二、 潜入
1
特捜局が置かれている屋敷、その奥まった一室に二人の男が難しい顔をして座っていた。
ひとりは剣持であり、もう一人は小田切であった。
小田切は肩から白布で右腕を吊るしている。
西署での事件が起きてから3日が経っていた。
署内に不審者が侵入し、あまつさえ三人もの人間が殺害された。大騒ぎになってもおかしくない出来事だった。しかし、上からの圧力や警察の体面で、事実は秘匿され、署内の人間には箝口令がしかれて、単なる自動車事故ということで処理された。
「で、彼女はどうしている?」
剣持がつぶやくように小田切に聞いた。
「ホテルにこもっているようです。病院の件もあって、今後のことを考えているのではないでしょうか?」
病院の件とは、西署の事件のあと、霧子たちはパーカーの男に刺された少女が気になり、病院に問い合わせてみた。
少女は出血性ショックですでに死亡が確認されていたが、その遺体がいつのまにか消えていた。
あの襲撃者の仲間が遺体を盗んだことは容易に想像がついた。
霧子たちは完全に後手にまわったのである。
「手掛かりは切れたということか。」
「そうとは限りません。」
突然、部屋のドアが開き、霧子が二人の前に立つと、そう言った。
「霧子さん」
「伊達君」
二人が同時に叫んだ。
霧子は小田切の横に座ると、手にしたポーチから一枚の紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
『乙女座クラブ』のコンサートのチラシだ。
「これは?」
剣持はチラシを取り上げ、それを見ながら怪訝な顔をした。
「これが手掛かりです。」
「これが?」
腑に落ちない顔をしながらチラシを小田切に渡す。小田切も同様に意味が理解できなかった。
「乙女座クラブのひとりが不審者に刺されて死んだ。そして、その日の内に犯人は警察署内で殺され、被害者は遺体ごと病院から消えた。この意味することは。」
霧子は二人の顔を交互に見ながら問いかけた。
「この二人を調べられてはまずいことがある。」
「That‘s Right(通り)!」
剣持の回答に霧子は思わず微笑んだ。
「え、どういうことです?」
小田切にはまだ意味が解っていなかった。
「犯人の村山は麻薬中毒に似た症状があったと、西署の捜査課長が言っていたんだろ。」
「ええ」
「もし、麻薬中毒患者だとしたらどこから麻薬を手に入れたか?」
「あ、まさか?」
小田切もようやく思い至った。
「乙女座クラブもしくはそれを運営する芸能事務所が麻薬組織と関係しているかもしれない。」
「そして、それに探しているグラス博士が関係しているかもしれません。」
霧子が剣持の言葉の後を継いで小田切に説明した。
「しかし、どうやって調べる。」
剣持は腕を組んで難しい顔をした。
「潜入します。」
霧子が簡単に答えた。
「潜入するといっても、われわれに芸能関係者とのパイプはないぞ。」
「大丈夫です。手筈はこちらで整えました。」
そう言って霧子はポーチからもう一枚、写真を取り出した。金髪の美少女が写っている。
「これは?」
「あ、カティナですね。」
小田切が裏返った声で叫んだ。
「カティナ?」
剣持にはその名前に覚えがない。
「いま、全米で人気急上昇中のポップシンガーですよ。局長は知らないのですか?」
「いや、知らない。」
剣持は当惑した顔つきでその写真をながめた。
それを見て、霧子がクスッと笑った。
「彼女が今週末来日します。コンサートのために。その中で乙女座クラブやアリエス4(フォー)とのコラボが先方の事務所に打診されています。」
「アリエス4?」
また、剣持の知らない名前が出た。
「乙女座クラブと同じ事務所の人気アイドルグループです。」
小田切がそっと剣持にささやいた。
「私はカティナのスタッフの一員として同行します。」
