幸福な船旅
一週間後、船は予定通りに出航した。出港直前になにやら揉め事があったようだが詳しくは知らない。まあ俺には関係ない。船が無事に出ればそれで問題ない。
天気がいい。風も悪くない。気圧の変化も少ないから、時化もないだろう。これなら順当に行きそうだな。
狭い客室に案内されたが、どうにも居心地が悪い。やはり海の臭いや風を感じていたい。俺は迷うことなく甲板にでた。
扉を開けた瞬間、潮の臭いがぐんと濃くなった。頬を打つ風が気持ちいい。日の光を反射してキラキラと輝く水面が最高に美しかった。
甲板はちらほらと船客が見られた。
めぼしい場所は取られているか・・。できれば風を感じていたいんだが・・・。
ぐるっと視界を回したところで。
風になびくペールブラウンの髪が目に入った。
どくっと一瞬で俺の心臓は最高潮の高鳴りを見せた。ドクドクと耳の裏で心音がうるさい。
まさか・・・。 本当に・・・?
楽しげに曲線を描く口元。眼をキラキラさせて物珍しそうに船と並行して飛ぶ海鳥を見るその横顔。
一見地味だが、質のいい生地を使った服を着た。間違いない、彼女だ。
運命だと思った。あれほど探し回った彼女がまさか自分と同じ船に乗っているなんて。
俺は突き動かされるように彼女との距離を縮めた。
「・・・・船は初めてか・・・・?」
なんて声をかけようか迷いに迷って。俺は妥当な線で攻めた。あるといってもないといってもそこから話を膨らませられる。航海や船のことで知らないことなどない。せめて返事だけはしてくれよ、と願いながら彼女の返事をまった。手汗がひどい。こんなに緊張したのはいつぶりか。
俺に声をかけられた彼女がびくっと肩を奮わせてこちらを振り返った。よほどひどい顔つきをしてたのか。俺を見て驚いたように眼を見開いたその表情がものすごく可愛かった。
「・・・っ! ・・あ・・・・の・・・・?」
怯えたように彼女は俺から一歩距離を取った。ドンと体がすぐに船縁にあたり、戸惑ったように彼女の視線が揺れた。
怖がらないでくれ、少し話がしたいだけなんだ。
努めて表情を柔らかくし、いつも鋭いと表される目尻を意識して下げた。
口元を緩めて微笑んで見せれば、それだけで彼女の緊張が少しだけ緩んだのを察し俺はほっと安堵の息を吐き出した。
「突然声をかけて悪かった。俺の名前はノア」
まず名前を知ってもらうところから始めないといけない。ゆっくりと少し低めの声で名乗りをあげた。
すると彼女は、ほんわりと柔らかく微笑んでくれた。ドクっと俺のすべてが舞い上がった。
〈・・名前を・・・。名前を教えてほしい〉
しかし喉が張り付いたように声が出てこない。見惚れる、とはもうこのことだと思う。金縛りにあったように俺は彼女にくぎ付けになった。
「こ・・こんにちは、ノア。僕の名前は・・・・」
かわいい声だった。想像通り鈴を鳴らしたような少し高めの声に俺の心臓は爆打ちを繰り返す。一人称が私、ではなく、僕、のそのギャップも最高にそそる。ごくっと喉が無意識になった。
名前・・・。名前は・・・?
渇望に似た欲求が腹の底から混み上がってくる。名乗られたからには名乗り返すのが礼儀。それを律儀に守ってくれる彼女に心底ありがたいと思いながら。しかし、僕の名前は・・。そこで不自然に開いた間に俺は焦れたように身を揺らした。
「えっと・・・。僕の、名前は・・・。・・・・イヴ・・・だよ」
また少しの不自然な間を挟み、彼女、イブは俺に名前を教えてくれた。ほんの少しだけ眼が申し訳なさそうに揺れたのだが。その時の俺は舞い上がりすぎてそんなこと気づきもしなかった。




