(9)主導権の行方
「はよ、古比奈」
「…………」
こいつ、なんでこんなに普通なの。昨日あんなことがあったのに。そう思いながらも、『優等生でお嬢さまな古比奈結海』には、他人からの挨拶を無視するという選択肢は無い。
「おはようございます、国永さま」
少しばかり笑顔が引き攣ってしまったことに気付いたのは、目の前にいた国永だけだったようだ。彼はふっと肩を震わせた。
そうして、また手にしていたパンを齧る。
……彼もこれで、苦労しているのかもしれない。空腹というのは、生きていれば必ず訪れるものだ。抑える術は無い。対策なんて、それこそ、食べ続けるくらいしか。
そうっと憐憫を向けていると、私の視線に気付いた国永が小首を傾げた。
「どうしたの。俺の顔に何かついてる?」
「……特に何も?」にっこり笑って抗戦する。
するとそれまで離れたところから様子を窺っていたお嬢さまがたが、ここぞとばかりに参戦した。
「国永さま、恋する乙女にそのような野暮のこと、訊ねてはいけませんわ!」
「好きな方に意地悪したくなるのもわかりますけど」
「そんなお二人を見るのは、とても胸がどきどきしますけれど」
「ときめきで鼻血が出そうですけれども」
「でも、古比奈さまをあまりお苛めにならないでくださいませ!」
やめてくれ、頼むから。
私は早速後悔した。昨日、『お付き合い』の件をうやむやにしてしまったことを。国永が猫だとか猫じゃないとかはどうでもいい。それよりもまず先に、あの茶番劇にどう収集をつけるか、話し合っておくべきだった。
「そっか。古比奈、ごめんね」
私はひたすら笑顔の仮面を浮かべ続ける。
「いえ、お気になさらず」
馬鹿か。気にするに決まっている。
私は見逃さなかった。みんなの視線がふっと外れた瞬間、国永は心底可笑しそうに口元を手で覆い、ふっと噴き出したのである。
完全に遊んでいる。この状況を楽しんでいる。
おのれ、後で覚えていろ。ぎゃふんと言わせてやるんだから。
授業終了のベルと同時に、国永がぐりんと私を見た。逃がさない、と言わんばかりのスピードに、ちょっとばかり危機感を覚える。
ぎゃふんと言わせるのは後にして、今はどこかに逃げよう。
早々に意見を翻し――もとい、『作戦を立て直し』――席を立った私と同時に、彼もまた立ち上がった。
「古比奈、お昼行こ」
そうか。ならば、勝手に行くがよい。
にっこり作った笑顔で、無言の訴えをする。正しく伝わったはずのそれを見事にスルーしてのけた国永は、「なんか、照れるなあ」などと宣った。どうして照れる必要があるのか。第一、照れなんて感情、欠片も見受けられない。むしろ面白がっている。絶対にすごく面白がっている。その証拠に彼の印象的な吊り目は、笑っている時と同じように細まっているではないか。それのどの辺りが『照れ』の反応なのか、いっそ問い詰めたい。
瞠目した私へ向けて……というよりは、密かに沸き立った周囲にアピールするかの如く、「お昼、付き合ってから一緒に食べるの初めてだよね」と彼は続けた。
彼はあくまで、偽装恋人設定を突き通すつもりでいるらしい。確かに昨日、ほとぼりが冷めた頃に別れたことにすればいい、と彼は主張した。が、私は了承した覚えは無い。
ふるふる震える私の手を、国永が掴んだ。
きゃあっと今度こそ歓声が上がった。
「行こ」
……演技にしては、あまりにも堂に入っている。実は手慣れているのではないか。
私はむっとして、心の中で彼に『女たらし』のレッテルを貼った上で、渋々彼に従った。言うまでもなく、教室を出た時点で『手繋ぎラブラブモード』は遠慮させて頂いた。
不本意なお昼休憩を迎えることとなった私は、中庭のベンチで食事をとっていた。この野郎、一番目立つところに連れてきやがった。周囲の目があり、悪態を吐くことすらできない。
お淑やかに食事をする私をじっと見た国永は、ぽつりと呟いた。
「古比奈って、やっぱお嬢さまだよね」
誉め言葉には聞こえなかった。
私はお嬢さまだけど、あんたもいいとこのお坊ちゃんだ。
仮面が無ければそう罵ったところだが、今の私は正真正銘のお嬢さまである必要があった。
「そう、でしょうか……。なんだかお恥ずかしいですわ」
ふふ、と微笑みながら、私はベンチの下で、どうにか隠れて彼の足を踏めやしないか、と画策する。
「本当にね。変なとこで抜けてる。普通、不意打ち入ったくらいで一発で終わるようなことしない」
「なっ……」それは、昨日の菓子の件か。
普通の声量で口にするものだから、私が焦ってしまった。周囲の様子は変わらない。彼は元々、静かに話す方だ。声が届く範囲に、人の姿は無かった。
「俺、そんなへまはしないよ」
私の行動を読んだかのように、指摘が入る。不満げというよりは、やはり私を揶揄うような声色だ。
私はつんと澄ました顔をしてみせた。
「……どこでどなたが聞いているかわかりませんので。先の失敗を活かしただけですわ」
「ふうん? でも『あれ』は滅多に無いから、活かす先があるかなあ」
微かに肩を竦めた国永の足を、踵で踏ん付けた。ナイス、私!
