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四、 証言

          1

 カティナとアリエス4のコラボによるコンサートが開催される当日、霧子はその会場にはおらず、別な場所にいた。

 会場から遠く西の郊外に建つガラス張りで近代的な八階建ビル。

 “ムツ・メディカルセンター”という看板を掲げたそのビルの中に霧子は姿を現した。アイボリーを基調とした清潔感を漂わせるエントランスの中を見渡しあと、霧子は受付カウンターに向って歩いて行った。

 カウンターの前には職員の女性がなにかを一生懸命書き写していた。

 「すみません。」

 霧子の声に女性はその丸い顔をあげた。

 目の前に霧子の微笑んだ美しい顔がある。

 「いらっしゃいませ。検診でしょうか?」

 女性も微笑み返す。

 「いいえ、警視庁広報課の小田切といいます。」

 そう言いながら小田切という名前の入ったニセの身分証明書を見せた。

 「警視庁?」

 そのワードと身分証明書に受付の女性が目をみはった。

 「警視庁の会報の取材で来たんですけど、所長さんからは聞いていませんか?」

 「しょ・少々お待ちください。」

 動揺を抑えながら女性は内線電話をとってボタンを押した。

 相手が出ると、小田切と名乗った霧子のことや取材のことなどを伝えた。電話口で何度も相槌を打ったあと、女性は受話器を置き、ふたたび顔を霧子に向けた。

 「確認しました。いま秘書の方がお迎えにまいりますので。」

 「ありがとう。」

 しばらく待っていると秘書らしき背の高い女性がエレベーターから降りてきた。女性はまっすぐ霧子の立つ受付カウンターにやってくると微笑みながら右手を差し出してきた。

 「広報課の小田切さんですね。秘書の白石(しらいし)です。」

 「小田切です。よろしくお願いします。」

 軽く握手をすると微笑みを崩さぬまま白石は霧子に案内するしぐさを見せて前を歩き始めた。

 いま降りてきたエレベーターに共に乗り、八階のボタンを押すとエレベーターは軽い機械と震動を伴って上に登り始めた。その間、白石は一言も口をきかない。

 「あの、所長さんはどのような方ですか?」

 無言にたまりかねたように霧子が口を開いた。

 「お会いすればわかります。」

 操作盤に体をむけたまま白石はぶっきらぼうに答えた。

 そうこうしているうちにエレベーターは目的の階に着き、ドアが開くと白石はさっさと歩き始めた。霧子はため息をつきながらその後を追った。

 廊下の突き当たりに木製のドアがある。

 所長室のプレートが金色に輝いていた。

 白石はその前に立つとドアをノックした。

 オフィス・ワンと作りが同じだと思った時、ドアの向こうから返事が聞こえた。白石はそれに促されるままドアを開けた。

 中もアイボリーを基調とした清潔感溢れる空間が広がっていた。

 「所長、警視庁の小田切さんをお連れしました。」

 「やあ、よくいらっしゃいました。」

 奥に備えたシンプルな作りの机の前からひとりの中年の男性が近寄ってきた。

 「所長の鈴本(すずもと)です。」

 白いものが頭に交じっているが、端正な顔立ちの男だ。

 「広報課の小田切です。このたびは取材に協力いただきありがとうございます。」

 昔は二枚目で通っていただろうな、と思いながら霧子はバックから名刺を取り出し、それを渡した。鈴本はそれを指の長い手で受け取り、かわりに自分の名刺を差し出すと満面の笑顔でソファに座るよう勧めた。

 「所長、私はもどりますが、他に御用は?」

 「お茶をたのむ。」

 ソファに座りながら鈴本は白石にも笑顔を向けた。白石は一礼すると部屋から出ていった。

 「会報の取材でしたね。」

 「はい、今月から健康についての特集を組んでまして、各所の病院や大学などを取材をしています。こちらは都内でも有名な予防医学センターと伺い、所長さんに取材を申し込んだしだいです。」

