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1/7

一、 発端

          1

 アナウンスの声がターミナルの中を響き渡り、様々な国から来た人間がその中を行きかう。今日も成田空港は活気づいていた。

 その雑踏の中を剣持は一人の人物を探している。

 今日、ロスから来るはずのFBIの捜査官だ。

 顔は写真で何度も確認したから頭に入ってはいるが、それにしても人が多すぎる。剣持は見逃さないよう注意深くあたりを見渡した。

 そのとき、剣持の肩をたたく者がいた。

 振り返るとサングラスをかけた女性が立っている。

 ネイビーのジャケットに同じ色のタイトなスカートをはいた黒髪の女性だ。

 「剣持さんですか?」

 流暢な日本語で尋ねられる。

 「ミス・エッシェンバッハ?」

 「YES(はい)

 女性は右手を差し出した。

 剣持も右手を差出し、握手をした。

 「車を用意しています。荷物はそれだけですか?」

 女性の傍らにはスーツケースが一個だけあった。

 「はい、必要なものは買いますのでご心配なく。」

 にっこりと笑うその表情が魅惑的だった。

 剣持は彼女のスーツケースを持つと、先にたって歩いた。

 駐車場に停めてあるクラウンに案内すると、中から運転手がおりてきて、剣持からスーツケースを受け取りトランクに入れた。その間に後部座席に彼女を乗せると、自分もその隣に座った。

 ほどなくクラウンは空港を後にした。

 「お疲れではないですか?ミス・エッシェンバッハ。」

 「霧子(きりこ)と呼んでください。伊達霧子(だてきりこ)と。お気遣いは無用です。」

 霧子はサングラスをとると、その黒い瞳を剣持に向けた。

 「そうですか?では遠慮なくそう呼ばせていただきます。ミス霧子。日本に来た目的は人探しと聞いていますが。」

 「はい、先月、カルフォルニアである科学者が拉致されました。この人です。」

 霧子は一枚の写真を手渡した。頭の禿げあがったメガネの男がそこには写っていた。

 「名前は、オーエン・グラス。カルフォルニアのサンディエゴにある生物化学研究所に在籍する微生物学者です。」

 「微生物学者…」

 「そのグラスを拉致した犯人は、その日のうちにロスに向い、翌日、ロスから成田へ飛んだようです。」

 「なぜそう言えるんです?」

 当然の質問であった。

 「FBIが捜査した結果です。空港の防犯カメラにグラスらしき人物が映っておりましたし、空港カウンターでの聞き取り調査でも、成田行きのチケットを買った客の中にグラスらしき人物がいたと証言しております。」

 「なるほど」

 剣持は改めて写真を見た。

 「犯人がグラス氏を拉致した目的は?」

 剣持は霧子を見ながらもっとも気になる質問をした。しかし、霧子はそれには答えず、だまったまま真正面を見ていた。

 「ミス霧子?」

 答えを求める剣持だったが、霧子は押し黙ったままだ。

 (かんじんなことは教えないつもりか?)

 「ここでは詳しいことは言えません。剣持さんの屋敷で続きはお話します。」

 剣持の心の内が聞こえたのか、霧子はそう答えた。

 そう言われ剣持もそれ以上は追及できなかった。


 クラウンは霧子が滞在するホテルに寄り、一旦、チェックインさせると再び霧子を乗せて、剣持の屋敷に向った。

 剣持の屋敷、つまり特別捜査局のある屋敷は以前とは別の場所に移っていた。

 その屋敷に到着すると剣持は、霧子を案内して奥にある局長の部屋に移動した。二重になっているドアを閉め、中央にあるソファに座るよう霧子に勧めるが、霧子はすぐには座らず、部屋の中を見渡した。

 部屋の奥に大きな机、その後ろにある本棚の列。片側には大きな窓があり、霧子はそこに近寄ると窓を丹念に調べた。そして、反対の壁にかかっている絵を同様に調べたあと、やっとソファに座った。