「いっ」
悲鳴を押し殺した彼は、「手加減忘れてる」と私を睨む。私はさも心配しているとばかりに眉を八の字にして、両手で口元を覆った――思わずにやりと笑ってしまったので、隠さないとまずかった――。
「どうかされましたの、国永さま」
「……べつに」
むっと目を吊り上げた彼は、頬杖を突き、少々不貞腐れているように見えた。
――なお、この一連のやり取りが、周囲の者たちから「なんてレアな表情」「本当に仲がよろしいのね」「お二人の間には、特別な信頼関係があるのですわ」「それにしても絵になる光景ですこと」「額に収めましょう」などと騒がれていることは、当然ながら私は知らなかった。
もしかすると国永は全て計算尽くだったのかもしれない。そこまで考えが及ぶのはもっとずっと先のこととなる――。
しかし、だ。
この状況をいかんとしたものか。私は思い悩む。周囲からは完全に、付き合っていると思われている。今の状況で私が否定をしたとしても、「恥じらっていらっしゃるのね」などと言われて終了だ。かといって実力行使で誤解を解くキャラ設定でもないので、まさに万事休す、である。
そもそも国永が、毎朝私に挨拶などしなければ、変な噂が立つこともなく、誤解なんてすぐさま解けるはずなのに……。今からでも遅くない、今すぐ挨拶をやめてもらえば――いや、どうだろう。痴話喧嘩扱いされたら。今の浮足立ったお嬢さまがたを見る限り、有り得ない話ではない。
「すれ違いだなんて……」「仲直りした方がいいんじゃないかしら」「わたくしたち、協力いたしますわ!」「お二人の明るい未来のために!」などと詰め寄られては堪ったものではない。私は自分の想像に、ぶるりと震えた。
――かくなる上は。
むしろ、この状況を利用してやるのだ。転んでも、ただでなんて絶対起きてやるもんか。考えようによっては、好都合でもあるのだ。何しろ、隠れることなく堂々と相手を監視できるのだから。……それ以上にリスクもあるけれど。主に母にばれた時が。……考えるな。いったん忘れよう、私。
心を可能な限り落ち着かせ、私は国永へと向き直る。
「そうだ、国永さま」
ぽん、と手を合わせた。国永は視線だけを寄越して、なに、と続きを催促する。未だに不満そうだ。思ったよりも根に持つタイプのようである。
「お付き合いするにあたって、いくつか約束ごとをしませんか?」
「約束?」
彼は片眉を上げた。
「ええ。……まず、わたくし、どなたかと交際するのは初めてですの。できれば二人で、ゆっくりとお付き合いできればと思っております。ですので、しばらくの間は、交際の件を伏せておきたいのです」
主に親族に。特に親に。可能な限り、学校の外にこの話を出さない方向で。
繰り返し、繰り返し唱えながら、怨念を込めて見つめると、国永はそれを避けるように小首を傾げた。
「それは、具体的にはどういう形で? 訊かれたら嘘を吐くってこと?」
「……そう、ですわね。心苦しいですけど」
私はすっと目を伏せる。
嘘を吐くも何も、今のこの状況が真っ赤な嘘だ。むしろ本当のことを言えばいい。……否。それもそれでまずいのか。なんて面倒臭い状況なの!