 霧子はよどみなく取材の趣旨を話した。もちろん、すべてデタラメである。

 「わかりました。私でできることは協力いたしますよ。」

 そこへ先ほどとは別の女性がお茶を二つ持ってきた。

 「では、さっそくですが…」

 女性がお茶をテーブルに置いていったあと、霧子は持ってきたバックから手帳を取り出し、身を乗り出すようにして所長に取材をはじめた。

 小一時間ほど話を聞いた後、協力の礼を言って霧子は立ち上がった。

 「あと、センターの中を案内していただけると嬉しいのですが。」

 「よろしいですよ。」

 そう言うと鈴本は机に歩み寄り、受話器を取るとある番号を押した。呼び出し音のあと、受話器の向こうから白石の声が聞こえてきた。

 「あ、白石君。小田切さんが帰るそうだが、帰りがてらセンター内を案内してくれるかね。」

 了解の返事を聞いて受話器を置くと、鈴本は霧子の方を向いてまた笑顔を見せた。

 「いま、秘書が参りますからその者に案内してもらってください。」

 「ご配慮、痛み入ります。」

 霧子も微笑みを向けると右手を差し出し、鈴本と握手をした。そこへ白石が部屋に入ってきた。

 「それでは所長、失礼いたします。本日はご協力ありがとうございました。」

 深々と頭を下げた後、霧子は白石とともに部屋を退出した。

          2

 霧子は白石の案内でセンター内をあちこち歩き回った。案内には慣れているようで白石はよどみなくセンター内の各フロアの説明やセンターの沿革などを霧子に話していった。

 「センターには何人くらい職員がいらっしゃるのですか?」

 「約三百人です。」

 「けっこういらっしゃるのですね。」

 霧子は驚いたそぶりを見せた。

 「検診だけではなく、健康相談や各種の検査も行っていますから。」

 「検査?」

 霧子が関心を示した。

 「ええ、血液検査や画像検査などを当センターで行っています。外部の依頼も受けていますよ。」

 白石が得意気に話した。

 「数多く受けているのですか?その検査というのは。」

 「おかげさまで方々から信頼を受けています。」

 「あれがその検査をするところですか?」

 そう言って霧子は窓越しに見える同じ高さのビルを指差した。

 「はい、あの別館が当社の検査研究センターです。」

 白石の顔に誇らしい表情が現れ、鼻も少し高くなったような様子である。

 「こちらからはいけるのですか?」

 「ええ、一階からと四階と七階に渡り廊下があります。ただ、防犯上関係者以外は入れませんが。」

 「そうでしょうね。いろいろ教えていただきありがとうございました。」

 霧子と白石はエレベーターで一階に降りていった。

 「あらためて取材に協力いただきありがとうございました。会報ができましたらすぐにお送りいたします。」

 「ご苦労様でした。」

 「これで失礼します。…あの、おトイレはどちらでしょう?」

 「あちらになります。それでは私は失礼いたします。」

 トイレの場所を指し示した後、白石はエレベーターの方へ歩いて行った。霧子は示されたトイレに行くと、個室のひとつにはいり、バックから小さな黒い箱のようなものを取り出すと箱の上にあるボタンを押した。赤いランプが()くのを確認してそれを便器の陰に置いた。

 そうして霧子はトイレから出ると玄関には向かわず、階段を登り始めた。

 四階まで登ると辺りに注意を払いながら女子更衣室と書かれた部屋に入っていった。中にはロッカーが立ち並び、その扉のひとつひとつを開けていった。

 やがて、鍵がかかっているロッカーに当ると霧子はその鍵穴に手をかざし、精神を集中させた。鍵穴の中からカチャカチャと動く音がしたあと扉は訳もなく開いた。

 中には白衣がかかっている。

 「ビンゴ」

 口元に笑みを浮かべたまま霧子はその白衣を取り出し、肩にかけたバックの中からコインのたばとボールペンのようなものを取り出し、それをポケットにねじ込むと、バックはロッカーの中に放り込んだ。

 白衣を羽織り、そのポケットの中を探るとストラップのついたカードが出てきた。それを首にかけながら霧子は更衣室から廊下に出た。

 カードに書かれている名前と写真を確認してそれを胸ポケットにしまい、先ほど教えてもらった検査研究センターに通じる渡り廊下へ向かった。

 渡り廊下の入り口はガラスドアに遮られており、その傍らにはICカードの認証装置が取り付けられていた。

 「さて、うまくいくかしら。」

 胸ポケットにしまってあったカードを取り出し、ストラップを首からはずすと霧子はそのカードを認証装置に差し込んだ。

 軽い電子音のあと扉の鍵が開く音が聞こえ、ノブをまわすと簡単に回ってドアが開いた。

 「今日はついているわね。」

 満足そうな顔しながら霧子は堂々と研究センターに入っていった。

 センター内は人の往来が意外と少ない。皆、部屋にこもって仕事をしているせいであろうか。そんなことを思いながら霧子は堂々と廊下を歩いて行った。

 「あ、ちょっと」

 霧子は前から歩いてきた眼鏡の女子職員に声をかけた。

 「グラス博士はどちらかしら。」

 突然、声をかけられ多少驚いた様子の彼女に霧子は高飛車にたずねた。

 「グラス博士ですか?たぶん上の研究室にいると思います。」

 霧子の態度に圧倒されたように彼女はオズオズと答えた。

 「上の研究室?」

 わざとイラついた表情を見せた霧子に女性職員は身を縮めた。

 「八階にある博士の研究室です。エレベーターを降りた左側です。」

 女性は霧子の機嫌を損ねないようにくわしく教えた。

 「ありがとう。」

 霧子は笑みを彼女に送ってエレベーターホールへ向かった。それを見て彼女は安心したように大きく息を吐いた。

 「だれだっけ?」

 そんな小さな疑問を残したまま彼女は階段を下りていった。

 

 霧子はエレベーターに乗ると八階のボタンを押した。特有の機械音と軽い震動のあとエレベーターは上に登りはじめ、一分ほどして目的の階に到着した。

 ドアが開くがすぐには降りない。

 慎重に周りの様子を伺い、監視カメラの位置を確認し、ゆっくりとエレベーターを降りた。

 できるだけカメラの死角となるところを歩きながら尋ね人の部屋の前に立つと、[Dr.Glass]と書かれたプレートのついたドアをノックした。

 「come in(どうぞ)