 それを黙って見ていた剣持は思わず苦笑した。

 「心配性のようですな。」

 皮肉にも取れる言葉に霧子はニッコリ笑った。

 「気を悪くしないでください。いつもの習慣ですから。」

 そう言って、手にしたバックから一束の資料を出した。

 「先ほどの質問ですが、それはグラス氏の研究内容にあります。」

 「研究内容?」

 剣持は霧子の出した資料を手にしてその中身を読んだ。

 「彼の研究テーマはウィルスと脳内物質についてでした。」

 「脳内物質?」

 「つまりある種のウィルスが、人間の脳内物質にさまざまな影響を与えられるかもしれないということです。」

 「具体的にはどういうことですか?」

 「ドーパミンやエンドルフィンなどの脳内物質を、スポーツや修行などではなく、ウィルスによって継続的に放出することができるということです。これを利用すれば統合失調症やうつ病などに効果的な治療ができるようになるかもしれません。」

 「なるほど、すばらしいですね。それが実現できれば画期的なことだ。」

 剣持は感心したようにうなずいた。

 「そう、独占できれば高利益にもつながります。」

 霧子は長い脚を組み、窓のほうに目を向けた。

 「つまりその利益を独占しようとたくらむ(やから)が博士を拉致し、日本に連れて行った。犯人はどこかの企業ですか?」

 霧子の目が窓から剣持へ戻った。

 「企業とは限りません。日本のやくざかもしれません。」

 「やくざ?やくざがうつ病治療に関心があると…」

 その問いに霧子は顔を横にふった。

 「ご存知でしょう。ドーパミンが脳内麻薬だということを。」

 「脳内麻薬!?」

 剣持の頭にあることが浮かんだ。

 「まさか、ウィルスを使って麻薬を…?」

 「どういう風にウィルスと麻薬を結びつけるのかはわかりません。そのカギをグラス博士が握っているとすれば、犯人は麻薬組織とつながっているかもしれません。」

 霧子は、カバンから別の資料を取り出した。

 剣持はそれを受け取り、ざっとその中身に目を通した。

 「FBIが調査した日本の麻薬関連の組織です。ミスター剣持には麻薬の線から捜査をお願いしたいのです。」

 「わかりました。さっそく調べてみましょう。」

 「よろしくお願いします。」

 霧子は再度、右手を出した。

          2

 剣持たち特別捜査局員は、警視庁や厚労省などあらゆる方面から情報を集めた。霧子も剣持のはからいで部下を一人つけてもらい、都内を案内してもらいながら捜査を始めていた。しかし、グラス博士の手掛かりは杳としてつかめなかった。

