第1話 目覚め
コンコンコンコン。さすがは豪華客船。礼儀正しくノックも四回か。いや、そんな変なことを考える暇はない。待たせてしまっているのだ。早く用意を済まさなければ。
「金田様。準備の方はよろしいですかな」
「あー…すまない、もう少し待ってもらえないか」
「いえいえ、出過ぎた真似をいたしました」
さて、時計を見れば予定の時刻まであと15分。服装よし。原稿よし。あとすべき準備といえば気持ちの整理だけだ。
鏡に写った自分に目を合わせ自分へと問いかけていく。
「お前は誰だ?」
「俺は金田光太郎。職業は商社で営業マンをしている。年齢は32歳で未だ独身。両親からは結婚を勧められているがパーソナルスペースに常に誰かいるなんて生活は考えるだけで虫唾が走る。趣味は自動販売機巡り。幸運なことにも現在極めて順調に出世街道を歩いており30代の内に年収1000万も夢でない。所謂、勝ち組というものだ」
「なぜここにいる?」
「友人の結婚式でスピーチをするためだ。友人代表とやらの。正直最初は乗り気ではなかったが、高校時代から親交がある数少ない奴らの一人だし、ここで自分のスピーチの腕前を見せられればいづれ役に立ちそうなヤツに出会える気がしたから請けてやった」
こんなところだろうか。幾分か緊張が解れたような気がする。さて、行こうか。
幸いにも無事にスピーチを終えられた俺はきらびやかな会場を余所目に紫煙をくゆらせていた。
一本吸い終わったが物足りなさを感じ、大仕事の後だ、もう一本ぐらい吸っても良いんじゃあないかと思いポケットへと手を伸ばしたときである。後方よりドタドタとやたらと大きな足音が聞こえていたために随分と喧しいなと思っていると突如として強い衝撃を受け、体が浮いているのを知覚した。
ドボン。数瞬後、地面に叩きつけられたようなとても強い衝撃を受けた。ああ。不幸にも俺は突き落とされたようだ。しかし、何故だ?理由が分からない。八方美人となるように心掛けていた筈であるのに。
考えても考えても理由は分からず、されど我が身は沈み続ける。冷たい。苦しい。視界がどんどん暗くなっていく。辛くて、苦しくて、死んでしまいそうだ。体はまるで鉛のように重たくなっていき、粘性なんて皆無の筈の水中なのにまるでねり飴の中にいるような感覚だ。ああ。本当。死にそうだ。
息が吸えないがゆえに徐々に薄暗くなっていく視界の中、形容し難き大いなる安らぎに包まれ俺の意識は海中に没した。
蕾が花となるように。霧が晴れていく様が如く。なるほど、自我が芽生える、物心がつくとは正にこのことか。齢にして3歳。ぼんやりとしていた意識がだんだんとくっきりとしてきて自分の置かれている状況が朧気ながらではあるが判別できるようになってきた。どうやら俺は、生まれ変わったらしい。神なる者の存在も、地獄にいるらしい閻魔なるものによる裁判も何一つ受けなかったが。
さて、部屋を見回せば汚れ一つない真っ白な壁。白塗りの美しい扉のノブには残念ながら手が届かず家具等調度品はルネサンス様式によく似たデザインとなっている。しかし奇妙なことにも時計のたぐいは一切見受けられなかった。ルネサンス調の家具とくればそこそこ高価な品であり、当然その持ち主は金持ちであるはずである。金があるのであれば人が寄ってきて、そして必然的に予定もできて、時計は必要となる筈であるのに。第一、時計もなしに生活など考えられない。
ぐるぐると思考の袋小路に迷い込んでると4回ほどのノックとともに若い女の声がしてきた。
「お嬢様、お目覚めの時間ですよ」
使用人だろうか。そして…ああ、そうだ。漸く記憶の整理がついてきたぞ。俺は女となったのだ。名はシルヴィー・ド・エリール。家は銀行家を営んでいて、俺はそこの一人娘だ。
「ああ。入っていいぞ」
「失礼いたします」
ガチャリと白亜の扉が開き、使用人であろう女が入ってくる。所謂メイド服を着用しておらずエプロンドレスを着用しているのはまだ午前中だからだろうか。
メイドはそれでは失礼しますと言いテキパキと体を水拭きしたり髪のブラッシングだったりなどの朝の支度をこなしていく。…正直なところ、かなり気持ちが良い。気持ちよさのあまり寝かけてしまったぐらいだ。
「御支度中恐縮でありますが本日のご予定をご確認させていただきます」
「ああ。頼む」
朝は両親と朝食をとる。その後は昼まで勉強を行い、午後はマナーの講義、散歩。そして夕食をとり就寝。前世でこれぐらいの年齢だったときの暮らしと比べると娯楽が散歩ぐらいしかなくそこそこハードな日程である。だが、それでも特段苦と言うほどではない。
さて、行こうか。