「カティナのスタッフ!?」
小田切が頓狂な声をあげた。
「カティナとは旧知の仲なので。快く協力してくれました。」
そう言って、霧子はニッコリと笑い、写真をしまった。
「そうなるとわれわれも一緒というわけにはいくまい。潜入は君ひとりで?」
「はい、その方がなにかと都合がいいです。」
「連絡は?」
「私からします。敵に覚られる恐れがありますから特捜局からの連絡は極力さけてください。」
霧子は相手をはっきり敵と認識しているようだ。
「緊急の場合は?」
「この店にしてください。私からの連絡もこの店を通します。」
そう言って霧子が一枚のチラシを渡した。
“ジョーカー”という名のスナックだ。
「あと、オフィス・ワンという会社を調べてください。」
「オフィス・ワン?」
「乙女座クラブが所属する芸能プロダクションです。」
「わかった。調べておこう。」
「よろしくお願いします。」
そう言うと霧子は立ち上がり、剣持と握手をすると部屋を出ていった。
ホテルに戻った霧子は、ジャケットをベットに脱ぎ捨てると、椅子に腰かけ、テレビをつけた。
ワイドショー番組が映ったが、興味がないと見えて、リモコンであちこちチャンネルを変えた。そこへ、携帯が鳴った。
「Hello」
『キリコか?俺だ。』
携帯に出ると、男が英語でぶっきらぼうにしゃべってきた。
「あなたなの。むやみに携帯にかけないでくれる。」
霧子も英語で応酬する。
『部屋は調べてあるのだろう。この携帯が簡単に盗聴できないことはお前も知っているだろう。』
「それはそうだけど。」
そう言いながら霧子はハイヒールを脱ぎ捨てた。
「ともかく協力ありがとう。うまくいったわ。」
『なに、たいしたことではない。それより例の件は大丈夫なのだろうな。』
「大丈夫よ。相手は気付いてない。私をFBIだと信じているし、博士の件がうまい具合に目くらましになっているから。」
『あまり、のめり込むなよ。あくまでも優先すべきは例の件だ。』
「わかっているわ。」
『そうか。また、連絡する。』
携帯は唐突に切れた。
霧子は携帯もベットに投げると、日本語でまくしたてるテレビを消し、窓から見える鉛色の空をしばらくながめていた。
2
その日の成田空港は報道陣と一般人の男女が多数集まっていた。
皆がみな、なにかを期待してそわそわしている。
その視線はある一点に集中していた。
到着ロビーの先。
黒ずくめの男たちに囲まれて一人の女性が現れた。
金髪の上に真っ白の大きな帽子をかぶり、真っ赤なドレスを着たサングラスの女性は目の前のひとだかりに気が付くとニッコリと笑って、手を振った。とたんに歓声が響き、フラッシュがたかれ、報道陣が駆け寄った。
「カティナさん、来日の感想を」
「ファンに一言」
「何日、滞在の予定で?」
みなが日本語、英語入り混じって次々に質問をしていく。
その人ごみを黒づくめの男がかき分け、カティナは笑顔を絶やさずに歩いていく。出口に向かうカティナを追う人々を、茶髪の長身の女が黒ずくめの男たちと共に制した。
「会見を開きますので、詳しいことはそのときに。」
そう日本語で言い放つと女性と男たちはカティナの後を追った。
カティナは表に停めてあった黒塗りのリムジンに乗り込み、その後を追いかけてきた報道陣たちに手を振って、空港をあとにした。
「大変な人気ね。」
カティナの隣にいつの間にか座っていた霧子がサングラスを外しながら話しかけた。
「人気者はつらいわ。キリコに変わってもらいたい。」
そう言って、カティナもサングラスを外した。
ブルーの瞳が印象的だ。
「丁重にお断りするわ。それより先方へのコンタクトは?」
「せっかちね。キリコは。先方の了解はとってあるわ。私のスタッフの一員ということで事務所の出入りはOKよ。」
そう言ってカティナはウィンクした。