 そのまま一週間が過ぎた。

 今日も霧子は特捜局の一員である小田切とともに、都内をRX―7で走っていた。

 「少しは日本になれましたか?」

 小田切は前を見ながら気さくに話しかけた。

 「ええ、まあ。」

 霧子は窓から外を眺めながら気のない返事をした。

 「霧子さんは、伊達という名前なんですよね。」

 「ええ…」

 「うちにも以前、伊達という捜査官がいたんですよ。」

 軽く言ったその言葉に、霧子は反応を示した。

 「そうですか。偶然ってあるんですね。その方は?」

 「亡くなりました。3年前に。惜しい男を亡くしましたよ。」

 「亡くなった…」

 霧子の歓心が高まった。

 「その方…」

 「おや、あれはなんだ?」

 霧子が言いかけた時、小田切が前方を指差した。

 その先を見ると、人だかりがしており、パトカーも停まっている。

 「なにかあったみたいですね。」

 小田切は路肩にRX―7を停めると、車を降り、人だかりの方へ歩いて行った。霧子は興味のなさそうな顔をしながら車内から前方の様子を眺めていた。

 小田切が戻ってきた。

 窓越しに霧子に語りかける。

 「どうやら傷害事件が起きたようです。」

 「そう」

 あいかわらず霧子は興味がなさそうに髪をいじっている。

 「犯人は麻薬中毒患者のようです。」

 麻薬の言葉に霧子がすぐさま反応した。

 「どういうことですか?」


 一時間前。

 その劇場に多くの人が集まっていた。

 大半は若い男性だが、中年の男も交じっている。

 その日、「乙女座クラブ」というアイドルグループがイベントで握手会を開いていた。十数人の少女が立ち並び、めいめいがお目当ての少女の握手をもらおうと並んでいた。

 その中で事件は起きた。

 マイという名の少女がファンに笑顔を送りながら次々と握手をしていた。

 中にはプレゼントを渡す者もいたが、おおむねスムーズにイベントは進んでいた。

 その中のひとり、灰色のパーカーを着て、キャップを目深(まぶか)にかぶり、その上からフードをかぶった男が近づいてきた。

 マイはファンのひとりと思い、笑顔といっしょに右手を差し出した。

 男も差し出された手を握った。

 普通ならすぐに手を離すところだが、男は手を離すどころか強く握りしめた。

 「痛い」

 マイが顔をしかめた。

 痛がるマイを尻目に男は手をひっぱり、顔をマイに近づけた。

 「やっと見つけた。もう離さない。」

 キャップの下からのぞく顔を見て、マイの顔色が変わった。

 「離して!」

 マイが手を引き離そうとしたとき、男はポケットからジャックナイフを取り出した。

 「マイは俺のものだ。」

 狂気に彩られた目の男が、持っていたナイフをマイの腹部へ突き刺した。

 「うっ」

 マイの身体が前のめりになり、男がそれを受け止める。

 それを見た列に並ぶ男たちがざわついた。

 「おい、何しているんだ。」

 「マイちゃんを離せよ。」

 二人の若者が抱き合う形となった二人を引き離そうとした。

 マイはうつろな目で虚空を見ながら、床に丸太のように倒れ、その腹部からは赤いしみがじわじわと広がり、床にも赤い液体が広がっていった。

 血であることは一目瞭然だ。

 男の手には血に濡れたナイフが握られている。

 「キャ ── !」

 悲鳴が木霊し、場内がパニックになった。

 めいめいがその場から逃げ出そうとし、男のまわりは一時、空白地帯となった。その中心で男は呆けたように立ち尽くしていた。

 警備員が後ろから男に飛びかかった。

 次々と警備員が男を上から押さえつけ、その状況にやっと気付いたのか、男はそこから逃れようと暴れだした。

 「警察!」

 「救急車!」

 怒号や悲鳴が飛び交い、場内は騒然となった。

 十数分後、パトカーと救急車が到着し、マイはストレッチャーに乗せられて救急車へと向かい、男は二人の警官に抱きかかえられるように連れて行かれ、パトカーに乗せられた。


 事件のあらましを小田切から聞いた後、霧子はしばらく思案した。

 「その犯人に会ってみたいですね。」

 霧子は小田切の目を見つめながらそう言った。

 「わかりました。たのんでみましょう。」

 小田切は霧子の迫力に押されるように約束した。

 

 劇場の中は落ち着きをとりもどしつつあった。

 イベントは中止となり、グループもファンも引き上げていた。

 警察官や鑑識官も捜査をほぼ終え、帰り支度をはじめている。

 その様子を見つめていたマネージャーと思しき男が、携帯電話を取り出し、あるところへ電話をかけた。

 「もしもし、高根です。」

 『どうなった?』

 「いま、警察が引き上げていきました。犯人は西署に連行されていきましたし、ナンバー34は病院に運ばれました。吾妻総合病院です。どういたしますか?」

 『わかった。警察の方は俺にまかせろ。病院の方はおまえたちで処理しろ。』

 「かしこまりました。牙堂(がどう)様。」

 短いやりとりの後、高根と名乗った男は劇場から出ていった。

          3

 日が西に隠れた頃、霧子と小田切は犯人が連行された西署に到着した。

 「すみません。手続きに手間取って。」

 小田切が恐縮そうに頭を下げた。

 「気にしないでください。お役所がスローなのはアメリカ(うち)も同じですから。」

 そう言って、早足で先を歩いた。

 ふたりが署内に入ったすぐ後、その警察署の前に1台のボルボが停まり、その中からサングラスに革のジャケット姿の男が降りた。

 「合図があったら言われた通りにしろ。」

 「おまかせを、牙堂様」

 運転席の男とそう応答した後、牙堂と呼ばれた男はまっすぐ建物に向った。

 玄関の前には警察官が立っている。

 牙堂はそれを無視して堂々と署内に入る。

 立ち番の警察官は気付かないようだ。

 それだけではない。

 署内のだれもが牙堂の存在に気が付いていないようであった。

 牙堂は階段を使って地下へと降りていった。

 

