君にだけそう呼んでほしい
僕を船長さんに預け、ノアは海賊船に一人で乗り込んで行った。僕も一緒に行くと何度も言ったたけど、ものすごい怖い顔で拒否られた。足手まといにはならないつもりなのに・・。
時間が経つのが遅い。あれから何分たっただろう?ノアはまだ出てこない。彼ほどの強さがあれば大丈夫だと思いたいけど、それでも万が一ということがある。じっと待っているのは苦しい。
「ああ、助かった」
一緒に避難していた人の声に、僕は顔を上げた。周りの人たちも一斉に歓声を上げて。同じ方向に視線を向けている。視線を追ってそちらに顔を向けて、なるほどと納得した。
遥か海の向こう、一隻の船が見える。ここからでも目視できる。巨大なその船の帆に描かれているのはユグレシアの国章だ。ここはもうユグレシアの海域なのだろう。船長が送った救難信号でかけつけてくれた。
そして多分、面倒ごとに巻き込まれた僕の回収にきてくれた。
ちらりと海賊船をみた。ノアはまだ帰ってこない。ユグレシアの船がつけばおそらく問答無用で連れていかれる。心配をかけているのだから仕方がないといえばそうなのだけど・・。
ノアが戻って来る気配はない。我慢できずにその場で立ち上がった。瞬間、僕の横にいた船長さんがビクリと肩を奮わせものすごい勢いで立ち上がった。
「で、殿下・・・い、いえイヴ様? ・・・あの、どちらへ?」
恐縮したように体を強張らせながら船長さんが低い姿勢から僕の顔を覗き込んで来る。
これ以上面倒ごとは御免だ。頼むからおとなしくしていてくれ。
声にはでなかったが、思いは痛いほど伝わってきた。
無理を言って出港時間ギリギリにのせてもらった。あのとき断られていたらノアには会えなかった。
この状況では引き下がるのは僕の方だ。でも・・。
迷っているうちにユグレシアの船はどんどん近づいて来る。
ノアはまだ帰ってこない。このままじゃ、ノアに会えなくなる。
「お願いです、ノアに。あの海賊船に行った人が戻ったら、水月停という店でまっている、と」
【水の日の夜、ユグレシアの水月停という店で待っている】
絶対に間違って伝わらないように余計なことは一切いわずに端的に伝える。これだけ水で縛れば誤報はないはずだ。ノアが来てくれるかどうかはわからないけれど、それでも少しは希望が持てる。
僕の必死さに押されてか、船長さんが驚いたように目を瞬かせながらも首を縦にふり了承の意を示してくれる。
無事に接舷したユグレシアの船に乗り込むため、かけられた橋を渡る。もう少しだけ待ってほしいと訴えてはみたけれど、ダメだった。右隣りに立っていた船長さんからの視線もいたかった。
結局ノアは戻っては来なかった。せめてと、不自然にならない程度にゆっくりと歩を進める。
後ろ髪が思い切り引かれる。こんなに急に、ぱったりと関係が切れるなんて思ってなかった。一応伝言は頼んできたけど、それにノアが答えてくれるかなんてわからない。来てくれない可能性の方がずっと高い。もしそうなったら僕は二度とノアには会えない。
ぐずだなぁ・・・・。
肝心なところで怖がって、臆病で。僕はいっつも後悔ばっかりだ・・・・。
「イヴ!!!」
情けなさで自然に頭が垂れて。足元に視線を落としたとき声が聞こえた。
涼やかですこし低い男らしい美声。冷たい空気を裂くように、まっすぐに僕の耳に届いた。
ノア!!