「ありがとう、助かったわ。」
「でも、私の今の立場では手助けできないわよ。」
「大丈夫?それにどうせ手伝う気もないでしょ。」
「わかった。」
カティナが可愛らしく舌を出した。
「ねえ、久しぶりなんだから、今夜いっしょに飲みにいかない?」
「それも遠慮しておくわ。あなた、酔うとしつこいから。」
そう言って、霧子はサングラスをかけ、運転手に合図してリムジンを停めさせた。
「じゃあね。コンサートがんばってちょうだい。」
リムジンを降りると、手を振って、街中に消えていった。
翌日、霧子はオフィス・ワンがはいっているビルにその姿を現した。
カティナのスタッフの一員として打ち合わせに同行したのだ。もちろん、いっしょに打ち合わせをするつもりはない。人目を盗んでいつの間にかスタッフから離れていた。
ビルの中を歩き回るが、その堂々とした姿に誰も咎めない。
威厳をまとって歩く姿に誰も疑いを持たないこともあるが、オフィス全体がいそがしく動き回り、霧子を気にしている暇がないことも一因であった。
「カティナのご利益はすごいものね。」
そう独り言をいいながら、霧子は書類の束をもって駆けていく女性に声をかけた。
「社長室はどこかしら?」
「社長室ですか?」
初めて見る霧子の威勢に圧倒されながら女性は素直に答えた。
「社長室は最上階です。でも今はいませんよ。」
「ありがとう。」
霧子がニッコリ笑ってエレベーターホールへ向かうと、女性はすぐに自分の用事を思い出して、駆けていった。
霧子はエレベーターに乗ると、最上階のボタンを押した。軽い機械音とともにさしたる揺れもなく、エレベーターは最上階へ登っていった。
1分ほどで目的の階に着くと、霧子はあたりを見渡しながら廊下に出た。
左右を見たが人影はない。
一番奥まったところに木調のドアがあり、社長室と書かれたプレートが掲げてあった。
霧子は軽くドアをノックした。
予想通り反応がない。
あの女性が言った通り、社長は不在のようだ。
ドアノブに手をかけたが、当然、鍵がかかっている。
そのとき、背後に気配を感じた。
見ると監視カメラがこちらを見ている。
(当然といえば当然ね。)
監視カメラにウィンクをすると霧子はエレベーターホールに戻っていった。当然、エレベーターを監視するカメラもある。それを見比べた霧子はカメラの死角にはいるように壁に張りついた。そして、社長室のドアにレンズを向けている監視カメラをじっと見つめた。
その見つめる霧子の黒い瞳が金色に輝きだした。すると、監視カメラがひとりでに動き始め、ドアに向いていたレンズが別な方向に動いていった。
監視カメラが全く別な方向に向くと、霧子の瞳は元の黒に戻った。
カメラを見て軽く笑うと、霧子はドアの前に近寄り、鍵穴のところに手をかざした。そして、目をつぶり精神を集中すると、今度はサムターンが徐々に回りだし、カチリという音とともに社長室の鍵が開いた。
すぐにドアを開け、中に滑り込むとすぐにドアを閉め、鍵をかけた。
社長室の中はかなり広く、ドアのすぐそばに向かい合ったソファ、部屋の奥にはひときわ大きい机が一角を占め、その傍らには絵画が飾ってある。窓には縦型のブラインドカーテンが全面にひいてあり、部屋の中は薄暗かった。
霧子は社長の机に忍び寄ると、引き出しを開けようとしたが、やはり鍵がかかっている。
すぐに懐から棒状のものを取り出し、机の鍵穴に差し込んだ。
鍵は瞬く間に開き、引き出しを次々と開けると、中にあるファイルを片っ端から開いていった。
しかし、ファイルの中身は小劇場でのコンサートやイベントの段取りやムツ・メディカルセンターでの健康診断に関する書類だけで霧子が欲するようなものはなかった。
一通り見終わると、ファイルを元に戻し、机に鍵をかけて、もう一度部屋を見渡した。
そのとき、ドアの鍵を開ける音が静寂の部屋を貫いた。