 そのころ、霧子と小田切は署長室にいた。

 丸顔の署長がニコニコしながら応対した。

 「FBIの方が我が署を見学したいとは光栄ですな。」

 「研修でこちらにいらっしゃいまして、ぜひ日本の警察署というものを拝見したいと申しまして。」

 当然、霧子の来日目的は秘せられている。霧子はFBIと警視庁との情報交換研修という名目で来日したということになっていた。

 「こちらを回っているときに、この管内で事件が起きたと聞きまして、ぜひ、日本の捜査をじかに拝見したく、広報官に無理をいいました。」

 そう言って、霧子は署長に向ってニコリと笑った。

 署長の顔がゆでだこのように赤くなった。

 そこへ、ノックの音がした。

 「入りたまえ。」

 署長の言葉にドアが開き、角ばった顔つきの男が入ってきた。

 「紹介します。捜査課長の戸羽(とば)です。戸羽君、こちら警視庁の小田切さんとFBIのミス・エッシェンバッハだ。」

 「はじめまして、戸羽です。」

 杓子定規におじぎをする戸羽に霧子は立ち上がり、右手を差し出した。

 「キリコ・エッシェンバッハです。このたびは無理をいいまして申し訳ありません。」

 「いえ、恐縮です。」

 霧子の魅惑的な笑顔に、戸羽はうろたえながら霧子の右手をしっかり握った。

 「さっそくですが、その犯人と会えますか?」

 「いまは留置場にいます。」

 「その留置場に案内していただけますか?」

 霧子は有無をいわせぬ威圧感を笑顔に乗せて、署長を見た。

 「戸羽君、留置場に案内してくれたまえ。」

 さらに顔を赤くしながら霧子の言葉に押されるように戸羽に指示した。

 「わかりました。どうぞ、こちらに。」

 戸羽を先頭に霧子、小田切と三人は署長室を出た。


 そのころ、地下の留置場にたどり着いた牙堂は、中の様子を伺っていた。

 目の前に鉄格子の扉があり、その前に留置場の係官がひとり、扉の向こうには留置場を見まわる係官が一人いた。

 それを確認すると牙堂はポケットから携帯を取り出し、ある番号を押した。

 

 霧子と小田切、戸羽は署長室から地下の留置場へ向かうため、エレベーターに乗っていた。

 「犯人の素性はわかったのですか?」

 霧子の質問に戸羽は答えてよいものかどうか、迷った様子を見せた。

 「署長の許可は得てあります。彼女の質問に答えてください。」

 小田切が助け舟を出した。

 その言葉に安心したかのように戸羽の口が開いた。

 「犯人は元代議士の村山という男でした。二週間前、女性スキャンダルで議員をやめた男です。」

 「代議士…」

 意外な素性に霧子は考え込んだ。

 「動機はなんだったのですか?」

 今度は小田切が質問した。

 「わかりません。訳のわからないことを口走り、暴れたかと思うと急に静かになるというありさまです。」

 「麻薬中毒と聞きましたが?」

 「それもいま調査中です。ただ、麻薬患者に似た症状を見せていたのは確かです。」

 そうした戸羽と小田切のやりとりの最中、エレベーターが1階についた。

 ドアが開き、戸羽が案内するように先におりた。

 「こちらです。」

 そう言って三人が地下への階段へ向かった時だった。

 署の外から猛スピードで侵入してきた車があった。

 例のボルボである。

 ボルボはブレーキもかけず、まっすぐ警察署の玄関に突っ込んできた。

 「あぶない!」

 誰かが叫んだ。

 その後、すさまじい破壊音とともにガラスドアがこなごなに砕け、衝撃でフロントがつぶれたボルボが署内に飛び込み、壁に激突した。

 中にいた人間は、あるものは車にはね飛ばされ、ある者は衝撃を避けようと床に伏せ、ある者はその場から逃げようと駆け出した。その中で、霧子は事故現場には目もくれず、地下へ通じる階段に向った。

