第十五話 霧の女王エスキュラ
それは、一方的な殺戮でした。
───人間の括りを、重量でも質量でも遥かに超えた半蛇半人の、四臂の魔物
─── 一方、人族では大柄で、その範囲内では鋼の肉体を持つ青年
神から授かるはずの、超人的な加護を失い、人の身で魔族の幹部と闘うなど、そんな甘いお伽話のようなものなど……。
ただ繰り出した拳に、肉体は弾け飛び、息を吐くように繰り出す魔術で、細胞の繋がりをも諦めさせる暴虐の限り。
─── 止めれば良かった……。何故、止められなかった……!
しかし、煌々と輝く獣魔の眼に、私の力など今は何の意味もない。
止める事すら叶わない……。
彼を守る事すら出来ない……。
矮小な人間と、強大な魔族の奏でる暴力の旋律に、神である私ですら声を失った。
「あ……アルくん……!」
自分でも間抜けだと思う。
この惨状に私はこれしか声がでなかった。
彼の守護神であり、世界の調律の神でありながら、私にはこれしか出来なかった!
しかし、いつも律儀だった彼は、それでも私の声に何とか声を返してくれる…………。
「どうしたソフィ、今ちょっと忙しいんだ」
返り血に染まった彼の笑顔は、おそらく天界の神々も言葉を失うでしょう。
この時の彼は、まさに悪魔そのものでした……。
─── 嗚呼、普段優しい人は、怒らせちゃいけないのですね……!
※
「…………また、再生したか」
バシャリと顔に浴びた返り血を、手で拭い血に濡れた髪を後ろへ撫で付け、アルフォンスは詰まらなそうに呟く。
「……グキ……ガフッ……!
な、何なのだお前は……何なのだッ! 何故、妾の結界を破れる⁉︎
古代紅鱗龍のブレスですら傷ひとつつけられぬ、妾の結界を、何故素手で打ち破れるのだッ‼︎」
先程から女王は、何度も強力な魔力の防壁を展開していたが、アルフォンスの拳にその体ごと吹き飛ばされていた。
「……あぁん? ああ『赤トカゲ』の事か? そんなもん、俺の里にうじゃうじゃいたけどな。
─── お前、そんなもんを基準にしてんのか?」
女王の顔が困惑の色に染まる。
アルフォンスの言葉が、一瞬、理解が出来なかったようだ。
「あか……とか……げ?
一体で国を滅ぼす古代龍種が、そんなに居てたまるものか! どんな魔境だと言うのだッ!」
「テメェ……俺の故郷をクソ田舎つったか?」
アルフォンスの紅い瞳が、鋭く光る。
俯せに倒れていた女王の後髪を掴み、顔を起こさせ、怯えるその眼を至近距離で睨みつけた。
「い、言っておらん……そんな言い方は……してn」
「まあいい。どの道お前は死ぬんだ。最後にひとつ聞いておく。
─── 浮幽魚の卵の抜き方を、言え」
アルフォンスは女王の首に、大振りのナイフをあて、静かに言い聞かせるように尋ねた。
「クッ……!」
「まあ、お前が吐かなくても、お前の肉体から記憶を抜けばいいだけだがな……」
更にアルフォンスが顔を近づけた時だった。
「─── この匂い………其方は……もしや……」
女王の目から、涙が溢れ出た───
「……? 何だ、お前は何を言って……ッ⁉︎」
突然、女王の体が白い光に包まれた。
思わず手を離したアルフォンスの目の前で、異形の巨体が縮み、呆けたように座り込む女の姿に変貌する。
(魔物達との融合を解いた……? これが『霧の女王』の姿ですか……)
ソフィアまでもが困惑する中、女は視力が弱いのか、確かめるように何度も鼻を突き出して嗅ぎ、大粒の涙をポロポロとこぼしている。
─── ぎゅっ
呆気に取られていたアルフォンスの脚に、女が突如としてしがみついた。
「……な、何のつもりだ」
「間違いない……間違えるはずが無い……。
この匂い─── ああ、世界はそう調律する事を選んだのですね……。わたくしは……浅はかでした……」
「………………一体、何を─── ⁉︎」
─── ズブ……ッ
女は一度身を離すと、自らの右眼を指で穿ち、金色の眼球を抜き取った。