 すぐに返事が返ってきて、霧子は拍子抜けした思いでドアを開けた。

 中は結構広いはずだが本や実験器具、検査機械などが部屋のスペースを狭めている。その真ん中に顕微鏡をのぞいている当の本人がいた。

 「資料はそこに置いておいてくれたまえ。」

 助手のだれかと勘違いしているらしく、英語で指示してきた。

 「資料をお持ちしたわけではありません。」

 霧子も英語で返答した。

 聞きなれない声にグラスはやっと顔を上げた。

 「君はだれだ?」

 見慣れない、しかも美人の霧子にグラスは好奇心と疑惑の交じった表情を見せている。それを微笑みで返しながら霧子はグラスのそばに近寄った。

 「はじめまして。グラス博士。キリコ・エッシェンバッハと申します。」

 「キリコ・エッシェンバッハ?」

 好奇心は警戒心に変わった。

 「FBIの捜査官です。博士を連れ戻しに来ました。」

 「連れ戻す?私をか。」

 グラスは何か思い当たることがあるのか、キリコから逃げるように後ずさりをした。霧子はグラスを逃がさないように肌が触れるほどに近づいた。

 「私はアメリカに帰るつもりはないぞ。」

 抵抗を見せながらグラスの手が自分の机の下をまさぐった。それに気がついた霧子は顔をグラスに向けたままその腕をつかんで自由を奪った。

 「博士が自分の意志で日本に来たことは知っています。しかし、向こうの研究所が博士に戻ってきてほしいと願っているのです。」

 「いまさら帰ってくれなど虫が良すぎる。」

 霧子に握られた腕に痛みを感じながらグラスは吐き捨てるように言った。

 「力づくでも戻ってもらいます。」

 「FBIがそこまでやるか?」

 グラスは疑いの目で霧子を見た。

 「とにかくいっしょに来て。」

 そう言って霧子はすばやくグラスの背後に回るとつかんでいた腕を後ろにねじあげた。そして、ポケットから例のボールペンのようなものを取りだし、ペン先をグラスの首にあてた。

