ブライダルブーケ
夢を見た。
愛おしそうに頬を撫でられ、髪を梳かれる。壊れ物を扱うように、僕に触れる指先はとても丁寧で優しい。
甘く緩んだ声が僕の耳元で何度も好きだと囁いてくれた。耳にかかる吐息が熱い。何度も何度も強く抱きしめられ、頬に、そして額にキスをしてくれる。愛してる、愛してるよ、と。
ああ、幸せだな・・・。
そう思った。
そこで唐突に目が覚めた。
トクトクと、余りに弱い僕の鼓動は、今も確かに打ち続けてる。
しんと静まりかえった部屋。ランタンの火は最小に抑えられているのか、辺りは薄ぐらい。
甘ったるい、嗅いだことのない香りが室内に充満していた。
見知らぬ天井、見知らぬ調度品、見知らぬ部屋。横たわっていたのは質素な寝台。
自分の部屋じゃない。ここは・・・?
状況が掴めない。嫌な予感がじわじわと胸の奥からはい上がってくる。
ぐるりと周囲を見渡した。見覚えのない狭い部屋。脇には油が切れそうなのか、今にも消えそうな火がランタンの中でゆらゆら燃えている。
自分の呼吸音以外物音一つしない部屋。他には誰もいない。
「・・・・・ノア・・・?」
起き上がった拍子に、胸元を覆っていた毛布がズルリと落ちた。一気に胸元が頼りなくなる。視線を向ければ、ビリビリに破られた服がまず目に付いた。そして、頼りない小さな光に照らされる、ないにも等しい僕の胸。
さっと血の気が引いた。
部屋には誰もいない。物音一つしない。
それが示すことなんて一つしかない。
体がどうしようもなく震える。手の先から冷えて凍えそうだ。
はい上がってくる恐怖を必死でなだめながら、ゆっくりと視線を巡らせると机の上に小さなメモ用紙が置いてあるのを見つけた。
【なにもしていない。さよならだ、アリア】
そこには少し雑な文字で、そう書かれていた。
・・・・・・・・。
状況がわからない。
いや、わかりたくない。
心は必死で思考を拒否するのに、妙に冷えた頭が僕の意思とは関係なくその事実を理解していく。
・・・・・なにもしてない、さよならだ、アリア。
頭の中でノアの声が響く。
・・・・・なにもしてない、さよならだ、アリア。
さよならだ、アリア。
ゆっくりと、僕の頭はその別れの言葉を受け入れていく。
同時に僕の体は力を失って、ズルズルとその場に倒れ込んだ。
どれほどこうして座り込んでいただろう。
涙が幾筋も頬を伝って落ちていく。枯れることなくただ静かに流れ落ち、顎であたって落ちては床を濡らした。
ただただ悲しかった。
さよならというはっきりとした別れの言葉も。
なにもしてない、という事実も。
無残に引き裂かれた胸元の衣服。でも問題はそこじゃない。その下からのぞいている、女とは思えない僕の貧相な体。食事を取れなくなったせいで、もともと小さかった僕の胸は真っ平らになった。エマとミアと三人でスイーツ巡りをして三キロも太り、焦って一緒になってダイエットに励んだあの日々が今では狂おしいほど愛おしい。健康な体がどれほど大事でかけがえのないものだったか、今ならよくわかる。こんな骨と皮だけの今の僕じゃあ、ノアの相手にもならなかった。女の魅力なんてどこにもない。丸みを帯びた柔らかい体も、艶やかな髪も、頬笑むことさえできない。僕にはもう何もない。大好きな人にたった一晩、愛されその腕の中にいることさえもできなかった。
そうして彼の言葉が示す通り、こんな僕は二度とノアにあうことはない。
それらの事実が僕をどん底へと突き落とした。
声を上げることもできず、ただ静かに泣いて、泣いて、泣きつづけて。
空が白んで来た頃。
コンコンコンとドアを遠慮がちに叩く音がした。
もしかして、ノアが、なんて。性懲りもない僕の心は一瞬期待してしまったけれど。そうではないことは足音でわかってしまった。来訪者は二人。どちらもノアより足音は軽く、ノアみたいに気配を消すことをしない。