 「霧子さん!」

 意味も解らず、小田切もその後を追った。


 地下の留置場にも上の衝撃音は届いていた。

 「何事だ!」

 その衝撃音に弾かれるように扉の前にいた警察官が階段に向って駆け出した。

 その前に突然、牙堂が現れた。

 見たこともない男の突如の出現に、警察官は驚愕と警戒心を同時に(おもて)に現し、一喝した。

 「だれだ、貴様は!」

 警察官はすぐさま、警棒に手をかけた。

 その行動に牙堂の唇が吊り上った。

 留置場の前にいたもうひとりの警察官は、警棒に手をかけた同僚が次の行動に移ると信じていた。しかし、同僚は警棒に手をかけたままピクリとも動かない。

 牙堂が警察官を押しのけ、前に出た。

 警察官は首から鮮血を迸らせて、床に丸太のように倒れた。

 同僚に起きた出来事に、もうひとりの警察官は全身が氷のように固まった。

 牙堂は倒れている警察官から鍵束を取り上げ、目の前にある鉄格子の扉の鍵穴にそのうちの一本を差し込んだ。扉はなんなく開き、目の前に固まったまま立ち尽くしている警察官に一瞥をくれた。

 牙堂が近づくのをようやく認識した警察官は、警棒を取り出し、言葉にならない声を張り上げながらそれを振り回した。

 牙堂はその行動にため息をつくと、右手の人差し指をその警察官に向けた。

 その動きの意味も解らず、警察官は警棒を振り回し続けている。

 牙堂の爪がすさまじいスピードで伸び、そのまま警察官の目に突き刺さると、後頭部へ突き抜けた。

 鮮血と脳しょうが後ろの床に飛び散る。

 警察官の動きがゼンマイの切れた人形のようにピタリと止まり、白目を向くと棒立ちのまま後ろに倒れた。

 牙堂の爪は元通りに人差し指に収まり、血に濡れた指先をなめると、牙堂は留置場の中をひとつひとつ確かめながら歩みを進めた。

 目的の牢はすぐにわかった。

 中には灰色のパーカーを着た中年男が、両膝を両手で抱えた姿勢で部屋の片隅に座っていた。

 それを見た牙堂がニヤリと笑った。

 人差し指が男に向く。

 「Freeze(うごくな)!」

          4

 突然の叫び声に牙堂の身体が固まった。

 振り向いた先には銃を構えた霧子がいた。

 「手をあげなさい。」

 霧子の言葉に牙堂は素直に手を挙げた。そして、霧子の持つポケット拳銃を見てニヤリと笑った。

 「そんなおもちゃで俺を止められと思うのか?」

 霧子が構えるポケット拳銃(コルトディフェンダー)を明らかにバカにした言動だった。

 「バカにしないほうがいいわよ。」

 霧子の口の端に笑みが浮かんだ。

 「そうかい、じゃあ止めてみろよ。」

 手をあげたまま牙堂の人差し指が牢の中の中年男に向いた。

 霧子を見ながら牙堂の爪が男に向ってまっすぐ伸びた。

 “ガァ──ン”