 「おとなしくして。このペン先には毒針がしこんであるの。刺されば十秒で死ぬわ。」

 その脅しにグラスの顔に緊張が走り、全身が固まった。

 「言うことを聞いてくれたら殺しはしないわ。」

 「聞かなかったら…」

 「言うことを聞かなければ消してもいいって言われているの。あなたの研究を外部に漏らさないためにね。」

 その冷酷な言葉にグラスの全身に冷たいものが流れた。

 「さ、ここを出るわよ。」

         3

 同じころ、警備室は騒然としていた。

 「不審者が侵入しただと?」

 警備主任の輝満(てるみつ)が鋭い眼差しで室内にいる警備員を睨みつけた。

 「休暇中の者のICカードが使用されて研究センターに入室した形跡があります。」

 「出勤状況は?」

 「その者の出勤は確認されていません。さきほど連絡したら自宅にいました。」

 緊張の面持ちでひとりの警備員が輝満に報告した。

 「つまり、そいつのICカードを使って勝手に入室したものがいるということか?」

 「そう思われます。」

 「思われますだ!?そう思うなら早急に侵入者を特定して捕まえろ!」

 「は・はい!」

 一喝されてその警備員は急いで室内から出ていった。

 「侵入経路はどこだ?」

 操作盤の前に座る男の背もたれを掴むと輝満はモニターを見ながらたずねた。

 「四階の渡り廊下から侵入したようです。いま監視カメラの画像を再生します。」

 操作盤のボタンを押すとひとつのモニターに霧子の姿が映った。当然、輝満は知らぬ女である。

 「こいつか?どこへいった。」

 「どうやらエレベーターに乗ったようです。」

 エレベーターに乗り込む霧子の姿がはっきり映っている。そのあと、エレベーター内の画像も映し出された。

 「何階のボタンを押したかわかるか?」

 「拡大してみます。」

 モニターの画像が拡大され、八階のボタンのランプがついているのがはっきり確認された。それを見て輝満は傍らにあるマイクを手にとった。

 「侵入者は八階だ。全員八階に向え。」

 そう言ってマイクを切ると輝満も警備室から出ようとした。が、そのとき何かを思いついて後ろを振り向いた。

 「その女をモニターで監視続けろ。そして、逐一おれに報告しろ。」

 「わかりました。」

 そう言い残して輝満は警備室を出ていった。


 霧子とグラスは身体を密着させながら部屋から廊下に出た。そして、グラスに歩くように促しながらエレベーターへ向かった。

 そのとき、突然の殺気が霧子の背中を貫いた。

 「止まれ!」

 続いて威嚇の声が後ろから浴びせられた。

 振り向くと黒い制服を着た屈強な男がH&KP7を構えて岩のように立っていた。

 「手をあげろ。」

 (ばれたか。)と心の中で舌打ちしながら霧子はボールペンを持ったまま両手を上げた。その隙にグラスは霧子の元から離れる。

 前にはいつのまにか二人の警備員がこれも同じ銃を構えて立っていた。

 「おとなしく壁に両手をつけ。」

 言われたとおり素直に両手を壁についた。しかし、ボールペンは握ったままだ。

 警備員はP7の銃口を霧子の後頭部に向けたままその後ろに立ち、服の上から体中を荒々しく触っていった。

 「そのボールペンを渡せ。」

 「あ、これ?はいはい。」

 おどけてそう言いながら、ポールペンの頭を押した。

 次の瞬間、霧子がトイレに置いた黒い箱がすさまじい音とともに破裂した。

 白い煙が辺りに充満し、それはトイレから廊下へ勢いよく流れだした。

 それは霧子たちのいる八階にも届くほどの音だった。

 当然、警備員の気がそれる。

 それを見逃さず、霧子はボールペンのペン先を警備員の首筋に突き刺した。

 一瞬で警備員の体が硬直する。

 それを見て二人の警備員が銃口を霧子に向けた。

 しかし、グラスが邪魔で霧子を撃てない。

 その隙に霧子は硬直した警備員の後ろに回ると警備員の手にしたP7をそのうえから握り、二人に向けた。

 「博士、ふせて!」

 その声に反射的にグラスは床に伏せた。

 霧子と二人の警備員の間の視界が開ける。

 間髪を入れず、霧子の銃が火を噴いた。

 ふたりは引き金を引く間もなく射的の的のようにひっくり返った。

 床に倒れた二人が再び起き上がらないことを確認して霧子は、自分の前で硬直して死んでいる警備員を脇に押しやり、床に伏せて震えているグラスに歩み寄るとその襟首を掴んで引き上げた。

 「さ、逃げるわよ。」

 そう言ってグラスを後ろから押し出すようにして階段へ向かった。

 階段のところへ来て、下へ駆け下りようとしたとき、階下から駆け上がってくる多数の足音が響いてきた。

 「もう来たの?」

 「逃げられやしないぞ。」

 霧子の思惑がはずれたことにいい気味だと言わんばかりのグラスの顔に辟易しながら霧子は階段を見上げた。

 「こっちよ。」

 「痛い。ひっぱるなよ。」

 博士の声を無視して、霧子は博士の腕を引っ張りながら上へと向かった。

 「どこへ行く気だ。」

 博士の心配をよそに霧子は駆け上がっていく。

 下からは追っ手が同様に駆け上がってくる。

 屋上に通じるドアをあけると、そこには吹きさらしの光景が広がっていた。

 ドアに鍵をかけ、急いで屋上の端に駆け寄り逃げ道を探すが、となりのビルの間は十メートル以上離れており、飛び移るのは至難の業に思えた。ましてやだらしなく太った博士がいっしょだ。

 他には雑木林や公園、駐車場があるだけで脱出するのは不可能に思えた。

 「どうするつもりだ。あんた。」

 博士が怒りといっしょに霧子を問いただした。

 霧子は博士の言葉を無視して、屋上のフェンスに添って歩き回り、脱出方法を思案した。

 そのとき、ドアをたたく音が響いた。

 「奴らが来たぞ。ここは降参しよう。」

 博士が泣きそうな顔で霧子に懇願した。

 「来て。」

 また、博士の腕をひっぱると、霧子は屋上の端まで博士を連れて行った。

 「ここを登って。」

 「フェンスをか?」

 目を丸くしている博士を尻目にその大きな体をフェンスに押し付けた。

 強制的に促された博士は、フェンスに手と足をかけ、重い身体を引き揚げながらなんとかフェンスを乗り越えようとした。霧子も後ろからお尻を押し上げて博士の努力を後押しした。

 ドアになにかがぶつかる音が霧子の耳に届いた。

 恐ろしい力でドアが破られようとしている。

 どうにかフェンスを乗り越えさせると、霧子もすばやくフェンスを乗り越えた。

 「どうするつもりだ。まさか飛び下りるとでもいうのか?」

 「そのまさかよ。」

 「え── !」

 博士はわが耳を疑った。

 「早く私につかまって!」

 霧子は博士の胴に手を廻すと、屋上の縁に足をかけた。

 そのとき、ドアを破る激しい音が屋上に響いた。数人の警備員が破られたドアをくぐって屋上になだれ込んでくる。

 「しっかりつかまって。絶対離しちゃあだめよ!」

 その言葉に博士は霧子の胴に腕を廻した。

 「まて!」

 警備員が駆け寄る姿に笑みを残して、霧子は縁を蹴って、屋上から飛び降りた。

 「わ── !」

 博士の叫び声を残して二人の姿が消えた。

 フェンスに駆け寄る警備員たちの目に信じられない光景が映った。

 霧子と博士が地面に向って落下しているのだが、そのスピードが恐ろしく遅いのだ。

 ふたりはスローモーションのようにゆっくりと回転しながら落下してゆき、駐車場にふわりと着地した。

 しばらく信じられない面持ちで見ていた警備員たちは、ふたりが脱出したことにようやく気付き、大声を張り上げながら屋上から下へ戻りだした。

 霧子は再び引っ張るように博士を連れて駆け出し、駐車場に停めてある自分の(ソアラ)に駆け寄るとドアをあけてグラスを押し込んだ。そして、運転席に乗り込むとエンジンをかけた。