「わかった。他には何かある?」
意外とすんなり受け入れたことに驚きながら、こくりと頷く。
「他は……そうですわね……人間誰しも、どうしても秘密にしたいことがありますでしょう。それに関しては、そっとしておいていただきたいの。くれぐれも口外や詮索などは、しない方向で」
「うん、いいよ。他は?」
「いえ、それだけですわ」
顔を横に振ると、国永は、ぱちり、と瞬きをした。
「意外とシンプルだね」
もっといろいろあるんだと思ったのに。私はその発言に対して、反論する。
「約束は、あればあるほど、ひとつひとつの価値が下がってしまいますもの」
シンプルでいいのだ。それが正しい形だ、と私は思う。わざわざ複雑にするものではない。
『交際の件を大っぴらにしない』
『お互いの秘密を厳守する』
大事なのはこれだけだ。
――前者に関しては、周囲にもそれとなく口止めを依頼する必要があるが、それはさておき――。
よしよし上手くいった、とほくほくしていた私に向かって、国永が爆弾を投下した。
「ねえ、俺からも良い?」
いつの間にか機嫌が直った国永が、にやりと笑う。私はぞっとした。彼は明らかに、悪いことを思いついた顔をしている。被害者が誰か、などと問う必要すらない。十中八九、私だ。
「古比奈とした約束の数の分だけ、俺のお願いも聞いてよ。今んとこ、ふたつ。異論は無いよね。俺だって、古比奈の希望をすんなり呑んだんだから」
異論、大いにありますが。
お互いの弱みをそれぞれ握り合っているはずなのに、何故主導権が常に国永にあるのだろう。釈然としない。そもそも一つ目の『口外禁止』も、二つ目の『秘密厳守』も、国永だって関わりあることなのに。
ぐぐぐぐ、と握り拳を固める私が口を開く前に、彼は首を傾げる。
「だって考えてもみて。俺の秘密を他人に言ったところで、古比奈が頭の弱い子認定されるだけでしょ。それに俺は、付き合ってることが広まっても問題無いし」
「そ、それは……」
私は言葉に詰まった。秘密を喋られても交際が公認のものとなっても痛くも痒くもない、とはっきり言われてしまえば、こちらとしてはもはや手の出しようがない。
「じゃあ、お願いごと、ゆっくり考えるね。決まったらよろしく」
嫌な言葉だった。いったい何を要求する気なのか。眩暈がする。青褪める私の顔を覗き込んで、国永がせせら笑う。
「古比奈って、押しに弱いタイプだよね」
「んな……っ!?」
あんたがひたすらゴーイングマイウェイなだけでしょうが!!
……と、叫びたい気持ちを、辛うじて抑え込む。自らばらすわけにはいかない。
「は、初めて、言われましたわ……っ!」
爪が肌に食い込むほど、ぎゅううう、と拳を強く握る。そうして必死に、痛みで怒りを上書きしようとしていた。
「もし約束したいことが増えたら、言ってね?」
絶対、言わない。もう、言わない。
口にしたが最後、都度『お願いごと券』を発券するはめになることは、容易に想像がついた。じっとり睨む私を見て、彼は可笑しそうに口元を緩めると、なんの気負いもなく立ち上がる。
「そろそろ教室に戻ろう」
「それ、一つ目のお願いでしょうか」
「まさか」
そんな悪徳じゃないでしょ、と国永が言う。
いっそ悪徳でもいいのに、と私は思った。
「じゃ、また放課後」
教室に戻って席に着くなり、彼は寝始めた。いつも通り、授業直前まで惰眠を貪る気なのだろう。国永の旋毛を見下ろしながら、……はたと気付く。放課後? 放課後って言った?
放課後もこいつと会わないといけないのか。私はげんなりする。私の唯一のオアシスが、音を立てて壊れた瞬間だった。
それでも、猫ならまだマシだ、と思っていたのに。
「なんであんたが来るの!?」
校舎裏に現れたのは、猫ではなくて正真正銘、人間だった。
「んー、今日はお菓子の気分だったから?」
「だめ。これ、私の。あげないからね。猫缶ならあげる」
好物を盗られまいとぎゅっと抱き締める。
「……俺、今、人間なのに」猫缶? と不満げな顔。
「美味しそうだし、大丈夫でしょ」
「何言ってんの、あれは人間の舌じゃだめ。……もういい。そっちがそういう態度なら、こっちにも考えがある」
不穏な発言。何をする気か、と警戒する私を置いて、国永は背中を向けて去って行く。
少し経ってから、建物の角から四本足の生き物が歩いてきた。
「……なんで猫の姿で来んのよ! 追い返せないじゃないの! 卑怯者!」
先程とは正反対のことを大声で叫ぶ私に、グレーの猫は寛大だった。というよりも、何もわからないふりをしている。彼は、なんのことやらさっぱり、と言わんばかりに、私を見ながら首を傾げ、「にゃあん」と可愛らしく鳴いた。
『これからもよろしくね、共犯者さん』
……そんなことを言われた気がするのは、気のせいだろうか。実際は、『共犯者』よりももっとひどい待遇かもしれない。一方的に振り回されるのだ。さもありなん。
もふもふの誘惑にあえなく負けてハイの頭を撫でながら、私はこれからのことを思い、ついうっかり泣きそうになった。
これにて、第一章閉幕です。読んで頂き、ありがとうございました!
せっかくのジャンクフード…某有名バーガー店とかに行って欲しいですが、当分先になりそう。(手元のプロットもどきを見る限り)
六月から、第二章公開します。
よろしければまた、お付き合いください。