霧子はとっさにソファの陰に隠れた。
ドアが静かに開き、中を伺うように一人の女性が入ってきた。
眼鏡をかけ、長い髪を後ろで束ねた事務所のスタッフと思しき女性だ。
女性は持ってきた書類を机の上におくと、辺りを伺い始めた。そして絵画に目を向けるとそのそばに寄り、絵画を横にずらした。
その後ろにあったのは金庫の扉であった。
女性は金庫のダイヤルに指をかけると、反対の手首を見ながらダイヤルを廻しはじめた。やがて、カチッという音とともに金庫が開くと、中から書類を取り出し、それに次々と目を通しはじめ、何枚かを携帯で写真を撮っていった。
一通り目を通すと書類を金庫に戻し、扉を閉め、絵画を元に戻した。そして、再び辺りを伺うとドアのところに戻り、静かに出ていった。
その一部始終を見ていた霧子は、直感的に女性が同じ目的で潜入した者と思った。
(ご同業がいるとはね。)
霧子はソファの陰から出ると、絵画の前に歩み寄り、同じように絵画をずらして金庫の扉を出現させた。そして、ダイヤルに額をつけると目をつぶり、精神を集中させた。
すると、ダイヤルがひとりでに右左と動きだし、やがてカチッという音とともに扉が開いた。
霧子も中の書類を取り出し、目を通した。しかし、中にあったのはいくつかの契約書と定款などの書類で霧子が探しているようなものはなかった。ただ、その中に「えにしの会」という名前の宗教団体のパンフレットがあるのが気になったが、霧子は期待外れに肩を落としながら書類を金庫の中に戻し、扉を閉めた。
もう一度部屋を見渡した後、霧子は急いで部屋から外に出た。
後ろ手に鍵穴に手をかざすと、再びサムターンがひとりでに回り、ドアに鍵がかかった。
カメラの死角を確かめつつエレベーターホールに戻った霧子は、もう一度社長室の前の監視カメラを見つめると、また監視カメラがひとりでに動き出し、元の位置に戻った。それを確かめて、霧子はエレベーターには乗らず、階段を下りて行った。
その顔には成り行きを楽しむような笑みが浮かんでいた。
3
その日の夜、オフィス・ワンのビルを、霧子は長い間車の中から見張っていた。例の女性が出てくるの待っているのだ。
何時間待っただろうか。
(日本人は本当に勤勉ね。)
そう思いながら何度目かのあくびをしたとき、霧子の目に例の女性の姿が映った。霧子はソアラのエンジンをかけ、静かに走り出した。
女性の後ろからピッタリついたが、女性は気付いてないようであった。
霧子は口元に笑みを浮かべると、クラクションを鳴らした。
女性は驚いた様子で、弾かれたように後ろを振り返った。
霧子はソアラを女性の横につけると、助手席の窓を開けた。
「こんばんは。」
見知らぬ女性から声をかけられた彼女は明らかに戸惑いと警戒心を見せた。
「こんばんは。」
おずおずと答える彼女に霧子は満面の笑みを見せた。
「乗らない?送っていくわ。」
「え?」
「遠慮はいらないわ。知らない仲でもないし。」
霧子の言葉に彼女の表情が一気に警戒心で満たされた。
「けっこうです。歩いて帰れますから。」
女性は再び歩き始めた。
霧子はその前にソアラを進め、いきなり助手席のドアをあけた。
ドアが障害物となり、女性の歩みを止めた。
「何なんですか?」
女性の表情が怒りに変わった。
「あなたとお話ししたいのよ。同業者として。」
その言葉に彼女の顔に動揺が走り、霧子の笑顔に促されるまま仕方なさそうにソアラに乗り込んだ。
「あなた、一体何者なんですか?」
「その前に行く先を教えて。」
質問をはぐらかされた格好の女性は、しぶしぶ自分の行先を教えた。
ソアラが滑るように走り出し、徐々に加速していく中で女性は再度尋ねた。
「あなた、誰なんですか?」
「私の名前は伊達霧子。ご同業よ。」
「ご同業って…」