苦痛に顔を歪めながらも、女は呻きを押し殺し、その眼球を手の平に乗せて差し出す。
「浮幽魚の卵を植え付けられた者であれば、このエスキュラの魔眼……お望みの結果をもたらすでしょう……」
そう呟くと、血塗られた眼球は黄色く澄んだ宝玉へと姿を変えた。
アルフォンスはそれが何なのか分からず、ただ困惑して眺めているしか出来なかった。
女はそのアルフォンスの手を取り、宝玉を渡すと、困ったような微笑みを浮かべ……
─── 自らの心臓を、自らの手で貫いた
「な、何をしている! 何のつもりだ‼︎」
「…………グブッ、せ、世界はガハッ……選びました……。わたくしは……やり……なお……」
─── ドサ……ッ
女が倒れると、灰色の塵となり、一陣の風に吹き上げられて行った。
「アルくん‼︎」
呆然とするアルフォンスの背中に、ソフィアが抱きつく。
「…………世界が選ぶ、やりなおす?」
事態が飲み込めず、放心したように呟くアルフォンスの背中で、ソフィアは顔を埋めたまま静かに口を開いた。
「上位魔族は滅びません。魔大陸の『泉』に、時を置いてまた、誕生します。
……彼女はそれを、言っていたのでしょう」
「じゃあ……オルタナスも、復活するのか?」
「はい……。しかし、再び闘えるようになるには、かなりの年月を要します。
魔王が多くの魔力を注げば、話は別ですが……」
─── 魔王。かつて勇者と対立した、魔大陸の王
「魔王が、復活しているのか……?」
「はい。でなければ、魔族が魔大陸を出てくる事は、考えられません」
「……また、聖魔大戦が起こるのか」
ソフィアは答えなかった。
ただ、アルフォンスに回した腕に、力を入れてしばらく抱きついたままだった。
─── 旅を続けましょう。貴方の旅を……
アルフォンスの体から離れた時、ソフィアはただそう呟いた。
※ ※ ※
─── ……パチパチ……パチ……パンッ
焚火の薪が爆ぜた。
バグナスへ向かう峡谷の夜空の下、俺の膝を枕に寝ていたティフォが、寝返りを打つ。
「…………世界は、何を選んだ……」
俺の頭の中は、あれ以来『霧の女王』の言葉で混沌としたままだった。
死体はおろか血の一滴すら残さずに消え去ってしまい、ティフォに記憶を取り出してもらう事も出来なかった。
─── 結局、あの女の言葉の真意は分からずじまいだ
あれから俺達は、避難していた街の人々に、『霧』の騒動が終結した事を伝え、白頭鮫団の団員達に、ダイクの死を告げた。
帰りの船が出てしまっていた為に、今は陸路でバグナスの首都に戻っている途中だ。
「…………エスキュラの眼……か」
手の平の上で、黄色く輝く宝玉を見つめる。
俺達がレーシィステップに到着する以前、避難していた人の中にも死者が出ていた。
最初の襲撃の時に受けた傷が原因で、避難して数日後に帰らぬ人となったと言う。
その遺体には、やはり休眠中の卵があったが、この宝玉をかざすと卵はさっぱりと消えてしまった。
街の人々と相談した結果、一度これをギルドで調べ、新たな町長が決まるまでは、俺が預かる事になった。
……この魔眼とか言うあの女の眼球が、一体何なのか分からず、街の人々にとっても恐ろしい何かでしか無かったようだ。
「眠らない……んですか? アルくん」
テントで寝ていたはずのソフィアが、いつの間にか後ろに立っていた。
「ん、ちょっと考え事してたんだ。ソフィも寝ないのか?」
「はい。私の方は、ようやく落ち着きましたから……」
地底空洞から帰って数日、ソフィアは何かを思い悩んでいるのか、ずっと塞ぎがちだった。
消えていた彼女の神気は、空洞を出た頃にはしっかりと戻っていたが、では何故神気が消えていたのかも聞ける様子じゃあなかった。
「……俺が行く前に、何が……あった」
「やっぱり、私の整理がつくのを、待っていてくれたんですね。ありがとう、アルくん。
全部、お話します。……ただ、触れられない事もあるので……その……」
