(7)責任の所在
放課後。私は早速、足早に教室を後にしようとする国永をひっ捕らえた。
「国永さま、お話がありますの。二人きりで」
「ごめん、今、時間が無いから、またにしてくれる?」
にべもない拒否。しかし私は食い下がった。
「そんなつれないこと仰らないでください。わたくしたち、これでも交際初日ですのよ……?」
誰かさんの所為で、そういうことになってしまったのだ。言外に滲ませる。
彼はすっと視線を外し、ふう、とため息を吐く。
「……手っ取り早く助けただけなのに……」
ぼそっと聞こえた発言に、私は彼にしか見えない角度で、ぎろっと睨んだ。ふざけんな、他に方法があっただろうが。というか、一人楽しんでおきながら、それ言う!?
しかし彼は気にした素振りひとつ見せず、私の手を振り払うと勝手に教室から出て行ってしまう。逃がすものか、と私はその後を追う。
撒く気なのか、国永の足取りは異様に早い。負けるもんか、と私はほとんど小走りでついていった。誰かに見られるかもしれない、と思ったが、気にしている余裕は無かった。よしんば見られたとしても、この際「国永さまを追い掛けておりましたの(はあと)」で済ますつもりである。利用できるものは全て利用してやる所存だ。
ぐにゃりぐにゃりと、無意味に曲がり、曲がり、曲がり……
「結局到着地点がいつもと変わらないとは、芸が無い」
「別に俺、芸なんて無くていい」
国永はげんなりしていた。
「ていうか、よく追い付いてきたね」
「お嬢さまナメんな」
「別にナメてはいないけど」言いながら、彼は自分の鞄をがさごそと探っている。そして、菓子パンをひとつ取り出した。
「ちょっと」させるか、とばかりに私は彼の腕を掴んだ。「先に話!」
「でもお腹が空きそうなの、俺」
「空いてないなら、もうちょっと耐えて」
「もうだいぶ耐えてる」
昼にあんなに食べているのに……? 愕然とする私の前で、国永はパンの袋を開けて、今まさに被りつかんとしているところだった。その手からパンを抜き取る。
「…………」
国永は、非常に不満げに眉を寄せる。
「これ食べるより先に、答えて」私は負けじと彼を睨んだ。「なんであんな嘘吐いたのよ!」
「なんでって、あれが一番、さっさと収束するでしょ」
「他に方法はいくらでもあったでしょ!」
「たとえば?」
「たとえば……」えっと、と言い淀み、考え込む。……出てこない。
ほらね、と彼は肩を竦める。
「で、でもだからって、付き合うとかいうのは……そういうのは……か、軽々しくしてはいけませんっ!」
「なんで急に敬語」
なんとなく恥ずかしかったからだ、とは口にしたくなかった。どうせ彼のことだから、勘付いているだろうが。
「そもそもお付き合いというのは、いろいろと段階を踏んで、正式に申し込みをした上で始まるものであってからに、あのように騙し討ちのようにスタートするものでは決してなくて……。きちんとお互いの合意の上で……場合によっては責任問題を孕む、軽んじてはいけないものであって……」
むにょむにょと言い募る私を見据えた国永は、ぽつりと呟いた。
「古比奈って、お嬢さまだったんだね」
どういう意味だ。喧嘩売ってんのか。
「大丈夫だよ」彼はふっと笑った。「ほとぼりが冷めてから、古比奈から振ったことにすればいい。はい、話終了。パンちょうだい」
伸びてきた手をぺしりと叩いた。
「そういう、簡単な、問題じゃないのっ! これがまかり間違ってお母さまの耳に入ろうものなら……」
想像するだに恐ろしい。私はぶるりと身体を震わせた。私の知らないところでなんやかんやと話が進んで、勝手に披露宴のセッティングがされていてもおかしくはない。あの人は、そういう人だ。ちょっと……いや、だいぶ、思い込みが激しいのだ。
しかし私の母を知らぬ国永は、どうもことの重要性がわかっていないようだ。どうでもいいからパン返してよ、と訴えている。
「あんたの人生まで掛かっちゃってんだから、真剣に考えてよ!」
「俺の?」
「そう。下手したら本当に私と結婚することになるかもしれないの」
「へえ。別にいいけど」
「…………は?」
唖然とする。
「古比奈なら、いいよ」と繰り返した国永は、更に言葉を続けた。「だからとりあえずパンを返して」
