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新米マフィアのリトグラフ  作者: 成瀬 あゆむ
第一章 就活の終わり、カタギの終わり
1/104

プロローグ お祈りメールと無い内定

初投稿となります。

よろしくお願いいたします。


 ねえ、あなたって“夢”とかあるの?


「夢? 藪から棒になんだよ?」


 ちょっと気になったから聞いてみたの。

 それで? どうなの?


「夢……ってほど大層なもんじゃないけど小さい頃から目指してるものならあるかな。まあ、目標ってやつだよ」


 素敵じゃない! その目標に向かって日夜がんばってるってことよね!


「まあ、そうなるな」


 じゃあ――もしそれが叶わないって知ったらあなたはどうするの?


「あんまり考えたくない話だな」


 世の中には競争があるの。受験や仕事だってそう。競争に晒される限り誰しも望んだ仕事に就ける訳じゃないわ。


「そりゃそうだ」


 世の中にプロ野球選手やパイロットやユーチューバーがあふれるようになったら一体誰がコンビニであなたにおにぎりを売ってくれるの? 一体誰があなたの家にアマ◯ンで注文した商品を届けてくれるの?


「ユーチューバーになれなかった奴なんじゃないの?」


 そうよね。みんながみんな“第一志望”って訳にはいかないわ。

 とある調査によると子供の頃になりたかった職業に就けた人っていうのは全体の一割にも満たないそうよ。

 “将来の夢”っていうのは、それそのものが“大きな壁”としてほとんどの人の前に立ちはだかるの。


「子供の頃の夢なんてそんなもんなんじゃないか? 考えや価値観が変わったり、努力したけど自分の能力に限界を感じたりとかさ」


 そして、そのうち“夢”って言葉自体を使わなくなってしまうの。なんだかちょっと寂しい気がしない?


「そうかもな……」


 でも、その一方で世の中には自分の夢を貫いた人も少なからず存在するわ。きっとすごく努力したんでしょうね。あるいはどうしても譲れないっていう想いがあったんだと思う。

 あなたはどう?

 相応の努力と信念を持って夢を追いかけてる?

 そしてそれは絶対に譲れないものだったりする?

  

「………………」


 すぐに答えが出そうにないならそれでも構わないわ。また今度聞かせてちょうだい。

 それじゃあ、私はそろそろ行くわね。


「ああ」


 あ、そうだわ。

 最後に一つだけ聞かせて。

 


 あなたの“夢”は何――?



◇ ◇ ◇



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 九条優也 様


 先日は、ご多忙の中、弊社の新卒採用面接にお越しいただきありがとうございました。

 厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが、今回は採用を見合わせていただくことになりました。

 ご希望に沿えず大変恐縮ではありますが、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

 末筆ではありますが、九条様の今後のご健闘をお祈り申し上げます。



 株式会社○× 人事部 新卒採用グループ


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 俗に『お祈りメール』と呼ばれるものを前にしてその時の俺は死んだ魚のような目をしていたんじゃないかと思う。


 その紙切れ曰く――「あなたは要らない子」


 昨今の厳しい経済環境も相まって就活生なら誰しも一度ぐらいはこのありふれた文章を目にする機会が多いんじゃないだろうか。しかし、だからと言って好き好んでこんなものを見たいと思う者は誰一人としていないはずだ。

 なんにしてもだ。俺は見事に面接に落ちた。ただ、それだけのことをこの紙切れはご丁寧な文言で書いているに過ぎない。あと何回このありふれたテンプレ文を目にすればいいのか。不採用通知の数に比例して、ため息もまた相応に増えていく今日この頃だった。