「うん。話せる事だけでいいよ。俺がどうのってより、今はソフィが話して落ち着ける方が大事だと思うし」
「………………ありがとう……ございます」
彼女は俺の隣に腰掛けて、少しずつ、言葉を選ぶように、地底で起きた事を話してくれた。
妹である、同じ調律の神エルネアの化身が、魔族に囚われ、拷問にあっていたらしい事。
その時の呪詛を使い、ソフィアの権能や奇跡を封じられた事。
そして、その妹の化身は、すでに殺されてしまっていた事。
「彼女も同じ神ですから、化身を殺されても天界にいる本体に影響はありません。
……でも、あの思念から感じた、あの子の苦しみは……とても辛かった」
そう言って、寒そうに肩を縮こめた。
まだショックが抜け切っていないのだろう、顔が少し青ざめているようだった。
無理もない、肉親が拷問を受け、その強い思念を垣間見せられたのだから。
俺はソフィアの肩を抱き寄せ、その頭に俺の頭を寄せた。
彼女はされるがままに身を預けて、俺の手を弱々しく握りしめていた。
「…………彼女は私と同じ調律の神。
私と同じく世界のバランスを調律する使命があります。
─── ただ、彼女の担当は人間中心の人族ではなく、精霊や魔族のバランスを担っているんです」
「…………! 魔族の……?」
「はい。魔族も人ですが、より精霊に近く、人とは性質が大きく異なります。
魔大陸で生まれ生活する彼らは、魔王から与えられる魔力で生きています。
妹は……エルネアは魔界の調律を司る、魔大陸の調律神なのです」
「魔界の……調律神⁉︎ じゃ、じゃあもしかして、魔王って人界で言う所の……」
「 ─── 『適合者』ですね……」
魔王と魔界、そこにも天界の加護が与えられているとなると、やはり勇者の伝承が怪しく思えて来てしまう。
……オルタナスの言葉といい、エスキュラの言葉といい、単に魔王が人界を支配しようとしたとは考えにくくなってしまう。
何せ、女神から選定され、その加護を受けているのだから。
それが人界を滅ぼす為に動くとは考え難い。
「彼らの社会は、人界とは生命の仕組みが大きく異なりますから、人界と魔界とで担当を分けているのです ─── 」
「魔王の守護神、調律神エルネア……か」
「以前彼女が転生したのは、聖魔大戦中、魔族の運命のバランスが崩れかけた時の事です。
人界の適合者は、人々に希望を与え、人界を良き方向へ調律する者……。
─── 魔界の適合者は、魔界の生態系に魔力を与え、魔界を維持する者です。
三百年前、魔界に何が起きたのかは、前任者の帰還が無かった為に不明ですが……今、何かが再び起きようとしてるのは確かです」
「……ハリードのオルタナス、レーシィステップのエスキュラ。
魔族が動き出してるのは確かだしな」
「…………はい。魔王から魔力を与えられて生きる魔族ですから、魔王無しでは侵略を考える事はおろか、魔大陸を出る事も不可能でしょう」
ん? 魔王から魔力を与えられる魔界の生態系、そして聖魔大戦で魔王は勇者に滅ぼされたはずなんだよな?
「ちょっと待って、三百年前に魔王は倒されてるんだろ? それじゃあ今まで魔族はどうやって暮らして来たんだ?」
「はい、確かに先代魔王は、勇者によって倒されました。それは過去のギルド本部の調査でもハッキリしています。
……おそらくですが、直ぐに次代の魔王が現れていたのでしょう。
そうでなければ、魔界は滅びているはずですから。
─── 現魔王がどんな者で、何故今まで沈黙を守っていたのか、何故今動き出したのかも分かりませんが……」
魔王はこの三百年の間も、代を変えてずっと存在していた……!
聖魔大戦以前の魔族の話は、聞いた事がないが、それまで侵略をしてこなかったと言う事は、元々そんなに野心的な種族でもないって事なのだろうか。
「エスキュラの言葉……『世界はそう調律する事を選んだ』って、何だと思う?