 目の前に警備員たちがこちらに向ってくる。

 しかし、霧子はおかまいなしにアクセルを踏み込み、警備員たちに向って猛スピードで走りだした。

 スピードを上げて向ってくるソアラに警備員たちも恐怖から左右に飛び退いた。そして、すぐに起き上がって持っていた銃を撃つが後の祭りであった。

 すでにソアラは射程外に走り去っていた。それを電柱の上から見つめる一羽の烏がいた。

 烏は走り去るソアラを追うように飛び立った。

          4

 メディカルセンターから逃げ出したふたりはそのまま西北へ車を走らせた。

 恐怖の体験を続けざまにしてショック状態だったグラスもようやく立ち直り、自分たちがどこに向っているのかが気になりだした。

 「いったいどこへ行くつもりだ?」

 「横田基地よ。」

 「横田基地!?」

 霧子の意図がグラスにもようやく掴めてきた。

 「おれを強制送還するつもりか?」

 いきなりソアラが急停車した。

 フロントガラスにぶつかりそうになるのを両手でなんとか食い止めたグラスに、霧子は顔を向けて睨み付けた。

 「そんなに本国(アメリカ)にもどりたくない?」

 「やつらがほしいのは俺じゃあなくて、俺の研究成果だろう。あれほど無視していたくせに、成果の大きさに気付いたら連れもどそうなんて。」

 不満顔の口からは悪態が次々出てきた。閉口しながら聞いていた霧子はグラスの胸ぐらをいきなりつかむと、グラスの顔を自分の方に向けさせた。

 「言いたいことはそれだけ?じゃあ、私の方から聞くけどあなたの研究成果って麻薬と関係があるの?」

 「麻薬?」

 霧子の不意の言葉にグラスの目が大きく見開かれた。

 「あなたが人間の脳内物質とウィルスについて研究していたことは知ってるのよ。」

 威圧的な霧子の表情にグラスの顔色が変わった。

 「おれの研究について知りたいのか?」

 「言っとくけどこれはお願いしているわけじゃあないのよ。あなただって私がFBIの捜査員でないことは薄々知っているんでしょ。」

 額がつくほど顔を近づけながら霧子はさらにグラスに圧力をかけた。グラスも霧子の態度に自分の知っていることをしゃべらざるえないと思った。

 それに自分の研究のすばらしさを教えたい衝動もあった。

 「あんたは俺の研究が麻薬に関係あるのかと聞いたが、それはある意味でYESだ。」

 「ある意味?」

 霧子はつかんでいた胸ぐらを離した。

 「おれはウィルスと人間の脳内物質の関係について調べていた。その過程であるウィルスが人間の脳に作用して脳内物質を顕著に放出するのを発見した。」

 「それはドーパミンとかエンドルフィンとかの脳内麻薬のこと?」

 「それだけではないが、特にそれらの脳内麻薬と呼ばれる物質には顕著に反応した。」

 霧子の目に好奇心の色が現れ、それに合わせてグラスの口も滑らかになっていった。

 「俺はそのウィルスを改良して更にその作用を強力にしていった。」

 「するとそのウィルスに感染した人間は脳内麻薬の放出が顕著になって大きな快楽を得られるということ?」

 「それだけでは快楽は得られない。」

 「それだけでは?」

 「放出のためのきっかけが必要になる。」

 グラスの顔にいやらしい笑顔が浮かんだ。言葉と表情で霧子にもグラスが言わんとすることが思い浮かんだ。

 「SEXってこと?」

 「そのとおり。ウィルスを与えられた女性とSEXをすると男性側にそれが感染し、そのウィルスが脳内麻薬に作用していままで味わったことのない快楽を得られる。」

 「ずっと続くわけ?」

 「このウィルスは男性ホルモンに弱性を持っているから男だと48時間、女性でも72時間ほどでほとんど無害化する。つまり増殖しなくなって作用もしなくなるということだ。しかし、脳にはその快楽が記憶として強烈に残るから禁断症状が現れるということだ。」

 「人間麻薬ってわけね。」

 軽蔑の眼差しでグラスを見た。しかし、グラスは意に介さず、さらに自慢げに話した。

 「こいつは脳内麻薬だけでなく、アドレナリンのような瞬発力に作用するような脳内物質にも影響を与える。これを改良していけば超人だって作れるかもしれない。」

 「超人?」

 「やつらは別な方法で超人を作っているが、この方法ならもっと安価で簡単に超人が作れる。」

 グラスのその話に霧子が敏感に反応した。

 「超人を作っているやつらってなにそれ?」

 自分の話に酔っていたグラスは霧子がまた胸ぐらをつかんで問い詰めたことに驚き、目をぱちくりさせた。

 「なにそれって、俺を雇ったやつらが超人を作っているって話さ。」

 「そのやつらって誰なの?」

 霧子はグラスの体を大きく揺さぶった。

 「それはわからん。メディカルセンターもオフィス・ワンも牛耳っているやつらだ。」

 「ほんとに知らないの。」

 胸ぐらをつかむ霧子の手に力が入り、グラスの首が絞めつけられる。とたんにグラスの顔が赤くなった。

 「ぐ・苦しい。ほんとに知らないんだ。」

 その言葉を信用したのか、霧子の手がグラスから離れた。咳き込みながらグラスは苦しさから解放されたことに安堵した。

 「えにしの会のことは知っている?」

 不意の問いにグラスはまた目を丸くした。

 「えにしの会?ああ、女の子をよこすところか。」

 「女の子をよこす?」

 「ああ、女性にウィルスを注入する検体としてえにしの会から女性が送られてくる。健康診断を(よそお)ってね。えにしの会だけじゃあないぜ。オフィス・ワンからも送られてくる。」