「面接官には『自分、採らなきゃ損っスよ?』とまで言ったんですけどね……」

「うん、その一言は余計だな」


 この厳しい現代社会のスタート地点にすら立てない教え子の俺をクラスの担任教師がなんともいたたまれない表情で見つめていた。


「まあ、なんだ……今は景気も悪いしみんなこんなもんだ。気を落とさずに就活を続けていればきっとお前を欲しいと思ってくれる企業が出てくるさ」

「はい、引き続き頑張ろうと思います。何か分からないことがあったらまた相談させてください」


 俺は担任教師との会話もそこそこに切り上げると、職員室から退室してとぼとぼと自分の教室へと引き返した。

 普通科高校の三年生で季節も秋の終わりとなれば、放課後の教室で大学受験に向けてテキストや参考書と睨めっこしながら忙しなくペンを走らせるというのが受験生としてのあるべき姿なであろう。実際に俺のクラスでも熱心に机に向かっている奴が全体の半数以上を占めていた。授業で分からなかったところを友人同士で教え合う者、模試の成績を嘆く者、テスト直前に必ず現れる「全然勉強してねぇ! マジやっべぇ!」なアピールをする者――勉学を巡るクラスメイトの姿は十人十色の様相を見せていた。

 そんな彼らを横目に俺は普段使っている教科書やノートをかばんの中に適当に詰め込んで帰路についた。

 すると、まさにあっという間のこと。見なれた我が家の玄関がいつも通りに俺を迎え入れてくれた。ぼーっと通学路を歩いていたせいか、いつの間にか自宅に着いてしまったらしい。

 不採用通知のダメージが大きかったせいか、帰宅途中に見た風景や今の今まで自分が何を考えながら自宅にまでたどり着いたのか全く思い出せなかった。

 さっそく二階の自室に上がると使い古した通学用のかばんをドサっと机の横に放り投げた。うまく机に寄りかからずに手前にぱたんと倒れてしまう。別に構やしない。

 ベッドに横たわり何の気なしに視線を机の方へ向けると、倒れたかばんの口から教科書やノートの他に一枚の紙切れが顔を覗かせていることに気がついた。

 それは俺が今一番見たくないもの――『不採用通知書』だった。

 かばんの中でいつの間にか他の荷物と一緒にもみくちゃになったのだろう。あちこちにシワができていた。


「これが『内定通知書』ならな……」


 もしそうであれば今頃は慌ててベッドから跳ね起きて机の上でシワを伸ばしていたことだろう。それどころかパソコンを立ち上げて保存用の額縁をア○ゾンでポチッていたかも知れない。そんな未来もあったかもしれないと考えるとまたもや自然とため息が漏れた。


 俺が狙っていた企業は地元でも有名な大手企業の子会社だった。

 初任給こそそこいらの中小企業と変わりないが、将来の安定性やボーナス、福利厚生などを考慮すると普通の中小企業とは比べ物にならない魅力があった。

 そんな優良企業へ入社する千載一遇のチャンスを俺は見事に逃してしまった。それも一度や二度のことではない。既に何社ものチャンスを掴み損ねている。我ながらどうしようもない有様だ。

 ここまで来ると俺は何のために“就活”などという儀式に参加しているんだろうかと、もはやその意義を見出すことすら危うい状況にある。


「ついてないな……」


 誰もいない部屋で天井に向かってぽつりとつぶやいた。


 そもそもの始まりは俺の父親の経営している会社が倒産したことに端を発する。

 小さな会社ではあったが、俺のじいちゃんの代からやっている輸入商社で、バブル時代は珍しい舶来品などを仕入れては大手の百貨店から個人商店など日本全国の店と幅広く商売をしていたそうだ。

 けど、そんなことは今となってはどうでもいい。潰れてしまったから。もう済んだこと。そのことで父さんを恨む気持ちはない。経営のことはよくわからないが、むしろ今までよく頑張った方だろう。母さんも同じ気持ちだったのか、会社を潰したことに対して何一つ不満を漏らしたことはなかった。

 会社の清算手続きを全て終えて自宅へと戻ってきた父さんの顔はまるで憑き物が落ちたかのように晴れやかだった。まあ、なんとかなるさ! その台詞が妙に印象に残っている。我が父ながら若干ノンキなのが実に悔やまれる。

 そんな父さんは今では夜勤の警備員、母さんも以前よりパートの時間を増やしており、今の九条家はなんとか経済的に成り立っていた。


 ――さて、ここからが問題だ。


 そんな経緯から、現在九条家の長男である俺の卒業後の進路に対して、両親から穴が空くほどの熱視線を注がれていた。

 俺は大学への進学を希望していたが、どうも我が家の経済状況がそんなわがままを許してくれそうにないらしい。だが、正直なところこのタイミングでの倒産だけは勘弁して欲しかった。