気がついたときには、僕は制止しようとするユグレシアの兵士達をふりきってノアの元に駆け出していた。
イヴ、と少しかすれた声が僕を呼ぶ。僕が教えた嘘の名前を、とても優しげに気遣しげに。僕がそう名乗ったくせに、そのことがどうしても悲しくなった。
「ごめんなさい」
頭を下げて精一杯の誠意を見せた。そうして僕は首を傾げて不思議そうにしているノアに真実を話した。
僕の名前はイヴなんかじゃない、と。
言った瞬間、ノアの顔色が変わった。大きく見開かれた切れ長の瞳に、疑惑と苛立ちをごちゃまぜにしたような感情がゆっくりと広がっていく。不快そうによる眉。眉間に刻まれる深い縦ジワ。全身が、僕を非難している。
それでもノアは何も言わなかった。
僕をなじることも、文句を言うこともしない。見放して、立ち去ってしまうこともしない。口元を真一文字に引き結んで、厳しい表情をしながらも、ただじっと僕の次の言葉を待ってくれている。
そうだ、ノアってこういう人だ。どんな状況でもちゃんと最後まで話を聞いてくれる。僕がつまって言葉がでないときも、辛抱強く待ってくれた。だからきっと話だけは聞いてくれる。
恐怖で足が震えた。でも、ちゃんと話をしないと。
家の事情で偽名を使ったことをしっかりと目を見たまま謝罪を交えて話をする。
ノアの表情はずっと固い。微動だにしない。空色の美しい瞳をわずかに細めて僕を見る。
「ごめんなさい」
もう一度、心を込めて謝罪した。
重い沈黙が数秒続いて。
僕を見つめていたノアの瞳が、ゆっくりと伏せられる。表情が暗く沈みそれを隠すように頭が下がる。
どうしよう、もう許してもらえないだろうか。
恐怖で体が震える。
でもそれでも許してもらいたいならあやまるしかなくて。
「ごめんなさい」
ノアから反応はない。
もう僕の事なんか嫌いになっただろうか。
涙が身勝手にも混み上がってきて、それを意地で押し止める。泣くなんてそんなの卑怯だ。泣きたいのは僕じゃない。間違えるな、僕に泣く資格なんてない。
もうノアは僕の事なんかどうでもいいかもしれないけど。
それでも知ってほしい。
僕の本当の名前は。
「アリア」
スルリと自分の口から言葉に自分で驚いた。でも言ってしまえばそれがすごく自然なことのように思えた。
「・・・僕の名前はアリア」
もう一度噛み締めるようにゆっくり告げる。それだけで灯がともったように心がじんわり暖かくなった。
アリア
確かにそれは僕の名前だけれど、そう呼ばれることに僕はなれていない。いつもは偽名のイヴ、お仕事用のエリーシアだ。アリアと呼ぶのは両親とおじいちゃんだけ。それも誰もいない時のとても大事な話の時だけ。
それほど大事な名前。だけどノアにはどうしてもアリアと呼んでほしかった。そう自然に思えてしまう程、僕は深く深く、ノアに心奪われていた。
ノアの体が少しだけ揺れた。僕の話を聞いてくれているだろうか?もうどうでもいいと思われているだろうか?それでも。
「ノアにだけそう呼んでほしい」
とても身勝手に。僕は自分の感情をノアに押し付けた。そうして自分勝手に愛の告白をした。もちろん、ノアがそのことに気がつくなんてあるわけないんだけど。
ノアは俯いたまま顔を上げてくれない。怒っているのかな。纏っている空気がピリピリしていて、肌に突き刺さって痛い。沈黙が怖い。やはりもう一度謝罪を・・・。
そう思って口を開いたところで、ノアの肩がわずかに揺れた。そんな小さなことにビクッと飛びがってしまった僕を、ノアが顔を上げてみた。
空色の美しい瞳が僕をまっすぐに見る。その表情は・・・。
「なんて顔してんだよ」
呆れたようにそういって、クツクツと喉を鳴らしてノアは笑った。目元は穏やかに緩んでいて、口元は優しげな曲線を描いている。怒ってなんかねぇよ、と言葉でいわれるよりもよほどその目が、態度が、そして全身を包む穏やかな空気がそう伝えてくれていて、正直僕は泣きそうになった。
「アリア・・・。アリアか・・・」
何かを確かめるようにノアが僕の名前を呼ぶ。ノアが僕の名前を。その事実に僕の涙腺はもう崩壊寸前だ。
数回僕の名前を吟味するように口の中でつぶやいた後、何かを納得したらしく大きく一つ頷いて。
そして笑った。
白い歯が良く見える。くったいのない笑み。いつもより少しあどけない、子供のような笑みに僕の心臓は見事に打ち抜かれた。バクバクと、ノアに聞こえてしまうんじゃないかと思うほどの大きさだ。
「うん、いい名前だな。お前にピッタリだ」
そういってノアはまた優しく笑った。
・・・・・・・・ねえ、ノア。僕は嬉しかったよ。僕の名前を呼んでくれたこと。
でもそれも、君が僕に嘘をつかれたことを必死で飲み込んで、消化して、そうしてやっと受け入れてくれたんからなんだってことを、僕は忘れちゃいけなかったんだ・・・。ごめんね、ノア・・・。
進みが遅くてすいません。




