手の動きを認識しているだけだ。
「あっ、ここって」ネオンは呟いている。彼女の目が輝いている様に見える。
ネオンが指さした。地球は気球の様に上昇して、代わりに、テーブルの上にネオンが選んだ周辺の地図が広がった。
「やっぱり、スカイラインです。ここって人気ですよね?」
「そこでいい?」
「はい。もう、ダイヴ出来るんですよね?」
「そうだね」
「今から行ってもいいですか?」
「うん」
「やった」ネオンは立ち上がろうとした時に、テーブルの上のホログラムが消えた。そして、現れたケーキとコーヒーの存在を思いだしたようだ。
ネオンは、ケーキを二口で食べて、まだ少し熱いコーヒーで流し込んだ。そして、胸を叩きながら立ち上がった。
「あっ、カップ。後で洗います」ネオンは言った。
「いや、食洗器が洗うだけだから、置いといて」
「ありがとうございます」ネオンは頭を下げて、この日、一番の笑顔を見せた。そして、足早に部屋に戻って行った。
僕のケーキは半分以上残っているが、あんなペースでは食べられそうにない。