「…………」
途端に冷める。ああ、なるほど。なるほどね。この男、単にこの場のやり取りよりも、食欲の方が勝っているだけじゃないか。別に私がどうのっていう話ではなくて。
そんなに、パンの方が大事か。
むっとした私は、つい衝動的に、パンに齧り付いた。
呆然とする国永の前で、口に無理やり詰め込み、完食した。
「……いい食べっぷりだね」
予想に反し、国永は怒らなかった。あくまでいつも通りだ。
……いや。
むしろ、彼は笑った。面白いものを見つけたように。
「それ食べたの、古比奈だから」
俺じゃないよ。きみの所為だからね。引き金を引いたのは、きみだからね。
彼はそう言って、執拗に私の逃げ道を断つ。そんなに取り返しのつかないことを、私はしたのだろうか。途端に怖気づく私の前で、国永は――
きゅるる~。
――腹の虫を盛大に鳴らした。
直後、ぽんっというなんとも軽い音を立てて、国永は消えた。文字通り、跡形もなく。服だけ残して消えてしまった。ふわりと宙を舞った服が、ばさばさと落下する。
「え……? え?」
混乱する私の前で、積み重なった服がもぞりと蠢く。びくっと震えた私の前で、しばらくごそごそ動いていた服の隙間から、三角の獣耳がひょっこりと現れた。
何故か見覚えのある、もふもふの耳。
それは、ぶるぶると震え、自身の小さな身体に覆い被さっていた国永の服を振るい落とした。
ちんまりと座っていたのは、グレーの猫だった。頭のてっぺんには、インクを落としたかのような、黒くて丸い模様がある。見覚えがあるのも当然だ。この猫とは、ほぼ毎日顔を合わせているのだから。
「は、……ハイ、だよね?」
「にゃん」猫は元気よく返事をした。
これは、つまり、どういうことだろうか。
――ちょっと、いろいろ、理解が追い付かない。
わなわな震える私の耳に、屋上に続く階段を上る足音が聞こえた。
「え。ちょ、噓でしょ。今?」
よりにもよって、なんで今なの。なんでもう少し時間的猶予をくれないの。
屋上の扉と、グレーの猫と、国永の服を交互に見る。これを見られると厄介だ、という考えは辛うじて働いた。弾かれたように私は動き始める。足音はもう近くまで聞こえてきている。時間が無かった。
私は服を乱暴に引っ掴み、フェンスの向こうへ投げ捨てた。こっちは校舎裏に面している。滅多に誰も通らない。それはよーく知っている。
妙にふわふわした軌道に乗って落ちていく服の中に、当然ながら下着も見えて、うぐっと呻く。切羽詰まっていなかったら、触ることはおろか、見ることだって躊躇していただろう。いっそ何も考えられない状況下で良かった。
はあああ、と深く息を吐いた私がフェンスを掴むのと、屋上の扉が開くのはほぼ同時だった。
「あら……誰かと思ったら、古比奈さんではありませんか」
女性の声は、少しばかり尖っていた。私はお嬢さまの仮面を付けて、振り返る。眼鏡を掛けた女性。彼女は生徒指導を務める教師でもある。本来厳しく在らねばならぬ立場。しかし私が不安げな表情を作ると、彼女は咎める色を薄めた。
「ここは立ち入り禁止ですよ」
「はい、先生。存じております。申し訳ありません。ですが……」わざとすっと視線を逸らしながら、困り顔で頬に手を添えた。「扉が開いているのを見つけて、何かあったのではないかと思いましたの。そうしたら、……猫が」
「にゃあ」存在を主張するように、猫が鳴いた。まあ、演技派ですこと!
「そうだったの。何かの拍子に入ってしまったのね」
「ええ、そう思いますわ」
にこりと笑う。内心は冷や汗が常にだらだらと流れ続けていた。
だがこれでも普段から優等生をやっているので、先生はそれ以上私を疑うことはしなかった。
「でも、次からは先生を呼ぶようにしてくださいね」
「はい、そう致します。あの、先生、わたくし、猫を連れていってもよろしいかしら」
「どうぞ。……随分と人懐こい子なのね」
抱き上げても大人しいままのハイを見て、先生は目を細めた。
人懐こいなんてとんでもない。いつもは抱っこなんてさせてくれませんよ。これで通算二度目です。と主張したいところを、泣く泣く我慢する。
淑女の仮面を崩さないまま、私は静々と頭を下げ、屋上を後にした。
……ああ、死ぬかと思った。(精神的に。そして社会的に)