 就職して働くのはもちろん構わない。俺も最初からそのつもりだ。

 でも……それでも大学にだけは通っておきたかった。そのために今まで勉強に精を出してきた。その努力が実を結ぶこともなく自分の人生のレールが無情にも曲げられることに俺は憤りを感じていた。

 突然の人生設計の変更に巻き込まれて自分なりに納得するまでには結構な時間を要した。

 だが、俺は最終的には自分よりも“家族”を優先することに決めた。


 夢を捨てて新しい人生を歩もう。

 心機一転、新しい道でがんばろう、と。


 ――しかし、現実は俺の思っている以上に非情だった。


 学校の担任を介して送られてくるのは判で押したような『お祈りメール』ばかり。

 そもそもうちの高校は私立の進学校。ほぼ全ての生徒が大学へ進学する。

 俺のような就職希望の学生はここでは“イレギュラー”なのだ。クラスの担任も過去に学生の就職の手伝いをしたことはほとんどない様子。

 採用する企業側も主に工業高校や商業高校を想定して求人を出すようであり、うちみたいな普通科の進学校にわざわざ求人など出すことはなかった。

 なんとかして求人を探してもらうが、どれも聞いたことがないような中小企業ばかりでどうも食指が動かない。

 稀に誰でも聞いたことがある有名企業や大企業の名前が社名に含まれている求人があったが、やはりこの不景気もあってか採用人数は少なく競争率もかなりのものとなっていた。

 俺は会社経営者だった父さんの失敗を見てきたからか、無意識のうちに大企業や有名企業の求人ばかりに応募していた。安定を求めていたのだ。

 担任からもそのことを指摘されたが、やはり就職するのなら安定した大企業や有名企業がいいに決まっている。誰が好き好んで無名の中小企業に行きたがるのか。今までも中小企業への応募を勧められたがのらりくらりとかわしてきた。


「企業情報が少ないのでもう少し調べさせてほしい」

「他に魅力的な求人を見つけたので今はそちらに集中したい」


 ただ、そんなポーズももはや必要なくなってしまった。前回不採用となった企業を最後に求人がぱったりと途絶えたのだという。

 担任の教師は申し訳なさそうに言う。


「九条、これからは自分で求人を探す必要がある。学校側としても求人は探し続けるけど、いつ求人が出てくるかはわからない。だから、お前の方も積極的に求人探しに動いたほうがいい」

「自分で探すって言うと具体的にはどうやって探すんですか?」

「ハ○ーワークだ」



◇ ◇ ◇



 俺は自宅へと続いている川沿いの道をとぼとぼと歩きながらこの一週間の出来事を頭の中で思い返していた。


 結論から言うとハ◯ーワークは“ハズレ”だった。


 ハロワの職員に自分の希望を伝えてみても大企業、有名企業の求人はおろか新卒の正社員の求人自体が少ないのだという。それでも相談に乗ってくれた職員は「良い求人がありますよ!」と、どこぞの中小企業の求人を自信有り気に進めてくる。


 まったくもって興味がわかない。

 俺が行きたいのはそんな会社じゃない。


 しかし、だからといってハロワでの就活をまったくしないわけにもいかない。それからというものの俺は学校帰りに自宅のパソコンとにらめっこの日々が始まった。

 一度、ハロワに登録してしまえば、正式な応募手続きを除いて自宅で求人の検索ができるらしい。

 気になる求人票を見つけたら求人番号をメモってハロワの端末で求人票をプリントアウトする。その求人票をもって窓口で応募する――という流れだ。

 既存の求人はもちろん新規に掲載された求人を眺めながら応募するかどうかを検討していく。検討するとはいっても、実際のところは「この会社に入社したい」ではなく「この会社で妥協する」か否かを判断しているようなものだった。