 また、グラスの顔にいやらしい表情が浮かんだ。

 「その女の子たちに男たちをあてがう。男たちは人間麻薬の虜になるって寸法ね。」

 霧子は吐き捨てるように言った。

 「人間の三大欲求のひとつとも言われているからな。」

 あいかわらずいやらしい笑いを続けている。

 「その三社をあやつっているやつの心当たりはないの?」

 「さあてな。おれは自由に研究をさせてもらって、高い報酬を貰えればそれでいいんでね、それ以外のことには興味がないな。」

 グラスの言い方にカチンときたのか、霧子は再度グラスの胸ぐらをつかみ、おもいっきり締め上げた。

 「ほんとに知らないの?」

 「し・知らない!ただ、えにしの会の幹部のようなやつが所長とウィルスのことで話しているの見たことはある。」

 「そう、それでその幹部っていうのは…」

 霧子が次の質問をしようとしたときだった。

 ソアラのフロントガラスに何かが猛烈ないきおいでぶつかった。

 それに驚いた二人はそろってその方向を見た。

 ボンネットの上に烏がいる。

 一羽ではない。

 数十羽が次から次へとフロントガラスにぶつかり、その鋭いくちばしでガラスを突っついている。そして、それはフロントガラスだけではなく、後部ガラスや側面部にも同様にぶつかり、くちばしで突っついていた。