「あら、社長室で同じように探し物をしてたじゃあない。」
霧子の言葉に彼女は絶句した。
「あなたもあそこにいたんですか?」
「ええ、金庫の中も見せていただいたわ。」
彼女の警戒心が絶頂に達した。いつでも車から飛び降りる覚悟が見て取れる。その様子に霧子は再度、笑みを見せた。
「安心して。私はあなたの敵ではないわ。」
「敵じゃない?」
霧子がソアラをいきなり停めた。
「ねえ、私と手を組まない?」
ハンドルを握りながら霧子の視線が彼女の方へ向いた。
「手を組む?」
女性は後ろ手にドアの取っ手に手をかけた。
「そう、お互いにあの事務所を探っている。協力したほうが得というものじゃあない?」
「その言葉を信用しろと…」
女性の警戒心はいまだ解けない。
「そう」
「自分の正体も教えない人と?」
「あ、それはわるかったわね。私は特別捜査局の人間よ。あの事務所にはある事件がらみで潜入しているわ。」
「事件って?」
「麻薬よ。」
あっさり正体をあかす目の前の霧子に彼女はあっけにとられたような顔をした。しかし、すぐに警戒の色を現した。
「それが本当だという証拠は?」
「これを見て」
ハンドバックから取り出したのは黒革の手帳のようなものであった。それをひらくと身分証明書があった。特別捜査局と伊達霧子の名前、そして霧子の顔写真があった。彼女はそれをじっと見つめながら霧子のもう片方の手を握ってきた。
「?」
黙ったまま霧子の手を握り続ける彼女を、霧子は不思議そうな顔をして見ていた。
「わかりました。」
突然女性が口を開き、握っていた手を離した。
「返事はYES?」
「それは明日します。私にも考える時間をください。」
そう言うと女性はソアラのドアを開けた。
「明日、新宿の劇場でリハーサルがあります。そこで返事をします。」
「わかったわ。」
今度は女性が笑みを見せるとソアラから降りた。
「あなた、お名前は?」
「翔、火鳥翔です。」
そう言い残すと翔は夜の街の中に消えていった。
4
翌日、霧子は新宿の劇場に現れた。
場内はリハーサルの準備で騒然としていた。
霧子はそんな喧噪を尻目に翔を探していると、前から4人の少女が歩いてきた。同じような服装をしながら髪形と髪の色がそれぞれ違う。特に先頭を歩く少女は金色の髪に清楚な雰囲気を持つ美少女であった。
霧子も思わず見とれてしまう美しさを持っていた。
4人は霧子に目もくれず、そのまま通り過ぎていった。
「カティナも顔負けね。」
カティナがふくれっ面するのを思い描いて軽く笑った霧子も、すぐに翔の姿を求めて奥へと進んでいった。
霧子とすれ違ったあと、しばらくして4人の先頭を歩いていた金髪の少女が急に立ち止まり、それにあわせて3人も立ち止まった。
「どうしたの?サキ」
赤い髪の少女が小首を傾げた。
「いまの女性は?」
サキと呼ばれた少女が後ろを向きながら尋ねた。
「初めて見る顔ですね。」
緑の髪の少女が静かに答えた。
「カティナのスタッフのひとりらしいよ。」
赤い髪の少女が同じように振り返りながら答えた。
「なにか?」
緑の髪の少女が再度、サキに尋ねた。
「いや、なんでもない。」
「急ごうジャン。リハーサルに遅れるヨ。」
紫色の髪の少女がサキを急き立てた。
4人は会場へと歩みを進めたが、サキの頭には霧子の顔がいつまでも残っていた。
そのころ霧子は廊下をいくつか曲がり、劇場にいくつかある女子トイレのひとつに入っていった。薄暗いトイレの中をひととおり見渡して人がいないことを確かめると、霧子は洗面台の鏡の前に立ち、ヘアスタイルや服のちょっとした乱れを直し始めた。
そのとき、自分の後ろにいつのまにか人が立っているのに気付いた。
「!」
驚いて後ろを振り返ると、目の前に翔がいた。
「脅かさないで。いつの間に来ていたの?」
「さっきからいたわ。」
「私が見た時には誰もいなかったわよ。」