思い当たる人物は彼女たちしかいない。
はい、と。かすれた声で返事をするとしばらくの沈黙のあと。ゆっくりと扉が押し開けられた。
立っていたのは、金髪の女性二人。
床に座り込む僕を一目みるなり、息を止め。言葉もなくその場に立ち尽くしていた。
ああ、笑わないと。心配をかけないように、笑わないと・・・。
「あは・・・。 また振られちゃった・・・」
多分、レオが心配して。でも男の自分が行くよりはと気を使って彼女たちに知らせてくれたんだろう。
なんて優しいんだろう。さすが僕の弟・・・。
それにエマもミアもごめんね、こんな朝早くから・・・。
いつもオシャレなエマの髪がボサボサだ。ミアも、ボタンがひとつ掛け間違ってるよ・・・。
それほど慌てて駆けつけてくれた。
ありがとう、レオ、エマ、ミア・・・。
感謝の気持ちを伝えたくて、ぷるぷると情けなく震える口角を必死であげる。
「ばか!!」
エマが泣きながら僕を抱きしめてくれる。お辛かったですね、と。ミアが手を握ってくれる。
そんな二人の優しさが、ありがたくて、ひどく安心して。僕はまた声を上げて泣いた。
「一緒に帰りましょう」
三人で声をあげて泣いたあと。エマがぐすりと鼻をすすりながら立ち上がった。僕の右手を取り、促すように見下ろしてくる。まだ存分に潤んだ瞳には、僕への気遣いと優しさが詰まっていた。ミアが僕に外套を被せてくれ、すごく自然な形で破れてまる見えだった胸元を隠してくれる。
そうだね、と。そう答ながらも、もしかしたらノアが戻って来てくれるかも、と。まだそんな淡い期待を少なからず抱いてしまう自分にほとほと呆れた。もうさよならなんだと、馬鹿な自分に言い聞かす。
こんな僕じゃあ、一晩の相手すら務まらない。
そもそも、と。妙に冷静になった頭が現実を突きつけてくる。
そもそもなぜ、自分はここに一人おいて行かれているんだ、と。
一緒に来いと、言ってくれた。愛してると、熱のこもった目で見つめてくれた。
なのに気がつけば、自分はここに一人だった。
それらの事実はいったい何を意味するのか。
ノアの言葉は全て嘘だった・・・・。
やっぱりノアは僕のことを憎んでいて。許してなんてくれてなくて。僕を最初から捨てるつもりでここに連れてきた。でも僕の体が触りたくもないほど醜かったから。だからそんな気も失せて部屋から出て行った。
そう考えれば全てつじつまが合った。
・・・・ばかだなぁ、ぼくは・・・。
あの時確かに言われたじゃないか・・・。
抱いて抱いて抱き着き潰して捨てるつもりだった、って・・・。
そういわれたはずなのに・・・。
愛されてる、なんて思い違いも・・・・・・。
「あら・・・?」
思考は、ミアの言葉で遮られた。
「これはなんでしょう?」
ミアが僕の側でゆっくりと立ち上がり、机の上にメモと一緒に置かれていたんだろう花を手に取った。
白い三枚の花びらに、綿毛のような雌しべと黄色い雄しべ。
エマもそちらに向かい、その花と、そして一緒に置かれているメモを見て。
そして顔色を変えた。
「これ・・・。 ・・・ブライダルブーケって花よね・・・?」
震える声でそう問われてまじまじと顔を見られたけど。あいにくと僕は花のことなんて悔やみきれない全く知らない。
答えられずに困っていると、反対側から「間違いありませんわ」と。ミアのやや緊張した声が聞こえる。
二人ともすごいな。花の種類までよくしってるなんて・・・。
辛い現実から逃避するようにそんなどうでもいいこと感想を持ってしまう。
「・・・・・・・・・」
エマが、そしてミアが、白いかれんなその花をみたまま何かを考えるように黙り込む。
その様子に、ざわりと胸が不安で覆われる。
なに・・・? どうしたの・・・?