 まさにドブの中からゴミクズを浚うようなもの。今時の就活とはこんなにも陰鬱なフィルタリング作業を強いられるのか……。

 その一方でクラスの友人たちはみんな大学受験に向けて猛勉強中だった。

 受験が終わり来月の四月を迎えれば、みんな下ろしたてのスーツに身を包んで桜舞うキャンバスで入学式に臨み、その後は楽しいキャンパスライフを過ごすのだろう。めっちゃ羨ましい。みんな浪人すればいいのに――などと不貞腐れてみたりもした。

 それに比べて俺は仮に運よく就職できたとしてもどこの馬の骨ともわからん零細企業でキャリアをスタートさせる可能性が非常に高い。

 残業代、ボーナス、福利厚生……ちゃんとあるんだろうか? 近頃は『ブラック企業』という社員を低賃金でこき使い、あまつさえ過労死させてしまうような企業が幅を利かせているようだが、そんな企業だけは絶対に避けなければ……。

 今度こそはと意気込みながらいつものように自宅のパソコンで検索してきた求人番号をスマホのメモ帳に控えた。その番号を元にハロワの端末でいつものように求人票をプリントアウトした。

 印刷した求人票をもとにハロワのスタッフへ応募の手続きを依頼するため、再度募集要項や待遇面に目を通していた時のこと。俺はふと奇妙な点に気がついた。


「あれ…………“六枚”だっけ?」


 五枚目の求人票に目を通し終えたところで、俺は下にもう一枚の求人票にあることに気がついた。

 さっき確認した時は求人は五件だった。それならば当然、求人票は五枚印刷されるはずなのだが……。

 俺は覚えのない求人票を手に取りその内容を確認する。


「なんだこれ……?」


 それは確かに求人票だった。いや、求人票ではあるのだが、そこに書かれているものが問題だ。

 

 会社名・会社所在地・職種・仕事の内容・雇用形態・給与・賞与・就業時間・休日・従業員数・創業年・事業内容――


 会社と待遇の基本的な情報は全て記入されている。ただし、それはとても読めるような代物ではなかった。およそ文字の体を成していない。ぐちゃぐちゃに潰れていた。おそらくは文字化けか何かだろう。自分の前にプリンターを使用した人間がそのままトレイに置きっぱなしにして、それに気づかなかった俺が一緒に持ってきてしまったのだろう。

 俺はそれ以上気にすることなくその求人票をくしゃくしゃに丸めて近くにおいてあったゴミ箱に放り込んだ。



◇ ◇ ◇



「で、就活はどうよ? 上手くいってるか?」


 クラスの気の置けない友人からの一言だった。


 受験勉強に勤しむ彼からすれば、高校を卒業してすぐに就職をしようとしている俺は物珍しいのだろう。他にも何人か同じようなことを聞いてくる奴がいた。

 しかし、現在の俺は就活戦線に異常を抱える身であるからして、とても興味本位で質問してくる奴らの相手をしてやるような気分ではなかった。



「全然ダメ。ここ最近はハズレだらけだよ」


 正直、就活の話なんて今はしたくない……。

 そんな気持ちを押さえ込んで愛想笑いを浮かべながら答えた。


「たまには息抜きでもしようぜ。カラオケなんてどうよ?」

「悪いな、今日も家で面接の志望動機考えなくちゃなんないんだよ。また今度な」


 就活のせいか最近は友人との付き合いもすっかり減ってしまった。いや――本当は付き合ってもよかったんだがどうにもそんな気分になれなかった。

 今日は早めに家に帰ろう。なんだか最近嫌に疲れている。俺は友人との会話もそこそこに鞄を片手に家路についた。今日も新規掲載された求人が俺を待っている。


 自宅に戻るとシャワーを浴びて自室に閉じこもった。

 早速、新規の求人を探さなければならないところではあるがどうにも気が乗らない。机の上には無残にも選考から落ちてしまった企業の求人票が積まれていた。

 シャワーを浴びて身体はスッキリしたもののどうにも気分が晴れない。これが“就活鬱”というやつかと不安が募る。

 気だるい身体をベッドから起こしつつなんとかパソコンデスクの前によっこいせと着座。先日、ハローワークから持ち帰った応募中の求人票の束に目を通した。ハ○ワの職員が新卒者向け求人を独自にピックアップしてくれたものだった。

