第9話 異常な平穏
「すべてはトラブル本人が決める」
と、返事をして電話を切った。
トラブルは自宅に向けてバイクを飛ばしていた。
(こんなのよくあること。いままでだって乗り越えて来た。だから男は嫌いだ。私は大丈夫。対処できたじゃないか。問題ない。私は大丈夫……)
ふと、メンバー達の顔が思い浮かぶ。
1番見られたくない人達に見られてしまったと悔やまれる。
(ショックだったろうな……でも、私は大丈夫。よくあること。私は大丈夫……)
パク・ユンホは代表から連絡を貰い、事の詳細を知った。
トラブルはまだ帰って来ていない。
パクはしばらく考え「すべては本人が決める」と、返事をして電話を切った。
パク・ユンホの家は郊外の、決して裕福とは言えない町の一角に建っていた。
昔ながらの現像室のある写真館と最新のプリンターが並ぶ工房、事務所に自宅が併設されており、何人ものアシスタント達と暮らしていた。
自室と続きになっている専用の作業室があり、パク・ユンホの作品とカメラが所狭しと並んでいる。
その作業室の隣がトラブルの部屋だ。
お手伝いさんもあまり入らない部屋。
トラブルと親しくするのは何となくタブーとされていた。なにより本人が人と関わろうとしない。
昼食時、アシスタント達が食べ終わった後、台所にすっと入って来て、お手伝いさんから「あんたの分だよ」と、皿を受け取り、立ったまま口にかき入れ、ペコッと頭を下げて出て行く。
「ああ、チョコレートケーキ買ってあるよ」
冷蔵庫から取り出して渡すと、嬉しそうに受け取り、自分の部屋に戻って行く。
「え? 嬉しそう?」
「全くそうは見えないけど」
他のアシスタント達には分からないが、長年、勤めているお手伝いさんには分かる。
初老の彼女はトラブルが好きだった。
玄関の靴を皆の分も揃える。ゴミがたまっていると袋を変える。風呂は最後に入り、浴槽を洗って出てくる。洗面所を使ったら水しぶきを拭き取る。
誰の洗濯物か分からなくなった時に、あの人のと、指を差して教えてくれた。
皆と目を合わせないが、皆の事をよく観察し、よく知っている。
夕飯に魚料理を出したとき、筆談で『もう一人前余っていますか』と、聞いて来た。
確かにその料理が嫌いなアシスタントがいて一人前余っていたので食べてくれて無駄にならずに済んだ。
さりげない気遣いをいつもしてくれた。
最近は、溶接やフォークリフトの本を読んでいるようだ。
(何やってんだか……)
整理整頓され、私物の少ない部屋に掃除機を掛けながら肩をすくめる。
「嫁だったら完璧だよ」
そう言っても誰も賛同はしてくれない。
彼女はトラブルが喋られるようになればいいのにと、思っていた。
トラブルはヘルメットを脇に抱えて帰宅した。いつもの様に何も言わずに自室へ入って行く。
翌朝。
朝の血圧と血糖測定の際、パクはトラブルの首に一筋の傷を見つけた。
「その首、どうしたのだね?」
トラブルは手話で答えた。
壁紙を切るカッターの刃を折り、飛ばしてしまいました。
「ふーん」
パクはそれ以上何も聞かず、会話を終わらせた。
今日はメンバーのオフ日なのでパクは休みだ。
トラブルはゴンドラの動作テストをするからと、出掛けて行った。
ソン・シムは「あのバカ、無断欠勤か?」と、怒りながら新人に電話していた。
一方の新人は布団の中で頭を抱えていた。
(何てバカな事をしてしまったのだろう。もう、俺は終わりだ。逮捕される。人生終わった。何も死のうとしなくてもいいじゃないか。廊下に誰かいた気がする。目撃された。あー、俺はおしまいだぁー!)
突然の着信音に驚いてスマホを見ると、ソンからだった。警察が会社に来たんだと、新人は戦々恐々として 電話に出る。
「もしもし……」
「こらー、新人、寝坊か? 遅刻だぞー。具合でも悪いのか? 休むなら連絡してこいよ」
いつもの様子で話すソンに、調子を狂わせながら「あ、えっと、風邪を引いたので2、3日休みをください」と、やっとの思いで答える。
「おー、お大事にな」
通話を終わらせ、新人は訳が分からないと首を振る。
(トラブルは何も言ってないのか……)
「あのバカ、風邪だってよ」
「なんだよー。忙しいのによー」
大道具達は口々に文句を言いながら仕事に戻る。
まさか自分の残業命令で恐ろしい事が起きていたなど、ツユほどにも知らないソンは「メイク室は使えるか?」と、トラブルに聞いた。
「鏡を取り付けたら、すぐ使いたいそうだから掃除もしておけよ」
トラブルはペコッと頭を下げて、階段でメイク室まで昇る。
(よかった……誰もいない)
トラブルは掃除を始め、ふと、気が付いた。
(あのカッターナイフは……確かこの辺りに投げ捨てたはず)
しかし、見当たらない。
仕方なく手早く掃除を済ませ、keep outのテープを拾いドアを閉める。
ゴンドラの動作テストを行う為に、1番広いスタジオに装置が組まれていた。
ゴンドラと言っても折りたたみ式の大きな箱で、舞台の真ん中から2・3人乗り、1階席の観客の頭上を通って2階席まで真っ直ぐ上がり、また、舞台へ真っ直ぐ降りてくる単純な物だ。
台湾のコンサート会場はそれほど広くないので、この動きで充分と判断された。
実際の高さと距離はまるで違うが、まずは動かしてみる。
「ちょっと、早いな」
ウィンチの速さを調節してスタッフの1人が乗ってみる。
4本のワイヤーで吊られているので安定はしているが、停止前の減速が足りず、停止した後、箱が大きく揺さぶられた。
「うわぁ! やばいっすよ、これ!」
とてもじゃないがメンバーを乗せられる代物ではない。
「下りは重さで加速しますね」
「舞台に激突しそうっすよ」
調整と試行錯誤が続く。