 「な・何なんだ?」

 その異様な光景にグラスはおびえ、椅子の中に縮こまった。霧子は鋭い目つきでその様子をじっと見つめている。

 「あいつね。」

 霧子の脳裏に牙堂の姿が浮かんだ。

 霧子は先ほど奪ったH&KP7を取り出すと、震えているグラスの襟首をつかみ、顔を自分の方に向けさせた。

 「私がおとりになるからその間に逃げなさい!」

 「逃げるってどこへ?」

 「横田基地でもカティナの泊まっているホテルでもいいから逃げて。」

 そう言って手を離すと、ドアの取っ手に手をかけた。

 あたりの様子を見て、烏が一旦ソアラから離れるタイミングを伺った。

 すさまじい激突音がソアラの中に充満する。

 不意に烏がソアラから離れた。

 それを逃さず、霧子はドアを開け、外に飛び出した。

 それを見て烏が襲い掛かる。

 P7が火を噴き、烏が羽を散らして落ちる。

 銃声に驚いた烏が四散する。

 それに乗じて霧子はソアラからできるだけ離れようと走った。

 烏は体制を整え、霧子を追いかけてくる。

 鋭いくちばしが霧子に襲い掛かった。

 着ていた白衣が引きちぎられ、その下の白い肌に赤い傷がつく。その痛みをこらえて再びP7の引き金を引く。

 乾いた銃声が響き、烏がまた落ちた。

 一旦、四方に散るが再び襲い掛かってくる。

 P7が三度目の火を噴く。

 同じ繰り返しであった。

 「きりがないわね。」

 霧子はP7を腰のベルトの間に刺すと、ポケットから例のコインを数枚取り出し、それを宙にほうり上げた。

 霧子の目が金色に輝く。

 コインが空中で止まった。

 そこへ烏が一斉に急襲してきた。

 霧子の指がパチンと鳴る。

 それに弾かれるように空中のコインたちが一斉に飛んでいく。

 猛スピードで飛ぶコインは、襲い掛かる烏たちを次々と撃ち落としていった。

 「いまよ!」

 霧子が大声で叫ぶ。

 それにつられてグラスがソアラから飛び出した。

 重い身体を一生懸命動かしてグラスはその場から離れようとした。

 一心不乱に走るグラスが何かにぶつかり、ひっくり返った。

 尻餅を突き、痛む尻をさすりがなら見上げるとグラスの目がまた見開かれた。

 目の前に牙堂が立っていた。口元に嘲笑を浮かべて。

          5

 「どこへ行くつもりだい?グラス博士。」

 その冷ややかな口調にグラスの全身を悪寒が走った。

 「た・助けてくれ。おれは無理やり連れてこられたんだ。」

 「そうなのか?しかし、どっちでもいいんだ。あんたはもう用済みだからな。」

 「なんだって!」

 牙堂の言葉はグラスの心臓を凍らせるに十分だった。

 「ま・待ってくれ。俺がいなきゃ研究は続けられんぞ。もっと強力なウィルスだって作れるんだ。だから助けてくれ。」

 グラスは牙堂の足にすがるようにして、命乞いをした。

 「あんたの研究は俺たちが引き継ぐ。安心してあの世へいきな。」

 牙堂の人差し指がグラスの額に向って伸びた。

 それを見た霧子はベルトからP7を引き抜くと、牙堂に向けて構えた。

 「Freeze(うごくな)!」

 「あばよ。」

 牙堂の爪が伸びると同時に霧子は引き金を引いた。

 しかし、霧子の前に烏が飛び出し、撃った銃弾はその烏に当った。

 牙堂の爪は寸分たがわず、グラスの額の真ん中を貫き後頭部へ突き抜けた。

 グラスの体が石のように固まり、白目を剥くとそのまま後ろに倒れた。その拍子に牙堂の爪が額から抜け、鮮血が噴水のように噴出した。

 自分の血で赤く染まっていくグラスに一瞥をくれたあと、牙堂は銃を構えたままの霧子の方へ目を向けた。

 「ひさしぶりだな。女。」

 「ふん、ずいぶんな呼び方ね。私には伊達霧子というりっぱな名前があるのよ。」

 「そうかい。おまえさん、伊達霧子というのか。せっかくだから俺も名乗っておこう。俺の名は牙堂。」

 自慢げな顔をする牙堂に、霧子は嘲笑を見せた。

 「ガドウ?変な名前ね。」

 「覚えなくてもいいぜ。おまえさんはここで死ぬんだからな。」

 牙堂の右手の爪が異様に伸びた。

 その一本一本がナイフのように見える。

 牙堂の殺気が霧子の全身に絡みつく。

 いつの間にか烏がいなくなっていた。

 「ふふ、烏どもは下がらせた。おまえは俺がこの手で始末してやる。」

 右手を自分の顔の前にかざした。

 その後ろに残忍な笑いが見える。

 「さあ、そう簡単に始末できるかしら。」

 そう言うな否や霧子はP7の引き金を引いた。

 鋭い銃声が響く。

 しかし、狙った所にはすでに牙堂はおらず、霧子の左横にいつのまにか移動していた。

 「!」

 「死ねや」

 サディスティックな笑いとともに右手が襲い掛かる。五本の爪が霧子を引き裂こうとしたとき、霧子の両足が大地を蹴った。

 後ろに飛び下がりながらP7の銃口が火を噴く。

 牙堂の爪の一本が弾き飛ばされた。

 「く!」

 その衝撃で牙堂の視線が一瞬それた。

 霧子は着地すると飛びのいた勢いそのままにその場から走って逃げた。

 「あなたに関わっている暇はないの。」

 「逃すか!」

 牙堂が地面(アスファルト)に向けて爪を飛ばした。

 地面に突き刺さった爪は海面を突っ切る鮫の背びれのように地面を走り、霧子の後を追い始めた。

 地面を滑るように走る二本の爪は左右に分かれると、霧子を両側から挟むように迫った。

 爪に挟まれる寸前、霧子が宙を飛んだ。

 その下で爪がかち合う金属の音がする。

 宙で身をひるがえしながら霧子の手にしたP7が火を噴いた。

 二発の銃声の後、爪が真ん中から吹き飛んだ。

 その後ろからいつの間にか牙堂が迫ってきた。

 路面を蹴って宙に舞いあがる。

 地面に降り立った霧子に向って急降下してくる。

 その右手は元に戻った5本の爪が鋭い切っ先を見せていた。

 「喰らえ!」

 霧子の体が後ろにバク転する。

 牙堂の5本の爪がアスファルトに喰い込んだ。

 「チッ」

 殺気だった牙堂の目が霧子を睨む。

 それにかまわずまた駆け出した。

 行先はソアラである。

 「そうはさせるか。」

 牙堂が爪をアスファルトに喰い込ませたまま呪文を唱え始めた。

 どこからともなく霧が漂ってくる。

 霧子の前にもその霧が幕をひいた。

 「これは…?」

 この間と同じだと思った。やつの仕業だとすぐに直感した。

 「この霧からは逃げられんぞ。」

 その言葉を無視して霧子は駆け出した。

 牙堂の口の端が吊り上る。

 乳白色の霧が周りを覆い尽くす。視界が塞がれたが、すぐに開けた。しかし、目の前にいたのは牙堂の姿であった。

 牙堂のいやらしい笑いが見える。

 すぐに別な方向に駆け出したが、また同じ場所に戻ってきた。

 「どういうこと?」

 「この場所は閉ざされたのさ。どこに逃げてもまたここに戻ってくる。」

 嘲笑が声となって周りに響く。

 「妖法、魔爪林(まそうりん)。」

 また、牙堂の口から呪文が漏れた。

 途端に軽い地響きが起こった。

 路面に亀裂が走る。

 アスファルトがめくれ上がる。

 霧子に緊張と警戒心が走った。

 周りの様子を見ていた時、霧子の足元が割れ、丸太のようなものが急速に伸びてきた。慌てて躱すが腕をかすめる。その腕に赤い線が刻まれ、鮮血が滲み出た。

 丸太のようなものは一本だけではなかった。2本・3本と次々地面から伸びてくる。それは鋭い切っ先を持った爪であった。それが霧子を切り刻もう地面を突き破ってきた。

 「ハハハ!そいつらの餌食なりな。」

 牙堂の勝ち誇ったような笑いが聞こえるが、霧子には聞いている暇はなかった。次々襲い掛かってくる爪どもを躱し続けなければならない。

 「くそ!」

 すでに白衣はボロボロで、体を切られた傷の出血で赤く染まっていた。

 霧子は隙を見ては牙堂に向ってP7を撃った。しかし、弾丸は林立する爪に阻まれて届かなかった。

 「ハハハハ!無駄なことはやめな。」

 「うるさい!」

 半ばやけくそで霧子は銃を撃った。

 しかし、結果はおなじであった。

 その間にも霧子の周りには牙堂の爪が乱立していった。

 「ほらほら、ぐずぐずしているから囲まれたじゃあないか。」

 嘲笑が一段と高く響いてきた。

 事実、霧子は牙堂の爪に囲まれ、身動きが取れなくなっていた。

 「案外早く終わりがきたようだな。」

 憐れむような言葉ながらその裏にサディスティックないやらしさが垣間見える。人が絶望に苦しむのを楽しんでいるのだ。

 霧子は地面にしゃがみ込むと目を閉じ、精神を集中しはじめた。

 「親が見てもわからないほど切り刻んでやるぜ。」

 爪が霧子にのしかかるように迫る。

 「死ね!」

 その言葉とともに爪が霧子を押し包んだ。

          6

 牙堂の魔の爪に押し包まれた光景を見て、牙堂は勝利を確信し、その場を立ち去ろうとした。その脳裏には、霧子の体がミンチのように切り刻まれていく(さま)がありありと浮かんでいた。