 銃声とともに牙堂の爪が吹き飛んだ。

 霧子のコルトディフェンダーから青白い煙が立ち上る。

 牙堂の顔に少なからず驚愕の色が浮かんだ。

 「バカにしないほうがいいっていったでしょう。」

 霧子は笑みを浮かべたままだ。

 「ゆっくりと両手を床につけて。」

 ディフェンダーの銃口を牙堂の額に向けるとそう命令した。しかし、すぐにはその命令に牙堂が従わない。

 「さっさと言われた通りにして。それとも額に穴を開けられたい?」

 激しい口調で威嚇したせいか、牙堂が言われた通り体を沈め始めた。

 「霧子さん、いまの銃声はなんですか?」

 そこへ現場の状況を知らぬまま小田切が階段を下りてきた。

 その場に隙が生まれた。

 それを逃さず、牙堂の身体が横に飛ぶ。

 銃口がその後を追った。

 霧子のディフェンダーが火を噴くのと、牙堂の爪が霧子に向って飛ぶのがほぼ同時であった。

 霧子の銃弾は牙堂の腕をかすめて後ろの壁にめり込み、牙堂の爪は霧子の頬をかすめて後ろにいた小田切の肩に突き刺さった。

 「うわっ!」

 肩をおさえたまま小田切が床に倒れた。しかし、霧子は小田切のことは気にも留めず、床を蹴って牙堂と鉄格子の間に移動した。

 銃口を牙堂に向け、躊躇なく引き金を引いた。

 牙堂の身体が予想以上の速さで動く。

 45ACP弾がむなしく脇を通り過ぎる。と同時に右手の爪が伸び、霧子の銃を弾き飛ばした。

 思わぬ反撃に顔をしかめた霧子は、背中から特殊警棒を取り出し、それを伸ばした。

 そこへ牙堂の5本の爪が頭上から襲いかかる。

 “ガキッ”という金属音とともに爪は、霧子の頭のすぐ上で止まった。

 「女にしてはやるじゃあねぇか。」

 牙堂の口にサディスティックな笑いが浮かぶ。

 力が加わり、警棒で止めた爪がじりじりと霧子の顔に迫る。

 霧子の片膝が床についた。

 「そのかわいい顔を切り刻んでやるぜ。」

 笑いとともにさらに力が加わった。

 それに合わせるかのように霧子の身体が急に沈み、左足が下から牙堂の腹部を蹴った。

 霧子の巴投げが牙堂の身体を宙に舞わせた。

 予期せぬ技に牙堂はバランスを崩し、宙を一回転して床に落ちた。

 すぐさま起き上がる牙堂の目の前で、床に転がったディフェンダーが、吸い寄せられように、霧子の右手に収まった。

 牙堂の爪が飛んだ。

 それを霧子のディフェンダーが撃ち落とす。

 「きさま!」

 牙堂の全身から妖気が立ち上った。

 それに対抗するように霧子のまわりが陽炎のように揺らめきだした。

 そのとき、階段を下りてくる多数の足音が二人の間に届いた。

 「チッ」

 舌打ちした牙堂が両手を床に向けて振った。

 十本の爪が床に突き立つ。

 牙堂の行動が予測できない霧子は、ディフェンダーの銃口を牙堂に向けたままいつでも動ける体制をとった。

 「おとなしく投降しなさい。」

 霧子の威嚇に牙堂が再度笑った。

 「あばよ。お嬢さん。」

 次の瞬間、床が爆発し、土ぼこりで辺りが覆われた。

 その中、霧子は引き金を引いた。

 二発の銃声が銃弾とともに土ぼこりの中に消えていく。

 (手ごたえがない)

 口を押えながら辺りを見渡す。

 土ぼこりが治まりだした時、床に大きな穴は開いていたが、牙堂の姿はどこにもなかった。そこへ警官たちが多数降りてきた。

 「何事だ。」

 戸羽課長が叫んだ。

 同時に、二人の警官の死体を見つけて、思わずうなった。

 「どういうことだ。」

 戸羽は霧子を睨み付けながら尋ねた。

 霧子はそれには答えようとせず、鉄格子の中をじっと見つめていた。

 灰色のパーカーを着た男が倒れている。

 のどには赤い穴が開いていた。

 「やられた。」

 思わず唇をかんだとき、上のほうから自動車のエンジン音が響いてきた。

 「上か!?」

 そうつぶやくと同時に霧子は駆け出していた。

 戸羽やその他の警官の間をすり抜け、階段を駆け上がる。

 さきほどの事故現場にたどり着くと、フロントがひしゃげたボルボがバックで建物から離れるところだった。

 「待て!」

 霧子はディフェンダーを構えて引き金を引いた。

 しかし、銃からは撃鉄音がむなしく響くだけであった。

 「Shit(くそ)!」

 霧子の悔しさを残して、ボルボは暗闇の中に消えていった。


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