 もしかしたらこの中に俺が卒業後に入社する会社があるのかもしれない。だが、決して積極的に志願するわけではない。むしろこんな状況でなければ即効で願い下げにしてやる企業だ。

 そんなことを考えながらいまいち焦点の定まらない無気力な眼で求人票を眺めていると、あるところで求人票をめくる手が止まった。


「またかよ。これ……」


 手元には、先日の“印刷ミス”の求人が挟まっていた。例によってその文字は糸ミミズが這ったようにぐちゃぐちゃ。

 ずいぶんおっちょこちょいなパソコンがハロワにはあるんだなと思いながらも何の気なしにその求人に目を通していた。当然読めやしない。


「これが有名大企業の求人だったら良かったのにな……」


 誰にともなく、寂しく独りごちた。


 俺はその求人を先日と同じようにくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ込んだ。少し距離はあったが、きれいにゴールが決まる。ちょっとだけ嬉しかったが、すぐに自分を取り巻く今の現実に引き戻されて再び暗い気持ちに覆われた。



◇ ◇ ◇



 そして、その翌日――。


 いつもと同じようにハロワに顔を出していると、求職者の相談窓口が横一列に並んでいるフロアで突如男の怒鳴り声が上がった。


「フザケんじゃねえよ!!!! いっつもいっつもいっつもいっつも!! こんなカスみてぇな求人ばっか紹介しやがって!! お前、俺のことバカにしてんだろ!? ああぁ!?」

「お客様、落ち着いてください。そんなつもりは一切ございません」


 何事かと思い声のする方を振り向くと――俺のすぐ近くの席で興奮した中年男性が椅子から立ち上がってメガネをかけたこれまた中年の男性職員の胸倉を掴んでいた。


「いいよなぁ!! 公務員様はよぉ!? 適当に俺らみたいな食うに困った連中のお守りしてりゃあ税金でメシが食えるんだからな!!」


 周囲の人間の大半は目を丸くしてその様子を呆然と眺めているが、一部の者は我関せずという体で何事もなかったかのように求人探しを継続している。せいぜいがその男に冷ややかな視線をちらりと向けるだけだ。

 その様子がトラブルに関わらないようにしようという大人の振る舞いというよりも、他人のことなどはなっから眼中になく、ただ明日の我が身のことしか眼中にない酷く利己的な姿も見えた。事実、彼らの大半は無職だろう。尻に火がついている。


「再就職が上手く行かずに苦労されてる方は他にもたくさんいらっしゃいます。私も引き続き全力でサポートしますのでここはどうか落ち着いてください」


 男性職員はこういったトラブルも過去に何度か経験しているのだろう。年齢と実務経験を重ねているらしき手慣れた対応が窺えた。

 しかし、怒りのリミットが頂点に達している男にとってはその冷静な対応がむしろ癪に障ったらしい。

 自分はこんなにも必死に怒りと憤りの感情をぶつけているにもかかわらず、目の前の人間には何一つ響いていない。自分の望んでいた反応が得られずに肩透かしにあったように感じてしまったのだろう。その不幸なすれ違いが悲劇を生んだ。



「きゃあああああああああああああああああああっ!!!!!」



 突然のことだった。

 フロアの空気を切り裂くかのような女性の甲高い叫び声が響き渡る。

 俺はもちろんのこと、さすがに今度ばかりは周囲の無関心だった求職者もその手を止めて視線を上げた。


「な…………っ! あ……あぁ…………!」


 本来ならば悲鳴を上げるべきはその男性職員だった。しかし、突然のことに頭が追いつかず、自分の腕をもう片方の手で押さえながら目を何度もしばたたかせるのみ。



 彼の腕からは真っ赤な鮮血が滴り落ちていた――。



 二の腕から滲み出る血がそのまま下に伝って行き指先からぽたりぽたりと床に落ちる。それに従いフロアカーペットに無数の赤い点が一つまた一つと増えていく。男性職員が着ていた白のワイシャツもみるみるうちに赤く染まって行った。