 それに興奮して更に笑いが高まる。

 好奇心からその光景を見ようと振り返った時だった。

 牙堂の目に信じられない現実(もの)が映った。

 爪が一定の位置で止まっているのだ。まるで何かの壁に妨げられてそれ以上動けないようであった。

 その中心に霧子がいる。

 その全身からは陽炎のようなものが立ち上っていた。

 「なんだ?」

 牙堂にはこの状況が理解できなかった。

 やがて、爪にひびが入る。

 それは連鎖するように次々と入っていった。

 牙堂に悪い予感が過った。

 そして、それは現実となった。

 大音響とともに霧子を押し包む爪が砕け弾け、その爆風は周りの爪の林をなぎ倒し、その破片が四方八方に飛んだ。

 その爆風と衝撃に牙堂の体も木の葉のように吹き飛んだ。塵と砂埃がその一帯に舞い降り、雨音のような響きがしばらく鳴り渡った。

 やがて雨音は鳴りやみ、静寂が訪れた。

 しゃがんだ格好のままの霧子が静寂の中心にいた。

 体力を消耗したのか肩で大きく息をしている。ゆっくりと顔上げ、粉塵が収まりかけた向こうを見た時、牙堂が大の字で倒れているのが見えた。

 のろのろと立ち上がった霧子は、難儀そうにあたりを見渡した。

 霧が解消している。

 牙堂の術が解けたのか、そんなことを思いながら自分の車を探した。

 そのとき、すさまじい殺気が霧子の全身を貫いた。

 見ると倒れていた牙堂が起き上がっている。

 全身が傷つき、服がボロボロになった姿で、その右目には自分の爪の破片が深々と突き刺さり、左目は憎悪で燃え上がっていた。

 「ぶっ殺してやる。」

 暗く重い呪いの言葉を吐いて牙堂は霧子を睨みつけた。

 ナイフのような5本の爪が霧子に向けられた。

 いま襲い掛かられたら避けようがない。

 霧子の中で死の予感が広がった。

 牙堂の足が大地を蹴る。

 人間離れしたスピードで牙堂の爪が霧子に迫る。

 思わず霧子は目をつぶった。

 その刹那、霧子の前に男が突然姿を現し、霧子の体を抱えるとそのまま二人の姿がかき消えた。

 牙堂の爪はそのまま何もない空間を切った。

 二人の人間が消えた。

 信じられない出来事に、牙堂は狐につままれたような顔をしてしばらくあたりを見渡した。

 「どういうことだ?」

 霧は完全に晴れ、立ち並ぶ住宅と車が行き交う車道のある光景が出現したが、霧子の姿はどこにもなかった。ただ、無人のソアラが路肩に停まっているだけであった。

 「くそ!逃げたか!」

 八つ当たりのようにソアラのボンネッテを殴ると、ボンネットはすさまじい力でひしゃげた。


 そのころ、名も知らぬビルの屋上に二つの人影が何もない空間から突如出現した。一人は霧子であり、もう一人は背の高い金髪の男であった。

 男は霧子をそっとコンクリートの床に置くと、その頬を軽く叩いた。

 「大丈夫か?霧子。」

 英語で話しかける。

 その声に反応して霧子が薄目を開け、口を開いた。

 「ミヒャエル、いつ日本に?」

 「つい先だってだ。マリアが心配して連絡をよこした。俺も気になって、こっちに来てからずっとお前の後をつけていたんだ。」

 「まるで、ストーカーね。」

 霧子が軽く笑った。

 「まったく、無茶をする。俺がいなかったら殺されていたぞ。」

 「礼は言っとくわ。」

 霧子はよろよろと立ち上がった。

 「どこへ行くつもりだ。」

 「オフィス・ワンよ。私が狙われたのなら彼女もあぶない。」

 「彼女?」

 ミヒャエルの問いに霧子は答えようとせず、屋上から降りようと出口にむかった。しかし、力が入らないのか、すぐにその場にへたり込んだ。

 「無理をするな。そんな体でどうするつもりだ。」

 霧子を抱きかかえようとするミヒャエルの腕を振り払い、霧子はもう一度立ち上がった。だが、体力の消耗は目に見えていた。

 「ミヒャエル、お願い。私をオフィス・ワンまで連れて行って。」

 懇願する霧子にミヒャエルは困ったような顔つきになった。

 「しょうがないな。」

 ミヒャエルが了解したと思い笑顔になる霧子の腹部に、ミヒャエルの拳が食い込んだ。

 「ミヒャ・エル…、なに・を…」

 そう言い残して霧子は気絶した。

 「そら見ろ。普段のおまえなら躱して殴り返しているところだ。」

 ため息をつきながらミヒャエルは霧子を抱き上げると、その場から再び消え去った。


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