「目に入っても認識されなければ見えないの。穏行の技よ。」
翔は微笑みを見せて霧子に説明した。
「オンギョウ…?」
霧子は不思議そうな目で翔を見つめた。
「昨日の申し出のことだけど」
霧子の思いをよそに翔は話を進め始めた。
「受けることにしたわ。」
「私のこと、信用してくれたわけ?」
「ま、そんなところね。隠していることもあるけど申し出にうそはなさそうだから。」
「隠していること?それどういう意味?」
霧子の目が警戒の色を帯びた。
「それはあなたがよく知っていることでしょ。でも私には関係ないことのようだから特に問題にはしないわ。」
翔は霧子の横に移動すると鏡に映る自分を見て、髪を軽く整えた。
「ま、いいわ。じゃあパートナーとしてよろしく。」
霧子が右手を差し出したが、翔は握ろうとはしなかった。
「馴れ合いはしないわ。」
「そう」
霧子は苦笑しながら出した右手を引っ込めた。
「それでこれからどう動くの?」
「し、誰か来るわ。」
霧子が人差し指を口に当てた。
「こっちへ来て。」
翔が霧子をひっぱり個室のひとつに入った。そして、懐から札を出すと閉じた扉に貼り付け、なにかの呪文を唱えた。霧子は不思議そうな顔をして翔のすることを黙って見ていた。
「これでいいわ。」
「なにをしたの?」
「さっき言ってた穏行の法を施したの。」
「それなんなの?」
霧子は多少ヒステリックに尋ねた。
「陰陽師の呪法のひとつ。これを施すと普通の人は認識できなくなるの。つまり、見えなくなるってわけ。」
「オンミョウジ…、聞いたことはあるけど単なる占い師だと思ってた。」
半信半疑で見つめる霧子の目に翔は少しため息をついた。
「ま、いいわ。ところであなたはどこまでつかんでいるの?」
「まだなにも。あなたこの人を見たことはない?」
霧子がポケットから出したのは拉致されたグラス博士の写真であった。翔はそれを手に取り、しばらく見つめたあと、首を横に振って写真を霧子に返した。
「少なくともここでは見たことはないわ。」
「そう」
霧子は写真を受け取るとポケットにしまい、別の写真を出した。
「じゃあ、この人は見たことがある?」
受け取った写真には西署で殺された例の犯人が写っていた。
「この人、何度か乙女座クラブの劇場に来ていたわ。」
「乙女座クラブの…?」
霧子の目が光った。
「マイという女の子にご執心だったようだけど。」
「それはこの娘?」
そう言って、霧子は別の写真をポケットから取り出し翔に見せた。
「そう、この娘。」
その写真に写っていたのは、この間の事件の被害者だ。
「なるほど。この娘で他に思い当たることはない?」
「そうはいっても。」
「なんでもいいの。」
霧子の目が真剣になってきた。それに圧倒され、翔はなにかを思い出そうと目をつむった。
数秒の沈黙が流れた。
「やっぱり思い当たることは。アイドルらしくご執心の男性が他にいたこととか、月に何回かムツ・メディカルセンターに行っていたとか。」
「ムツ・メディカルセンター?」
「これはオフィスの他の娘も同じだけど。」
その言葉に霧子の脳裏にひっかかるものがあった。
「そのムツ・メディカルセンターってなに?社長室でも見かけたけど。」
「よく知らないけど、健康診断をしてくれるところよ。オフィスとは別法人のはずだけど。」
霧子は壁にもたれるとしばらく何かを思案するように口を噤んだ。
翔は黙ってその様子を見ていたが、やがてじれたのか霧子に声をかけた。
「霧子さん?」
「そこ怪しいわね。」
翔の声に反応するように霧子の口が開いた。
「怪しいって?」
翔には霧子の考えていることがわからなかった。
「そのムツ・メディカルセンターを調べてみる価値はありそうね。」
壁から離れると霧子は個室を出ていこうとした。それに驚いた翔は霧子の腕をつかんだ。
