プロローグ 3
「私の名前は、ネイビィ・ネオン」
なにかの呪文の様に、私は呟いた。
目の前を歩くエンプティドールには、聴こえなかっただろう。ずっと、目隠しをされたせいでぼやけていた視力も、ようやくまともになった。
大きな建物の駐車場で降ろされて、隣にいたエンプティドールに付いて来い、と指示された。エレベータに乗り、長い廊下を歩いている。廊下の壁自体が、薄っすらと淡い光を発している。窓は一つも見えない。突き当りを右に曲がり、少し歩くと左手にドアがあった。
ここで待つ様にと、エンプティドールが言った。中身は人間じゃないかもしれない。機械の様なイントネーションだったからだ。私をここまで連れてくるだけなら、人間がダイヴする必要もないだろう。そのエンプティドールは、来た道を引き返して行った。
周りを見る。廊下は右側に伸びている。ずっと奥の左手に、もう一枚のドアがある。その先は、行き止まりに見えるが、もしかしたら、突き当りで、左右のどちらかに道があるのかもしれない。あるとすれば、右側だろう。廊下の長さからも、ここは、相当大きな建物だ。
目の前の扉は開かない。扉のすぐ横に小さなカメラがあるので、私の存在には気づいているはずだ。振り返ると、エンプティドールは見えなくなっていた。
この先に、なにがあるのだろう?
あの組織が、どうして、私の侵入を許したのだろうか?
そもそも、なんの集団なのかがわからない。宗教団体、企業、秘密結社、国家機関、テロ組織、様々な名称で噂されているが、その実態はわからない。なにを目的として、なんの為に集まったのか、トップの名前や、組織の名前さえも、不明だ。
ただ、この組織が、エンプティドールメーカと太い繋がりがあるのは、確かだろう。それがあるから、ここまで大きくなったはずだ。
そして、ここに潜入することで、私の目的に近づくはずだ。あの事件と、エンプティドールメーカが、無関係とは考えにくい。エンプティドールメーカが表の顔とするなら、こっちが本命なのではないだろうか?
だとすれば、私の人生に決着がつく。でも、焦っては駄目だ。まずは、信頼を勝ち取らないと。
「私の名前は、ネイビィ・ネオン」私は呟いた。
それが、私の新しい名前だ。ここでは、その名前で活動するらしい。ラムネという人が、そう決めた。 その人が、私の上司になるそうだ。それ以外は、なにもわからない。
扉が開いた。
私は、部屋の中に一歩入る。
広くて天井も高い。
その割には、物が少なすぎる。部屋の中央の奥の方に、デスクがあり、その椅子に、一人の女性が座っている。そこから離れた、左側の手前には、大きなテーブルと四脚の椅子がある。そこにも一人座っている。
中央のデスクの女性は、黒の短い髪に、セーラ服の様な大きな襟の付いた白い服を着ている。下は黒のロングスカートだ。整った顔立ちでこっちを見ている。
もう一人のテーブルの女性は、黒のTシャツに少し暗めのオリーブグリーンのシャツを羽織っている。ズボンはポケットが沢山ある黒のカーゴパンツだ。頭にはヴィンテージの黒のキャップを被っている。カッコいい服装だ。その人の顔がまるで、エンプティドールの様に整っていた。人間とは思えない程、可愛らしい。エンプティドールよりも、顔は好みかもしれない。小柄でお人形みたいに、姿勢良く椅子に座っているが、どこか様になっている。
「初めまして、私の名前は、ネイビィ・ネオンです」私を見つめる二人に名乗った。
「…どうも」デスクのセーラ服の女性が答えた。「この子が、ここに来る子?」もう一人を見て言った。
「そう」帽子の女性が答えた。
「へぇ。入ったら?」セーラ服の女性が、私を見て言った。「あっ、靴はそこで脱いで欲しい。一応、室内だから」
「わかりました」とは言ったものの、そこが、どこを指しているのかが、わからない。もともと建物の中を歩いて来たわけだから、玄関があるはずもない。とりあえず、一歩も歩かずに靴を脱いで、靴下のまま部屋の中央に進んだ。私が靴を脱いだ場所も、本来なら、土足厳禁なのだろう。二人が視界の端に捉えられる距離で止まった。二人の距離が離れているから、どこで立ち止まればいいのかに、迷った。
沈黙。
「お二人は、どういった方なんですか?」耐えきれずに、私は言った。
「………。ああ。僕は、ベル」セーラ服の方が答えた。「そっちに座っているのが、ラムネ。どういった方なのかは、僕にもわからないけど」私は、ベルさんの視線に誘導される様に、ラムネさんを見た。優雅にカップを持ち上げて、中の液体を飲んでいる。私の話が聴こえなかったのだろうか?