ソフィは何か知っている事はある?」
「分かりません。分かりませんが……彼女は妹の事を『裏切者』と憎んでいるようでした……。
この数日、ずっと考えていましたが、何か選定の時に起きたのか、使命を全う出来なかったのは何故か……結局分かりません」
ソフィアの声が震えている。
妹を思う気持ち、女神としての使命に対する責任感が、そうさせているのだろう。
「何が起こったのか俺も想像すら付かないけど、分からない事を悩んでも、苦しくなるだけだよソフィ。
─── 先に進むしかない、そして何か分かったら冷静に今の自分が出来る事を、精一杯やるしかないと思う」
俺がソフィアに選ばれて、魔大陸にもエルネアが現れた。
そして、魔族は三百年の沈黙を破って、人間界に姿を現している。
魔界が人魔海峡で隔てられ、閉ざされている以上は、知りようがない事だらけだ。
真実がどうであったとしても、出来る事なんか限られているだろう。
……なら、少しでも出来る事をより増やす為に、消しようの無い不安は、未来の自分に『何とかなるだろ』って預けるしかない。
「…………旅を続けるしか、無いですね」
「ああ。俺も知りたい事があるし、どうなるかは進んでみなけりゃ分からないけど。
過去は変えられないんだから、やれる事だけやるしかないよな」
父さんの手紙の通り、大きな運命が動いているのは確かだしな。
ソフィアの話を全て聞けるのも、本当の両親に会いに行ってからだ。
その時、何をすべきか大きく動くかも知れないが、その時はその時だと、未来に答えを預けるしか今は出来ない。
「……そうですね。その通りだと思います。
はぁ……本当に、アルくんの近くは落ち着きます……。
一人で悩まないで、最初からこうして、相談させてもらっておけば良かったんですね……」
ソフィアはそう言って、力無くも微笑んだ。
少し、肩の荷を降ろしてやれたのかなぁ。
「……うん。俺も少し、気持ちが楽になったよ。話してくれて、ありがとうなソフィ」
「いいえ。御礼を言うのはやっぱり私の方です。それに……
─── 助けに来てくれた時のアルくんは、その……すごく、かっこよかった……です」
彼女は俺のシャツの袖を、遠慮気味に掴み、うつむきながらそう言った。
おい、なんだこれ、かわいいなおい。
「……そ、ソフィが無事で何よりだよ。必死だったから、よ、よく憶えてないんだけどな。ははは。
それにさ、ソフィが場所を突き止めてくれたから、エスキュラと闘えたわけだし。やっぱりソフィは凄いよな」
「 ─── ほ、本当ですか?」
それに頷くと、ソフィアは首を振るように頬擦りをしてから、俺を見つめて来た。
「じゃ、じゃあ……
あの……『ごほーび』もらうのを忘れてました」
熱っぽく潤んだ瞳が、俺の目をためらい気味に見上げる。
そして、彼女の白く細い腕が、俺の首に添えられ、そのまま彼女の顔が近づいた。
─── ちゅっ ちゅ……
二人の唇が重なり、堰を切ったように求め合う。
このレーシィステップで起きた様々な事を、お互いの温もりで埋め尽くし……
その不安を塗り潰すように ─── 。
しばらくそうして重なった後、彼女は上気した顔で微笑むと、悪戯っぽく囁いた。
「ふふ、本当に『霧の女王』を、素手でやっつけてましたね。
じゃあ、そんなアルくんにも『ごほーび』です」
そう言って、ソフィアの唇がまた、俺に重ねられたのだった。
※ ※ ※
「へいお待ちッ! 『キングロブスターの姿蒸し』と『岩袖鳥の香草焼き』ね」
竹で作られたテーブルに、大皿料理が勢いよく二つ置かれた。
昼の食堂は活気に溢れ、船乗りや漁師風の男達で賑わっている。
レーシィステップを後にして二日目、一つ目の港町に着いた俺達は、名物料理と言われたこの二皿を注文した。
「……これは……とっても……おっきいです……」
ソフィアが子豚程もあろうかと言う、巨大な海老の姿に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
もう言葉もなんか、意味深だ。
真っ赤に蒸し上げられた海老からは、もうもうと湯気が上がり、香りづけに振られた火酒の匂いが鼻をくすぐる。
店員の説明を受けて、その尾をつかんで手で捻り、胴体から外す。
白く瑞々しい身が、更に濃い湯気を立て、鮮やかな橙色の味噌を引きながら姿を現した。
取り外した尾をひっくり返して、内側のやや透き通った軟骨質の殻に、ナイフを真っ直ぐに入れて開く。
最初に生きたまま、香草入りの火酒に浸けられた海老から、胸をすく香りと、新鮮な海老の仄かに甘い香り昇り立つ。
「こいつの味噌を小皿のタレに混ぜて、身をつけて食うんだったな……?」
二人の女神は、目を輝かせて、無言で頷いている。
「よし、身を取り分けるぞ……」
適度に熱の通った身は、ナイフの刃に少しの弾力を返すと、すんなりと刃先を受け入れ、細い繊維を引きながら切れた。
それを三人分に切り分けて、今度は胴体の中の味噌をスプーンですくい取り、タレの入った小皿に分けて混ぜる。
海老の濃厚な香りと、タレの甘酸っぱい香りが、唾液の分泌と胃の動きを一気に活発化させた。
全身が『早く食わせろ』と騒いでいるようだ……!