「ちょっと、自分だけ進まないでくれる。」
翔は少しイラついたように霧子を引き寄せた。
霧子は翔の様子にちょっと驚いた表情を見せた後、軽く笑った。
「ごめんなさい。で、あなたの方で聞きたいことは?」
「えにしの会というのを聞いたことは…?」
「えにしの会…」
その言葉を口の中で何回か繰り返した後、霧子は顔を横に振った。
「社長室の金庫の中でパンフレットは見たけど、それ以上は…」
「そう」
翔はがっかりしたような顔をした。
「えにしの会って何なの?」
「最近はやりの宗教団体。私はその会とこのオフィスの関係をさぐっているの。」
「私の方で調べてみましょうか?」
「調べられるの?」
「一応、国家機構だからね。なにか新しいことがわかるかもしれないわ。」
「お願いするわ。」
「また、連絡する。」
そう言って霧子は右手を出した。今度は翔もすんなりその右手を握った。
5
ふたりの少女の協力関係ができあがったその日の午後。
新宿の劇場の控室に金髪の少女が鏡の前に座っていた。
アリエス4と呼ばれるアイドルグループのリーダーであるサキだ。
サキは、鏡の前で金色に染まる頭に手をやり、その髪をひっぱると髪はすんなりと取れ、その下から艶やかな黒髪が現れた。
傍らのクレンジングを手に取り、メイクを落とし始める。
「夜叉丸はいる?」
鏡を見ながらサキの口が開いた。
「はい」
それに答えるように部屋の片隅から声が返ってきた。
しかし、姿は見えない。
「気になる女性がいます。調べてくれますか?」
「かしこまりました。それでなんという者ですか?」
いつの間にか鏡の中に男の姿が現れた。
長い黒髪を後ろで束ねた長身の男だ。
「カティナのスタッフというふれこみで入ってきた者です。伊達と名乗っていました。」
サキは鏡の中の男に命令調で語りかけた。
「わかりました。それではさっそく。」
そう言うと鏡の中の男は不意に消えた。
サキは表情を変えず、相変わらず化粧を直していた。
その同じころ、オフィス・ワンのビルにサングラス姿の牙堂が姿を現した。
牙堂は地下にある警備室に向い、そのドアを開けた。
「あ、牙堂様」
室内にいた警備員が一斉に立ち上がった。
その中には高根の姿もあった。
「なにかおかしなことがあったと聞いたが。」
牙堂のサングラスが高根たちを一瞥した後、壁に取り付けられた複数のモニターにその視線を移した。
「昨日、監視カメラのひとつが妙なことになっていたのです。」
「妙なこと?」
「これです。」
高根がモニターの前に並ぶスイッチの内のひとつを押した。
いくつかあるモニターの一つに木調のドアが映し出された。
社長室のドアだ。
その画像を見て牙堂は怪訝そうな顔をした。
「これがどうした?」
「この先です。」
しばらく社長室のドアを映していた画像に異変がおきた。徐々に画面が別な景色を映しはじめたのだ。
あきらかにカメラが動いている。
「どういうことだ。」
「わかりません。カメラが勝手に動いているのです。」
「勝手に。人の手で動かされた形跡は?」
「そうした形跡はなにも…」
牙堂が腕を組んで考え込んだ。
「しばらくするとカメラは元に戻ります。」
高根のいうとおり、カメラの画像がまた動き始め、元通りになった。
「他になにか映ってなかったか?」
「そう言えばこの少し前に社長室を訪ねた者がいます。」
高根があるスイッチを押すと、画像が巻き戻され、ある場面で停止された。そこには社長室を訪ねる霧子の姿が映し出されていた。
「この女…」
牙堂の唇に薄い笑いが浮かんだ。
「知っているのですか?」
高根の質問に牙堂は笑ったまま答えなかった。
「わかった。このことは誰にも言うな。俺が処理する。」
突然、そう言うと牙堂は警備室を足早に出ていった。
高根をはじめその場にいたものは、訳もわからず、その場に取り残された。