 悲鳴と血を流した職員。

 そして――サバイバルナイフを手にした男。


 この三点が揃えばどれだけ鈍感な人間でもこの異様な状況を瞬時に飲み込めることだろう。

 周囲の人間は堰を切ったかのように悲鳴を上げて逃げ出した。

 自分の生活の危機を打開すべくこの場を訪れた人たちは、今度は自らの命の危機から逃げ出すべく一斉に出口を求めた。

 だが、そんな周囲の喧騒などお構いなし。ナイフ男の怒りは収まるところを知らない。助走をつけつつカウンターを乗り越えての追撃。親の仇と言わんばかりの形相で男性職員を追いかけ回していた。

 今の今まで唖然としていた他の職員も今度ばかりはこれが洒落にならない事態であることをようやく認識したらしく、蜘蛛の子を散らすように奥の職員専用フロアへと引っ込んで行った。

 そして、肝心の俺はと言うと――ナイフを手にした男を見ながら「刃渡り十五センチぐらいかな」とか「刃の反対についてるギザギザで頬を撫でられたら痛いだろうな」とか「こいつら、逃げるのと同じぐらい必死に就活したらどっか一社ぐらい内定採れるんじゃね?」とか、そんなのんきなことを考えながら未だに記入台の上で求人票を広げていた。

 どうしてそんなにのんびりしていたのかというと、この突然のシチュエーションに他でもない俺自身が周囲の人間ほど危機感を募らせていなかったのが原因だった。

 お前こそノンキか、と言われればまったくもってその通りだが、ナイフ男はどこにでもいそうな中肉中背のフツーのオッサンだった。

 そんなオッサンが振りかざすナイフなどピチピチの現役高校生の俺からすれば造作もなく避けられる自信があった。非運動部員とはいえスタミナでも腕力でも劣る要素は全く存在しない。そう、俺は舐めていたのだ。さらに言えば、もう少しだけこの非日常でスリリングな状況を間近で眺めていたいという好奇心も少なからずあった。中年のおっさんが俺の鬱憤を代弁してくれているような……一種のシンパシーみたいなものを少なからず感じていたのだ。

 だが、そこではたと思い付く。こんな状況じゃ今日は求人の申込みなんて到底できやしないじゃないかと。もしかしたら明日も捜査のために一時休業なんてことも十分にあり得る。そこまで考えが到ってははぁとため息など一つ。

 ちらりと視線を横に向けると、瞬間的にごった返していた出入口は逃げ惑う人々のほとんどを飲み込み終えたらしく、残りはナイフ男の隙を見て出口に駆け込もうとする人が数名いるだけだった。


「俺もそろそろ行くかな……」


 広げていた求人票をカバンに詰めると俺も出口に向かった。


 しかし――


「うわああああぁぁぁ!! く、来るなぁぁ!!!!」


 タイミングが悪かった。


 しかも、そんじょそこらの悪いじゃない。


 人生最悪と言ってもいいくらいのすんげぇ間の悪いやつだ。


「えっ――」


 振り向きざまに俺の隣を先ほどの男性職員が走り抜けた。

 彼が俺の横を駆けるに応じて生じた風――それを感じた直後だったと思う。


 違和感を感じた…………いや、これは誤用か。

 違和感を“覚えた”が正しい使い方だ。

 そう言えば俺って今日ここに仕事を探しに来たんだったよな?

 でも、大した求人が見当たらなくて、それでも手元にあるものだけでも応募しておこうと思って、そんで何処にでもいるオッサン(無職)がトチ狂ってナイフを振り回したから応募手続きどころじゃなくなって、そしてどういう了見だか知らないが、俺の脇腹にあのサバイバルナイフが突き刺さっていて……



「何だよ……これ…………」



 脇腹を押さえた自分の手がべったりと血で染まっていた。


 そのことだけは今でもはっきりと覚えている。


 そして、俺にとってはそれが人生で最期の瞬間でもあった――。

しばらくは毎日投稿できるようにがんばります。

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