「「「いただきます!」」」
まず舌先に広がる味噌とタレの、完結し切った旨味が酸味に刺激されて、海老の味をこれでもかと主張する。
白く瑞々しい身は、噛めばプツリとした歯ごたえの後に、仄かな甘味のある芳醇な味を染み出して、口の中で繊維が解けて行った。
最初に広がった味噌の旨味が、より身の素朴な味わいを、強調しているようだ。
その余韻が消えない内に、調理に使われたものと同種の、火酒のお湯割りを、ちょびりとなめる。
「「「くぅ〜ッ‼︎」」」
もうそれしか出なかった。
大皿に浸け合わされたレモンを絞り、塩を混ぜたもので、再び身を頬張る、
今度はより甘く、より歯応えが感じられた。
「れもん、こっちのほーが『エビッ!』って感じ」
「はぁ〜、分かります! 『エビッ!』って感じですよね〜もぐもぐ」
二人とも『エビッ!』の所で、両手をちょきにする辺り、本当に仲がいい。
あるいは神の世界ではこれがマナーなのだろうか?
「でも、タレもすごい。エビの味が、すっごく濃くて『エビエビッ!』って、うーん、なやむ」
「もう交互に『エビッ!』と『エビエビッ!』でいいんじゃないでしょうか」
うんうんと、俺は心で頷きながら、無言で皿に手を伸ばしていた。
ちなみに『エビエビッ!』の時は、小刻みに二回、ちょきを突き出す決まりらしい。
一瞬、一緒にやろうと思ったけど、タイミングを逃してからやりにくくなってしまった。
「こっちも、熱い内に取り掛かんなきゃな!」
暗い色の皿の上に、すでに包丁を入れられた、ふっくらとした肉厚の鳥肉がある。
皮はキツネ色に焼け、焦げが適度に入っていて、表面には数種類のハーブが黒く焼き付いていた。
─── パリッ
フォークで刺した時、歯切れの良い手応えに続き、軟らかな皮の抵抗感、脂肪の無抵抗な僅かな層を通る感触に続き、ぷりっとした肉の弾力が届く。
その一切れを持ち上げると、汁たっぷりな白い肉の上から、皮の脂とエキスが染み出て来るのが見える。
見ただけで分かる『これはあかん奴』感。
「岩袖鳥って、よく海岸の岩場に立ってる、可愛い感じの鳥ですよね?」
「そうそう。ピョコピョコ歩いてて、可愛いんだよな。
……こんなに、こんがり焼けてしまって……」
岩袖鳥は飛ばない。
代わりに泳ぐのが得意で、海岸の岩場に群れで休んでいる様子が見られる。
その姿は海中を飛んでいるようだとも言われているそうだ。
鳥の割に短足で、泳ぐために進化した袖のような羽を、陸上では直立して気をつけの姿勢で脇に垂らしている。
一見、簡単に捕まえられそうに見えるが、いつでも海に飛び込める位置にいて、水に入れば俊敏なので易々とはいかない。
この辺りでは、岩場に罠を仕掛けるか、鉤のついた長い棒で、物陰から脚に引っ掛ける猟をするらしい。
冬の海を泳ぐため、たっぷりと脂肪を蓄えているが、運動量も多いために、肉質はしっかりしている。
「では一口」
鶏肉と比べるとやや臭みを感じるが、その分旨味の強い肉汁が溢れ出て、厚めの皮がパリパリもちもちしていて楽しい。
岩袖鳥が普段、魚を主食にしているからだろうか、何処かそんな魚臭い風味があるが、それを香草が和らげて、むしろ肉の個性として昇華させていた。
岩塩の膨らみのある塩味が、香草と旨味の強い肉の味をキメながら、さらに広げている。
一緒に置かれた小瓶には、輪切りにした唐辛子が沈んだ、琥珀色の液体が入っていた。
「これは……酒と酢が混ざってるのかな?」
それを皿に少し垂らして、肉に絡めて頬張る。
「むおおっ! 別モンだ!」
思いの外、唐辛子が利いていて辛い。
でも、酒の爽やかな酒精と、酢の締め付けるような酸味が、岩袖鳥のクセと脂を一変させた。
まるで旨味のたっぷり溶け出したスープに、香ばしく焼いた肉を沈めて食べているような。
歯応えのよい肉を飲み込んで、残る余韻にはやはり酒。
「くう〜ッ!」
色々と重なり、辛い想いを残したレーシィステップの遠征だったが、今はしばし忘れて美味いものを楽しみたい。
バグナス領の広大な海岸線は、その場所その場所で海の環境が変化している。
それぞれの地域で、取れる海産物も変わると言うからには、やはりそれぞれの味があるのだろう。
─── 旅には、そう言う楽しみがある。