ベルさんもラムネさんも、見た目は私と同じ日本人のようだ。言語も日本語だから、名前が偽名なのだろう。
「私は、ここでなにをすればいいのですか?」私はきいた。ベルさんは、ラムネさんを見ている。それにつられて、私も見る。
ラムネさんは、優雅にカップを置いて、ゆっくりと私を見た。今まで、私がいないかの様にティータイムを楽しんでいたのだ。
「シンジュ・アカダケを知っている?」ラムネさんは、淡々と発音した。
「はい。大富豪の」私は答えた。
シンジュ・アカダケと言えば、日本でも五指に入る位の大富豪だ。確か、ソフト関係のビジネスで大成功を収めている。たった、一代で莫大なお金を稼いだ有名人だ。
「彼は、七体のエンプティを所有していた」ラムネさんは、私を見たまま言った。「でも今は、三体しかいない」
「売ったのですか?」
エンプティドールの所有自体が、大金持ちでなければ出来ないが、もし、それを売ったなら、一生遊んで暮らせるくらいのお金にはなるらしい。
「違う。彼には、その必要がない」ラムネさんは直ぐに答えた。
確かにその通りだろう。シンジュ・アカダケの総資産は、何千億とか何兆とか、そのレベルだったはずだ。
「もしかして、盗難ですか?」
だとすれば、私の仕事は、盗まれたエンプティドールの捜索か、まだ、残っているエンプティドールの警護になるのだろうか。捜索なら、経験があるけど、警護は、からっきしだ。役に立てるだろうか。
「勝手に話を進めるな」ラムネさんの瞳が鋭くなった。
私は、より一層姿勢を正した。唇が上下からの圧力によって、横に伸びる様な形になった。謝った方がいいのかと、考えていたら、ラムネさんが続けた。
「四体のエンプティは、全て死んだ」
「死んだ?」私は繰り返した。
誰かに破壊されたのだろうか?そんな犯罪は殆ど聞かない。メリットが少ないし、刑罰が重すぎるからだ。バレずに逃げ切れるなんて事は、あり得ない。
やっぱり、私への依頼は、警護だろうか?
出来ません、なんて答えて、ここを追い出されるわけにはいかない。どうしたものか。
「エンプティの死因は、例外なく、自殺だった」ラムネさんが言った。
「自殺?」思いもよらない言葉に、理解が追いつかない。「えっと、どういう事ですか?」
「言葉の通り。エンプティにダイヴしたまま、自殺を繰り返している」
「なんの為にですか?」
「わからない」ラムネさんは直ぐに答える。「でも、理由は大した問題ではない。ネオンへの依頼は、シンジュ・アカダケの捜索」
「シンジュ・アカダケの捜索」私は、誰にも聴かれない位の声量で呟いた。
「その…見つけた後は?」私はきいた。
「知る必要がない。こっちで対処する」ラムネさんは、事務的に答える。元々用意していた答えだった様だ。
「見つける理由は?」
「それも、あなたには関係ない」
「えっと……。なにか手掛かりはありませんか?」
「これまで死んだエンプティの場所とその方法、シンジュに関する経歴などは、資料に纏めてある。その他の事はなにもない」
「いつまでですか?」
「シンジュが見つかるまで」
「それじゃ、直ぐに見つからなかったら、私は、ここに何日も通う事になるんですか?」
「違う。ネオンには、ここに住み込みで働いてもらう。前金として纏まった報酬は渡してある。生活に必要なものを揃えるお金も、それとは別に渡してある。これからは…」ラムネさんは、私の右側の壁を指さした。「その左側の部屋が、ネオンの生活スペースになる。キッチンや浴室も部屋の中にある。欲しい物があるなら、自由に買っていい。シンジュを見つける為に必要なものは、要望を出せばこっちで揃えられる」
「端末も?」
「それは既に、最新型のものを用意してある」
「休日には、帰ることが出来ますか?」
「ああ。そういえば、ネオンにとっては一番重要な事かもしれないけど、あなたは既に、社会的には失踪扱いになっている」
「えっ?」
「警察には捜索願いが出されている。だから、今後は、本名を名乗らないこと。面倒な事になるから。前金の報酬も、こっちで用意した口座に振り込んだから、今後はそっちを利用すればいい」
「えっと、それって?」
フッと息が漏れる様な笑いがあったので、そっちを見た。
「信じられないと思うけど、そういう勝手な事を勝手にする人たちなんだよ」ベルさんが言った。
なにがなんだか、よくわからない。つまり、どういう状況だろう?
「質問がないなら、仕事に取り掛かって欲しい」ラムネさんが言った。
「えっ、はい」私は、頷くしか出来なかった。
えっと、私の依頼は、なんだったっけ?
一瞬の思考の後に、思い出した。
既に、四回自殺した人、シンジュ・アカダケの捜索か。