僕がそう問い掛けるよりもわずかに早く。エマが真剣な顔つきで僕に向き直った。そうして未だに座り込んだままの僕の視線に合わせるように、腰を落し僕の目を正面から覗き込んだ。
「ねえ、エリーシア・・。 あんた・・・そのなんとかって男に、ちゃんと自分の気持ちは伝えたのよね?」
なんとかって男じゃなくて、ノアだよ、と。泣きすぎてズキズキ痛む働かない頭でそんなことをぼんやりと思ったけれど。エマの目が怖いほど真剣で。質問の答え以外の言葉を言おうものなら、叱られそうな凄みがあったので。僕は素直に首を横に振った。
「言えなかった」
好き・・・。大好き・・・・。
僕は結局、一度として大事なその言葉を言えなかった。
出会ったあの瞬間から。強烈に沸き上がったこの気持ちを。初めて感じた、他の誰に感じるものとも違う。魂を震わすほどの好意を。一度としてあの人に伝えることができなかった。なんて愚図でのろまなんだろう。
「・・・どういうこと・・? ・・・あんなに待ってたのに・・。・・・やっと会えたんでしょう・?」
エマがわずかに目を細めて僕を見る。声のトーンがわずかに下がった。表情が険しくなり、探るようにじっと僕の顔を見つめてくる。エマがこういう顔をするときは決まって大事な何かに気がついたときだ。
正面から僕を捕らえるその目が無言で状況の説明を要求している。なにがあったんだと。怖いほど真剣に。
それに気がついて。僕は初めて今までのことをエマとミアに吐き出した。本当はずっと誰かに聞いてほしかった。けれど思い出すのも辛く、何と話していいのかもわからなかった。
ポツリポツリと。時々止まっては言葉を選び。時には悲しくなってはまた言葉に詰まり。それでも二人とも辛抱強く最期まで僕の話を聞いてくれた。
全てを話終わったあと、エマは数秒考え込んだあと、ふぅっと重いため息を一つついた。
その様子に、僕の心は不安でいっぱいになる。
ノアに間違った対応をしたのはわかってる。あれほど嘘はいけないと後悔したのに。僕はまた嘘をついた。
それも一番大事な自分の気持ちに、だ。でも、あの時それ以外に僕は何と言えただろう? あそこで自分の気持ちを言ったところで、お互いに傷ついただけだ。
・・・っていっても、ノアは最初から僕のことなんて・・・。
そう思った時。
僕の鼻先に何かが差し出された。美しい白い花。ノアが手紙に添えてくれた花。
でもこれが・・・?
意図がわからず顔を上げると、エマの瞳が一瞬だけ泣きそうなほど揺れた。
「これ・・・ブライダルブーケっていう花」
うん、さっき二人がそう言ってたから、そうなんだろう・・。それが・・・?
わずかに眉を寄せただけの鈍い僕の反応を見てか、エマの瞳がまた揺れた。
「あなたの幸せを心から祈っている。・・・・そういう意味がある花」
・・・・・・・・・・・え?
いまなんて・・・?
「心から愛した人が、お嫁に行く。自分の側にいなくても、どこかで幸せになってくれればいい。愛してるあなたが幸せであってほしい。そういう想いを込めて渡す花、なの」
ぐすっと、エマが鼻を啜る。
「あんたの話を聞いて・・・。きっとそいつはあんたがお嫁に行くって勘違いしたんじゃない?」
・・・・・・・・え・・・・?
理解が追いつかない僕を置き去りにして、エマの言葉は続く。
「そこで焚かれてる香は、媚薬の香よ」
エマがベットの脇に置かれているそれに、ちらりと視線を向ける。
主に、女性側の気持ちを高めるために使うもので、とても高価なものなの。
そんなもの、抱いて捨てるだけの遊びの女のために、使うかしら・・・?
エマの言葉は続く。
そんな服をビリビリに破くほど欲まみれの行動を起こしておいて。それでも手を出さない、なんて・・・。
「よっぽどあんたのことが大事だったんでしょう?」
・・・・・・・・え・・・・・・・?
なに・・・・? エマはなにを言ってるの・・・・?
大事・・・・? ノアが・・・? ・・・・僕を・・・?
理解の悪い僕を見てエマが小さく息を吐き出した。その瞳が憐れむように揺れる。
「エリーシア。・・あんたはちゃんとその男に愛されていたのよ」
「・・・・・・・うそ・・・・・・」
そんなはずない、ノアは僕のことを憎んでいて・・・・。
とっさに否定した僕の心を、エマが否定する。
「あんたのこれからの未来を思って。 そいつはあんたに一切手を出さずに身を引いたのよ」
ゆっくりと。
僕の心に言い聞かせるように告げるエマの言葉が。
ようやく僕の頭に入ってくる。
震える手で、エマが差し出した花を受けとる。
花びらが三枚の、白い綺麗な花。
ノアが、僕を思って添えてくれた花。
ノアが、僕のことを想ってくれた証。
そう理解した瞬間、乾いていた目にまた涙が浮かんできて。
僕は声を殺して泣いた。
呼んでくださった方、ありがとうございます。




